城岱(しろたい)の塁

概説 地元では城山といわれている。
相原周防守について:コシャマインの乱当時、松前大館には秋田安東氏一族の下国山城守定季が館主として居城し、その副将として相原周防守政胤がいたことは『新羅之記録』に見える。相原氏は甲斐の国都留郡相原村の出といわれるが、詳細は不明。推考すれば名に胤の字を付しているところから千葉氏か相馬氏の系統に属する人かもしれないが、津軽の江流末郡に相原の地名があり、おそらくはこの相原からの移住者であると考えられる。
 政胤没し、その子季胤が嗣ぎ、明応5年(1496)下国定季の子恒季も大館主になったが、不行跡な行為が多く、宗主秋田安東氏に滅ぼされ、その館は季胤が守将として管理していた。永正10年(1513)、大館はアイヌに攻められ落城。守将相原季胤、副将村上政義は戦死。蠣崎光広は大館落城後直ちに入城これを入手、主家安東氏の許可を取り付け翌年上ノ国から移って待望の大館館主 となり、松前氏の基礎を築いた。このアイヌの乱は蠣崎氏の陰謀であったと考えられる。
相原周防守の伝説:七飯町には相原周防守政胤にまつわる伝説が多い。城山は相原氏の館のあったところといわれ、軍川は政胤(季胤?)戦死の地であるといわれる。相原政胤は城岱に砦を構え、コシャマイン等と戦ったといわれ、その砦と思われる遺構らしきものが城岱に発見されている。永正10年(1513)の大館落城の時、政胤の子季胤は白馬にまたがり二人の姫とともに大沼へ入水自殺した。主を失った愛馬は湖岸をいななきながら内浦岳の方へ消えたことから、この山を駒ヶ岳と呼ぶようになったという伝説が永く伝えられている。大沼中央部よりやや北東側にある「くらかけ岩」は季胤が湖中に逃れ愛馬の鞍をこの岩に掛けて自刃したといわれる。
 七飯町周辺に相原氏にまつわる伝説が多い理由として、(1)相原政胤は津軽地方から蝦夷地に入ってまず七飯の城山に居城してこの地方の開拓に当たり、選ばれて大館副将となり、松前へ移った。(2)その子季胤は大館守将となったがアイヌの反乱や蠣崎氏の攻撃で悲運の最期を遂げたが、英雄不死的な住民感情が大沼入水、駒ヶ岳の伝説を生んだのではないかと『七飯町史』は推察している。
相原周防守の城館と考えられる遺構:  昭和45年、古記録や伝説に合致する相原周防守の城館と思われる砦跡が上藤城の城山で発見された。標高140m〜220m付近に、長さ東西45m、南北260m、高さ平均1.45mの郭が発見され、その内と外には幅1m、深さ70〜80cmの堀が残っており、その各所に古い石垣も発見されている。
問題点:(1)道南地方に残されている中世館跡には石垣積は未だ発見されていない、(2)土塁として考えた場合には高壁が低い、(3)館の規模として考えた場合、南北の延長が長すぎる、(4)内陸にある城岱に砦を築く理由は何であったか、など疑問が残る。
[以上、『七飯町史』、『七飯町史続刊』、『はこだて歴史散歩』などを参考にした]
国道5号線ハセスト前からの遠望(中央手前の山)
その他の写真
訪問記[2003/08/04]なぜ大館の副将相原周防守の城館が七飯になければならないのか、いまひとつ落ち着きが悪い。ここ城岱の塁は今のところ伝説の域を出ないが、城山という地名などに何らかの事実が隠されている可能性はある。
所在地亀田郡七飯町上藤城。国道5号線ハセガワストアー藤城店の北東約1.5km付近。
参考書『七飯町史』、『七飯町史続刊』、『はこだて歴史散歩』