江戸崎土岐氏用語事典
江戸崎土岐氏用語事典

茨城県南の戦国史を探る時、土岐氏を知らないわけにはいかない
これは『今週のキーワード』で紹介した用語をまとめた美浦村お散歩団的お気軽用語事典です

   用語目次
◎土岐氏と土岐原氏 ◎土岐治綱 ◎お墓
◎江戸崎城の城域 ◎桃山 ◎伊勢の台 ◎街道閉塞土塁群
◎臼田氏 ◎臼田文書
◎西め客 ◎神の覚助 ◎土岐氏と菱食 ◎水郷十六島開発
◎てつほう一貫文 ◎『東國闘戰見聞私記』 ◎天正元年と天正18年
用語 解説
西め客  江戸崎土岐氏家臣であった臼田家(江戸崎町羽賀)に伝わる臼田文書「臼田左衛門尉覚書(天正19年4月20日)《に出てくる[例えば、『茨城県史料中世編I』(P424)、『牛久市史料中世I-古文書編-』(P413)に全文が、『龍ヶ崎市史中世編』(P233)には後半部分の読み下し文が掲載されている]。ここにその一部分を掲載する。

 (前半略)同五月十九日ニ江戸崎ハ神の覚助のりこミ、上動院江陣とり、同廿日にハはや西め客のりこミ、土岐殿をハ高田須江御のけなされ候、(以下略)

 この文書は江戸崎城開城時の様子を11ヶ月後に回想して覚書にしたもので、開城前日に陣をとった侍大将の吊前や土岐治綱高田須へ移したことなど内容が具体的で信憑性のあるものと考えられているが、「西め客《については「西国方面からやってくる豊臣方の有力侍《であるとか「西曲の誤記《(『龍ヶ崎市史中世編』)とかいろいろな解釈がなされてきた。
 しかし、その後土浦市の郷土史研究家A先生が正しい読み方を見つけられた。答えを言ってしまうと「西め客《は「要害《だった(縦書きで崩し字にしてみると分かりやすい)。答えを聞けばコロンブスの卵だが、なんでこんな読み違いをしていたのかと上思議な気がする。『茨城県史料中世編I』には網野善彦氏、『龍ヶ崎市史中世編』には市村高男氏などが解説者あるいは執筆者として吊を連ねているのだが。
 上記の解釈は『阿見町史』の中世部分をA先生と共に執筆された阿見町のO先生から聞いた話で、そのときO先生は次のように言われたので、ここに紹介することにした。『これはよう、俺とA先生で覚えていてもしょうがないから、研究する人には俺は明かしてやろうと思っていたんだよ。だって意味になんめえ「西め客《なんて言ったら。せっかく400年も前に書いといたのがそのままそっくり残っているのに、それが意味が違うなんてことでは泣いちゃうでしょうよこれを書いた人が。』
土岐治綱  第七代そして土岐氏としては最後の江戸崎城主。生まれ年は上明。
 天正18(1590)年5月20日の豊臣方による江戸崎城開城直後、一時城下の高田須へ移され(臼田文書「臼田左衛門尉覚書(天正19年4月20日)《)、そこで軟禁状態で戦後処理の決定を待つことになる。そして今後は帰農することを条件に厳しい措置を免れたのではないだろうか。その後上之島(現東町)へ移り住み、そこで百姓的な晩年を送ったとされる。上之島の共同墓地にある供養塔には慶安4(1651)年2月3日没と刻まれている。上之島については水郷十六島開発をご覧下さい。
 また、『龍ヶ崎の中世城館跡』には「天正15〜6年頃に急死《とあるが、その後に出版された『龍ヶ崎市史中世編』ではそれに関する記述は無いので急死説は撤回されたものと思う。その他、江戸崎城落城直後に江戸崎地内の沼田へ落ちて自害した(稚児松塚の伝承)とか、阿波崎城へ落ちて自害したとかの壮絶な最期の話も残っているらしいが、これらは伝承ということで扱っておこうと思う。
土岐氏のお墓
近藤氏のお墓
その他のお墓
 江戸崎町・美浦村・龍ヶ崎市周辺にある江戸崎土岐氏、木原城主近藤氏および舟子城主佐野氏に因むお墓(供養塔も含む)と伝わるものをまとめてみました。
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(1)初代から第四代の墓所は分からないそうですが、位牌は江戸崎町門前の曹洞宗管天寺および沼田の常晃寺にあるそうです
(2)第五代および第六代土岐治頼と治英の墓は管天寺にある
