額田城

概説 南北800m以上東西1000m以上の巨大な平城。建長年間に佐竹5代義重の子義直が築城し額田氏を称したのが始まりといわれるが、それは現在の阿弥陀寺あるいは鱗勝院の地という説もある。額田氏は山入の乱で滅亡し、その後小野崎氏が城主となるが小田原の役の後小野崎氏の自主独立路線を嫌う佐竹氏の攻撃によって落城する。現在の額田城遺構は佐竹氏によって整備されたものと考えられる。[『図説茨城の城郭』を参考にした]
 詳しくはアオさんの『北緯36度付近の中世城郭』額田城をご参照下さい。
主郭北東角の櫓台。堀底からかなりの水量で水が涌き出ている
その他の写真
  1. 主郭北縁の曲線は相横矢を形成する
訪問記[2007/01/21]とにかくでかい・広い。写真の主郭部東側の堀など幅20mはあると思われる。河川に面した南側から北へ向かって、主郭、2曲輪、3曲輪と連郭式に連なり台地続きの北側への守りを強化している。また、主郭の西側にも郭(現在阿弥陀寺のある)があり、その間は自然の谷津を大規模に改造したと思われる二重堀になっている。今日はその堀へは行かなかったが、かつて阿弥陀寺側から主郭を目ざしてこの二重堀を突破しようとするも泥濘に阻まれたヤブレンジャーがいる。まさに、現在に至って尚要害なのだ。宅地化により主要部を残して湮滅が進んでしまったが、地元の保存会や額田小学校生徒による保存や林の手入れなど好ましい動きも感じられた。
所在地茨城県那珂市額田北郷および額田南郷
参考書『図説茨城の城郭』