小和田屋敷

概説 無名の遺構なので、字名をとって屋敷と呼ぶ。先端部の北東側から南東側にかけて、地山を削り残して作ったらしい土塁が廻っている。南東の台地続きに対しては、前述の土塁のへりに更に土塁を作り、防御を強化しているが、その外側に堀切が見当たらぬことは不審である。もっとも、本来堀切があるべき位置の延長線上の西側斜面には、緩い竪堀が二重に掘られている。あるいは堀切は後世埋められたのかもしれない。なお北東側の土塁の外側にも空堀が廻っているが、仮に前述の位置に堀切があったとすれば、北東側の堀と南東側の二重堀とは一連の防御線を形成することになる。[『筑波町史』より]
 [北畠親房滞在城館跡説](戦国時代には)外からの来訪者はたとい高貴な存在であっても、城主と同じ屋根の下で居住することなどあり得ないことであった。それが中世の慣習であった。そうした目で親房関係文書をみてみると(中略)、関城の関宗祐らの使者が「当所・小田方へも御状を」届けに来たと親房御教書に記されるように、「当所」すなわち親房の拠る城館と、「小田方」すなわち小田城とは微妙に区別されていた。では「当所」と記される親房の城館はどこにあったのか。今のところ、この点については不明といわざるを得ないが、小田城跡のすぐ北で、宝筺山麓にある台・屋敷という二つの城館跡があるので、あるいはこのどちらかがその候補になるのではないかと思われる。[『牛久市史 原始古代中世』より]
北側から
その他の写真
  1. 東側の藪の中に土塁・堀が残る(西側斜面の緩い二重の竪堀)
訪問記[2003/01/02]最初見たとき、「これでは湮滅だな」と思ったが、東側の藪の中にけっこう残っていた。『筑波町史』の図の東側半分は残っているといえる。藪の中に直径1mほどの穴が落ち込んでいたが、これって井戸?
所在地つくば市小和田字屋敷。現在、台地先端部には「ラ・フィーネつくばね」が建つ。小和田台の250m北側。
参考書『筑波町史』、『牛久市史 原始古代中世』