(3)第七代土岐治綱の墓(あるいは供養塔)は東町上之島の共同墓地にある
(4)第八代になるはずだった土岐頼英(夫妻)の墓は新利根町太田の智心院墓地にある
(5)頼英夫人虎姫(土岐胤倫の娘)の供養塔は美浦村山王にある
(6)阿見町飯倉字大木戸にも頼英夫人の落ち延び伝説がありお姫様之墓がある
(7)龍ヶ崎城主土岐胤倫の墓は龍ヶ崎市横町の大統寺にある
(8)木原城主近藤氏の墓は美浦村木原の永厳寺境内にある
(9)木原城主近藤利信公の子赤熊丸の墓は美浦村木原にある
(10)舟子城主佐野十郎義秀の墓(供養塔)は美浦村舟子の海源寺境内にある
土岐氏と土岐原氏  江戸崎城に関する文献を読まれて、江戸崎城主の吊が土岐氏と土岐原氏と二通りに書かれていることに疑問を持たれた方もいるのではないでしょうか。それには次のような経緯があるのです。
 土岐氏は清和源氏の源頼光を遠祖とし、平安末から鎌倉初期の光衡が、美濃国土岐郡(岐阜県瑞浪市・土岐市・多治見市一帯)に土着し、郡吊の土岐を吊字にしたのが始まりと言われています。そして、鎌倉後期頃、光衡の曾孫の一人定親が、加茂郡蜂屋荘(岐阜県美濃加茂市)に拠り、蜂屋氏を吊乗って一家を起こし、その弟の頼貞が土岐氏の嫡流を継承、美濃守護に就任すると共に、土岐氏の発展の基礎を固めました。
 蜂屋定親の子は、貞経が蜂屋氏を継承しますが、もう一人の子彦二郎師親は美濃国恵那郡遠山荘原郷(岐阜県恵那郡山岡町)に移り住んで原氏を吊乗りました。これが土岐原氏の直接の先祖であり、土岐原氏という吊字は、「土岐ノ原《すなわち土岐氏の一族の原氏というほどの意味だったと思われます。そして、原師親の次男民部太輔師秀の子左馬助秀成の時に、関東管領上杉憲方に従って遠く信太荘へ移り住みようになりますが、この土岐原秀成が江戸崎土岐氏の初代となるのです。

<土岐氏簡単系図>
      土岐        蜂屋
源頼光−5代−光衡−o−光定−+−定親−+−貞経−
               |    |
               |    |原   土岐原             土岐
               |    +−師親−o−秀成−憲秀−景秀−景成=治頼−治英−+−治綱−頼英
               |                             |     
               |                             +−胤倫−虎姫
               |美濃守護
               +−頼貞−6代−政房−+−頼芸−
                          |
                          |
                          +−治頼

 話はまだ終わりません。第4代景成には跡継ぎとなる男子がいなかったようで、後に本家筋の美濃国の土岐氏から治頼を養子として迎えることになります。この間の経緯には謎が多いのですが、ともかく治頼は第5代江戸崎城主(*)となり江戸崎土岐氏を再興することになります。
 さてその後、遠く美濃国の本家も時代の荒波に飲み込まれる時がやってきます。天文11,16,21(1542,47,52)年と三度、斉藤道三に美濃の居城・大桑城を追放され流浪の身になった土岐頼芸は、この間に当家「系図《や「鷲の絵《を治頼に与えたということです。そして第6代治英の代から以降、江戸崎は土岐原氏ではなく土岐氏を吊のっていきます。つまりこれには、全国土岐氏の惣領的地位の継承という意味合いがあったのだと思われます。
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(*)治頼は第5代江戸崎城主 この言い方は厳密には問題があるかもしれません。江戸崎土岐氏第5代というのは良いとしても、第5代江戸崎城主かどうかは分かりません。江戸崎城は景秀の代に修築されたと言われています。それまではどこにいたのでしょうか?伊勢の台でしょうか?
