徳宿城(とくしゅくじょう)

概説 徳宿城跡は、七瀬川(鉾田川)が東に大きく曲る中央部の左岸側を南へ突出する舌状地上にある。台地の東と南は急崖ですぐ下は水田(細い谷津田)で、西側は崖下を県道が走り、宅地があって水田となる。標高29mほどで、水田面との比高差は約21mを測る。城跡は台地の端にあるため、北側に空堀があって内側に土塁が築かれている。堀は東から西へ走り、西側は県道の所で堀切になる。本丸跡は山林と神社地で木造の祠と石祠が建っている。また、南の崖上の所には徳宿氏事蹟考碑が建っている。鹿島三郎成幹は長子親幹を北部の守りとして徳宿に配し徳宿氏と称した。徳宿氏は子孫を安房、烟田、菅野谷等に配し、鹿島北部の雄としてその任を果した。水戸城主江戸氏の南進によりしばしば戦ったが、文明18年(1486)5月江戸適雅に攻められ同族烟田氏、鹿島氏等の援を受けたが敗れた。城主徳宿三郎延幹(一般に定幹、徳宿邦忠家系図で延幹)は戦死し、初代親幹以来の9代、約300年続いた徳宿氏は滅び廃城となった。子道春幼児にて龍寿丸と称し、家臣磯部兼長に助けられ逃れて那珂西部岩船村に隠れ、後東茨城郡桂村阿波山に移り子孫ここに住す。「『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より」
 城址の西方約550mの「塔の峰」と呼ばれる地には徳宿城主代々の墓があり、北東約3.3kmの常磐原から西勝下(かつおり)にかけての一帯には「合戦場」や「合戦塚」、「血流れ窪」などの地名が残り、徳宿合戦の凄惨さを今に伝えている。また、那珂西城のIII郭南東角の杉林の中にこの戦での134の首級を葬ったという「首塚」がある。
南側からの遠望
その他の写真
  1. 二重の空堀を渡る土橋と土塁
  2. 合戦場付近の現況
  3. 現在残る唯一の合戦塚(高山神社)
  4. 血流れ窪の現況
訪問記[2004/11/29]城址の西側を通る道沿いに城址碑と説明板があり見つけやすい。おまけに、ありがたいことに向かい側には適当な駐車スペースまである。城址碑のところからは1郭へいきなり上がって行けるがこれは1郭に祀った神社への参拝道として後世に付けられたものだろう。1郭はほぼ全周が土塁で囲まれている。北側は2郭と入れ子になるように横矢が張り出している。1郭周囲には幅約20mほどの腰郭が回っている。1郭の北西部分から北へ向かって道が付いており、空堀〜土塁〜空堀と2重の堀で守られている。空堀と空堀の間の土塁上を東へ進むとその先に2郭がある。現在は2郭の北側に接して畑があるが、ここはもともとは3郭であったが2郭との仕切の空堀を埋めてしまったのではないかと想像する。その畑の北側にも土塁があるので一応ここまでが城域だったと思われる。その北側、現在の徳宿本郷の集落は家臣団の居住地だったのかも知れない。
[2006/04/17]徳宿合戦、樅山合戦の伝承地を案内してもらった。
所在地茨城県鹿島郡鉾田町徳宿字古城跡96外。徳宿合戦伝承地は鉾田市常磐の高山神社とその南西方向400mほどの範囲の畑地。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』