概説 | 常陸大掾氏の一族である島崎氏は「南方三十三館」と称される鹿島・行方両郡の諸豪族の筆頭的地位を有していたが、天正19年2月佐竹義宣によって滅ぼされた。 以下、郭の名称は「図説中世城郭事典」に依る。また、現地の教育委員会の説明板の記述に依れば郭Iと郭IIの間の空間は馬出と呼ばれているようだ。 |
東側からの遠景 |
周辺図(クリックで拡大) |
その他の写真 |
訪問記 | [2001/04/29]なかなか豪快な作りの城。土塁も堀もよく残っている。縄張図を見ると郭Vの北から西へかけては執拗に横矢が設けられている。県の依託を受けて1週間に1回程度(普段は日曜日の午前中)見回りをしていると言う方に聞いた話に依ると:水の手郭には井戸跡があって今は2mくらいの深さまで埋まっている。御札(みふだ)神社のある郭Iの北側土塁を「鐘突き堂」と呼んでいた。神社から見渡す風景は昔とあまり変わっていない。しかし郭Iを取り囲む土塁はもっと残っていた。発掘調査時に発見された貴重な遺物は再び埋め戻した、などなど。 |
所在地 | 行方郡潮来町島須。御札神社が目印。 |
参考書 | 『図説中世城郭事典第一巻』、周辺図は『堀之内大台城』p18を参考にしました |