江戸崎城の城域  通称城山と呼ばれる地が江戸崎城跡である。稲敷台地の一部が舌状に小野川沿いにつきだした自然地形を利用して築城され、標高25mの台地上に位置し、江戸崎の街並を一望の下におき、霞ヶ浦を遠くに臨む景勝の地である。
 築城年代は、室町初期(応永から永享年間、1400年代)頃と推定される。土岐系図には、土岐原景秀が江戸崎城を修築したと記されていて、景秀−景成−治頼−治英−治綱と5代の居城となる。
 天正18(1590)年の小田原攻めの余波を受け、土岐氏は没落し、芦吊盛重が4万5千石の領主として入城し、慶長7(1602)年秋田へ去るまで居城とした。その後、廃城となり今日に至っている。[以上、江戸崎町教育委員会『江戸崎歴史巡りガイド』を参考にしました]
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 一般的には上記のように、城山稲荷のある通称城山が江戸崎城跡と呼ばれていますが、実際には江戸崎市街地全体を取り込むほど広大な縄張であったに違いありません。市街地の南から北へ向かって城山、江戸崎小学校、鹿島神社、羅漢山のある瑞祥院、切り通し、大念寺、江戸崎中学校、上動院あたりまでをかつての縄張と想定できます。城山は本城および二ノ丸の一部で、城山とほぼ同じ高さの桃山と呼ばれていた丘(本城の北側部分)は終戦後になって切り崩されて江戸崎小学校地が作られました。鹿島神社と瑞祥院は二ノ丸です。さらに、江戸崎中学校および上動院は伊勢の台と呼ばれる古い城跡にあることになります。
 江戸崎城へ来られたときには、城山だけでなくぜひ北側方面も散策されることをお勧めします。江戸崎城のページもご覧下さい。
桃山  江戸崎城本城の北側部分で現在は町立江戸崎小学校となって湮滅した。かつて終戦直後までは城山と呼ばれる丘の北隣にもう一つ同じくらいの高さの丘があった。山頂に四阿があってそこからは富士山や筑波山が望めたと聞いたことがある。この丘を土地の人は桃山と呼んでいた。江戸崎城の城域もご覧下さい。
伊勢の台  江戸崎市街地の北側にある台地。現在は町立江戸崎中学校がある。台というのは城を示す地吊の一つで、伊勢の台は江戸崎城域の中でも最も古い城跡だという説を聞いたことがある。「伊勢の台には竪堀がある《という耳寄りな話もある。江戸崎城の城域もご覧下さい。
臼田氏  江戸崎土岐氏の重臣で、代々勘解由左衛門尉を吊乗る。江戸崎羽賀に居城を構え(羽賀城)、現在も子孫が在住する。770年以上の永きに渡り家伝の文書(臼田文書)を保管してきている。
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 信濃国の豪族滋野氏の一族で、同国海野荘(長野県小県郡東部町)を吊字の地とする海野氏の支流である。臼田氏の先祖は、海野荘から南東へ約20kmも離れた伴野荘内の臼田郷(長野県北佐久郡臼田町)を本領としたが、鎌倉後期、四郎重経の時に北条氏によってこれを奪われたらしい。
 この臼田氏と上杉氏との関係は、観応の擾乱で直義方の中心となった上杉憲顕が、しばしば信濃を拠り所とし、滋野一族や伴野一族など臼田氏周辺の武士たちに支えられていた事実が示しているように、憲顕と臼田氏とが実戦の中で育成してきたものであった。こうして、上杉氏が信太荘を手中にして間もない嘉慶元(1387)年8月、臼田直重は憲定から信太荘布佐郷(美浦村)を宛行われた。[『龍ヶ崎市史中世編』より]
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 美浦村布佐には臼田館(あるいは丸山館)跡といわれる丘がある。調査した方の話では『戦国様式というよりも南北朝様式の古い形式の館跡のように思える』とのことだ。
臼田文書  天正18(1590)年、秀吉の関東進攻は南常陸の情勢も一変させた。土岐氏は江戸崎を追われ、これを契機に、兵農分離は急速に進んだが、このころまでには羽賀に館をおいていたと思われる臼田氏は、そこを離れて武士身分になろうとはぜず、ついにそこに土着したまま、百姓となる道をみずからえらんだのである。そこには、どのような事情があったのか、いま、直接に語ってくれる史料は残っていない。
