概説 | この土塁は阿見地域及び周辺に見られるものの中では、最高に強力なものであり、この地は旧江戸崎本道と木原方面へ続く馬の背道の、合流地点であり、当時は軍事・交通上共に重要な位置を占めていた。[『阿見町史』より] 本土塁は北は美浦村、東は江戸崎町に境を接し、堀を伴った2段比高の土塁である。長さは850mで、高さ約3m幅8mで、深2m幅8mの堀と低土塁を伴っている。また、堀の中には数本の畝堀もみられ、中央の虎口付近には、枡形や馬出し跡も微存している。本土塁の構築者は、土岐氏であり、信太庄西部よりの侵入阻止防塁群の一つである。構築年代は16 世紀末小田原傘下以後であり、構築様式はそれを示している。[現地解説板より] |
道から見える土塁の断面![]() |
雀久保土塁縄張図(『阿見町史』より)(クリックで拡大)![]() |
その他の写真 |
訪問記 | [2000/11/05]前回('98/03/30)は中央の虎口までいけたのに、今日は薮がひどくて近付けなかった。『美浦村お散歩団』一番の勇気ある団員でもさすがに前進できず。次回は逆の西側から攻めてみよう。 [2001/03/06]今日は西側から中央虎口をめざす。土橋の両側の堀はゴミ捨て場になっていて悲しい。畝堀を探すという段階ではなかった。 [2001/05/01]今日は勇敢な友人たちのおかげでとうとう畝堀まで来れた。しかし、なんとか分かるという程度の盛り上がりでした。 [2003/04/13]雨の後に畝堀を見ると畝と畝の間に水が溜まっている。虎口北側の堀は南側の自然の谷津に比べ水気の少ない人工堀のため、この畝は往時も保水効果を狙ったものだったのかもしれない。 [2004/07/01]先日雀久保土塁について気になることを耳にしたので、休みの日に現地を見てきた。土塁の北端部分に土盛りして競走馬育成牧場の走路にする工事が行われていた。牧場関係者は、「阿見町によると土手は阿見百景に指定されているので南側は壊してはいけないが北側は壊すことになる」と言っていたため、阿見町の郷土史研究家O先生にお知らせして教育委員会・文化財審議委員の方々に調べていただいた。それによると、確かに土塁の一部はやられっちまったが、ごく一部であること・全体としては現況のまま残ることなどから致し方ない範囲かといった感想をいただいた。この工事に伴って現在土塁の東側の藪が全て取り払われ、土塁の全長に渉って形状が見られるようになっている。南側部分については破壊は無いとのことだったが、中央虎口の横矢土塁はごっそり削られていた。平日は重機が入って危険だが、日曜日などに見て頂きたい。 |
所在地 | 稲敷郡阿見町大形字雀久保および箕輪、汁垂。美浦村、江戸崎町、阿見町の接する一本松の交差点から450メートル飯倉方向へ向ったところに阿見町が作った解説板がある。 |
参考書 | 『阿見町史』、『阿見町史研究第6号』、『身近な名所事典』(阿見町)。『身近な名所事典』は中央公民館でもらえます。これには、雀久保土塁、下小池城、上小池城、実穀古屋敷、塙城、上条城、立ノ越館など航空写真を交えたきれいな写真がいっぱいです。 |