助川館および蓼沼館

概説 助川城、助川海防城ともいう。
 水戸徳川家の北浜筋の海防拠点として、天保7年4月に幕府に対して海防のための「屋敷構」をするとの名目で伺い出、許可された。館が築かれた助川村大平の要害山には中世の蓼沼館があり、表向きはその修築とされたが、実際は新規築城というべきものだった。築城と同時に、執政兼海防掛であった山野辺義観の家督相続と家老就任、あわせて新設の海防総司の兼務が命じられた。知行地1万石の多賀郡内への引き替えとともに、助川村への屋敷構居住が発令されている。8月に着工、12月には一応の移転に漕ぎ着けた。工事はその後も進められ、完成は天保12年だった。[『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』より]
 蓼沼館の遺構:助川海防城は中世城館である蓼沼館を改築したと考えられているが、改変が激しく中世城館の縄張りを復元することは不可能になっている。
本丸下の模擬石垣
その他の写真
訪問記[2004/09/06]ここは駐車場が無いのが困るなぁ。地元の人は城内に止めていた。本丸下の石垣は昭和36年頃の公園整備のときに組まれた評判の悪い模擬石垣であることは有名な話だが、この石段部分の桝形構造も本来の形状をどれほど再現しているか明らかでないそうだ。それどころか門がここにあったのかすらはっきりしていないとのことだ。そもそもここを城と記述した史料は無く、助川の名称を付けた記述も無いそうで、「館」とか「御館」と記述されているだけだそうだ。そんな話を聞いたので城館名は「助川館」にしておいた。今だに館の構造も縄張りも確認されていないのだから、昭和の公園整備のときに本来の形状を忠実に復元できたとは思えない。ここの遺構らしきものを見るときはそういう視点で割り切っておくのが良いだろう。本丸北側に瓦の破片が土手状になっているが、これはその東側を削平してゲートボール場を作ったときに出てきた遺物の残存だそうだ 。上記の様に館の縄張りははっきりしていないが、城址公園だけでなく、日立工業高校、日立製作所総合病院、助川小学校あたりまでは城域だったと考えられている(小学校北側に土塁が残ると聞く)。
所在地日立市助川町5丁目。太陽の家、ひまわり学園の背後の台地上。
参考書『村絵図に見る日立』(日立市郷土博物館)、『国別 城郭・陣屋・要害・台場事典』