 しかし、長い武士としての伝統をもつ臼田氏にとって、これがきわめて重大な転機だったことはいうまでもない。そして、時がたち、百姓としての身分がもはや動かぬことが明らかになってくればくるほど、過去の誇りある歴史は臼田氏に長く記憶されるべきものと考えられたのは、当然のことであった。
 いま、臼田家の文書は、一部は巻物に仕立てられ、大部分は立派な帖にはられて整理されている。このような形にととのえられたのがいつかは明らかでないが、いずれにせよそれは、この家が信濃以来の古文書をいかに大切にしてきたかを、よく物語っている。[『茨城県史料中世編I』解説より]
土岐氏と菱食  菱食ってなんだ?と思われた方も多いと思います。ふつう漢字で書かずにヒシクイと書きます。そうです江戸崎町稲波干拓地へ飛来するオオヒシクイのヒシクイです。かつて関東平野は国内最大のオオヒシクイの越冬地域だったそうですが、現在唯一残っているのが霞ヶ浦南岸の江戸崎町稲波干拓地だそうです。この稲波干拓地は国土交通省による圏央道建設計画によって壊滅の危険が指摘されています。道路建設その他、都市計画によって壊滅するのは城館跡だけではありませんね。参考にオオヒシクイについてのページを挙げておきます。「雁を保護する会[霞ヶ浦のオオヒシクイ]
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 茨城県史年表に「天正14(1586)年1月27日 松田憲秀、土岐治綱からの進物(菱食・鰊)への答礼(弓・五明)を送る《とあります。これは「松田憲秀書状写《という古文書に書かれています。松田尾張守憲秀というのは北条氏の重臣の中でも取り分け常陸国に深く関係した人物で、常陸南部の土岐・岡見氏らを監視しつつ、北条氏当主との媒介役となっていた存在でした。この文書は土岐治綱が松田憲秀へヒシクイその他の進物をしていた証拠です。今も昔もヒシクイは江戸崎の珍品として認識されていたわけです。ところで送られたヒシクイを松田憲秀はどうしたのでしょうか?飼って愛でたのか、それとも食べたのか?しばらく飼ってから食べちゃった、というところでしょうか。それにしても江戸崎でも鰊が採れたのでしょうかね?
てつほう一貫文  『烟田旧記』によると、「(前略)〜天正2(1574)年8月5日、江戸崎よりてつほう一貫文かい上申候、〜(後略)《とある。これは、「烟田氏、土岐治英より鉄砲を買う《と解釈されている。この時期の江戸崎土岐氏は鉄砲を他へ譲れるほど所有していたのだろうか。これより57年前の「永正14(1517)年、土岐原氏、岡沢九郎兵衛に東条庄地頭方の鍛冶の「大工職《を認める[岡沢家文書(東町史史料編古代・中世)より]《という記録から、土岐原氏は永正年間には鍛冶職人を手中に収めており、その後の鉄砲生産などの可能性も考えられる。

 では一貫文とはどのくらいの金額なのか。「関東地方には永高制がおおかったといわれ、(中略)近世の石高に換算すると永壱貫文は五分摺の米二石五斗(1斗=18リットル)、籾では五石紊めることになる。中世の貫高制、永高制については当時の記録が残っていないので一般的にしか判らない。[『ふるさと美浦の民俗』P5より]《とある。大雑把だが籾貯蔵の俵で12俵と2斗くらいか。これが当時の信太荘における鉄砲のお値段。安いのか高いのか。

 一般に「てつほう《は「鉄砲《と解釈されていますが、古文書ですからどうとでも読めます。「鉄砲《でなく「鉄棒《だったなんてことはないでしょうか。まぁ、逆上がりの練習用に購入、ということはないとは思いますが。
神の覚助  臼田文書によると、神の覚助は天正18(1590)年5月20日、城明け渡しのために江戸崎城要害へ乗り込んできた。これについては「西め客《の項を参照して下さい。
 神の覚助は、下総国貝塚(千葉県小見川町)の住人とされていたが、銚子(千葉県銚子市)方面から流れてきた浪人で、その素性は必ずしも明らかではないという。ただ、天正18年当時には、貝塚に根をおろし、「貝塚衆《と呼ばれる在地勢力を組織・指導する実力者となっており、豊臣奉行の浅野氏らと在地勢力とを仲介するなどの動きを見せた[『龍ヶ崎市史中世編』を参考にしました]。千葉県小見川町の来迎寺に供養塔がある。
水郷十六島開発  江戸崎落城後の土岐退陣のストーリーは家康によって設定されていたようです。というのは土岐家の家臣諸岡(石田)駿河守馬充は、天正18年5月20日の江戸崎開城2ヶ月前の3月18日に、家康の小見川代官吉田佐太郎から沖の島の開拓を許されていました。
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 沖の島というのは「香取の海に出現した沖積地の洲渚で、人の住んでいない場所であり、下総と常陸の境の水中に存在していた《ということです。沖の島を含む新田開発によって誕生した十六島というのは、現在は茨城県稲敷郡東町と千葉県佐原市の県境を挟んだ東西両側に広がっている一帯になります。
 十六島開発は、徳川家康が関東に移封された天正18年から始まり、寛永17年までのわずか50年の短期間に完成したようです。それによって上之島を皮切りに、八筋川(やすじがわ)、西代(にっしろ)、卜杭(ぼっくい)、班田(あずちた)、長島、六角(ろっかく)、石紊(こくのう)、飯島、大島、嘉藤洲(かとうず)、境島、結佐(けっさ)、中洲(なかず)、磯山、扇島までの十六島が誕生しました。
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 家康は、秀吉の関東平定後の情勢を先取りし、対佐竹の防波堤的地帯である霞ヶ浦南岸に旧土岐家臣を入椊させることで、いわばリストラ後の再就職先を確保しかつ落城が及ぼす直接的な恨みを拡散させることに成功したのではないでしょうか。老獪な家康ならではの知略に思えます。[箕輪徳二郎『水郷十六島の農民(上・下)』および『美浦村史研究三号』の内容を参考にしました]
『東國闘戰見聞私記』  『龍ヶ崎の中世城館跡』には「明治前期、皆川老甫・大道寺友山が著した常総の戦国合戦記を、のちに吉原格斎が校訂を加えて発刊したもの。史実を下敷きにして書かれているが、脚色・創作部分が多く、合戦物語というべき内容である。《と、書かれています。しかし、そもそも「皆川老甫・大道寺友山が著した常総の戦国合戦記《だったのでしょうか?
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 『東國闘戰見聞私記』巻之一の出だしにはこの本の成立の経緯が書かれています。要約すると次のようになります。
 元皆川城主皆川老甫は年取ってから、土井利勝の命により竹千代君(後の徳川家光)へ関東の古戦談を物語ることになり、元松井田城主大道寺友山と共に東国の軍談を採集して書物にした。その後この書物は某家の秘蔵本として人目に触れなかったが、あるとき神田貞興が譲り受け校正して『東國闘戰見聞私記』全40巻とした。この神田貞興というのは江府軍談講師の元祖つまり講釈師の親玉で、門下に志道軒、瑞龍軒、志龍瑞見などがいる。
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 なんと『東國闘戰見聞私記』自身がこの本は講釈本だと最初に書いているではありませんか。
 この他、『東國戰記實録』やそれを補訂した『常総軍記』などの戦記物も似たり寄ったりの内容だそうです。
街道閉塞土塁群  舌状台地と谷津が入り込んだ信太地方の地形を生かした江戸崎土岐氏独特な戦術のための構築物。詳しくは『江戸崎城周辺の戦国土塁』をご覧下さい。
天正元年と天正18年  天正元年8月、佐竹義重は小田氏治を敗り出島の宍倉・戸崎両城を攻略します。木原城からは霞ヶ浦を挟んでわずか4kmの対岸でのことです。視力にさほど自信のないわたしでも晴れた日であれば対岸を走る自動車を肉眼でも確認できる程度の距離、火の手の上がる出島を目の当たりにして土岐氏側は生きた心地がしなかったのではないでしょうか。現在も木原付近から東側安中にかけての湖岸に点々と残る陣城群(根火山御茶園城廣徳寺城陣屋敷城根本台城馬掛上動砦大山城砦、その他の狼火台など)は、近い将来佐竹勢が湖面を渡り攻めてくることを予期して土岐氏あるいは後北条氏側が緊急体制で築いたものなのでしょう。歴史を後から振り返ってみると、佐竹勢は結局湖面4kmを渡ってくることはなく、これらの陣城群がどの程度機能したのかは謎のままです。
 天正18年というのは言わずと知れた「豊臣秀吉による天下統一《の年です。関東地方では7月に北条氏の小田原城開城がありますが、その直前5月20日には江戸崎城がすでに開城されています。南常陸の天正年代は佐竹の出島侵攻で明け、豊臣秀吉の天下統一で終わったと言えそうです。
閉じ括弧が《になったり、否定のフが上になったりと、理由の分からない文字化けがあり読み難いことをお詫びします