江戸崎土岐氏年表  (2004.02.23更新)


この年表は江戸崎土岐氏に関連するできごとを各市町村史の本文および年表、その他の文献からピックアップして作製しました。
特に、木原城関連のできごとは緑字で示してあります。
執筆者ごとの見解の相違や執筆時期による内容の不整合があることをご承知おきください。随時修正していきます。
引用先略号は以下の通りです。なお、引用先略号の後ろの数字は掲載ページです。検索にお役立て下さい。
茨城県[史]料中世編I、茨城県史[年]表、[龍]ヶ崎市史中世編、龍ヶ[崎]市史中世史料編、牛久市史料中世I[牛I]、牛久市史料中世II[牛II][東]町史史料編古代・中世、[阿]見町史、[江]戸崎町史、[美]浦村誌、[御]茶園遺跡、[木]原城記
また、古文書等の出典が分かるものは「」で示してあります。

応永(1394〜) 永享(1429〜) 永正(1504〜) 天文(1532〜) 永禄(1558〜) 天正(1573〜)

年号西暦日付できごと引用先および出典
延元3(暦応1)13388.11足利尊氏、征夷大将軍となる
興国2(暦応4)13419.17足利方の高師冬、小田城を攻めるに先立ち信太荘へ軍を進め別府幸実・屋代信経の道案内で佐倉城・伊佐部城(東条城)を攻め、反転して亀谷城・高井城を落とす龍131
  11.18小田治久、高師冬に降伏。上条は上杉、下条は師冬で分け合う美82
このころ  楯縫神社、高師冬・屋代信経のために社領無禄となる美85、「一宮楯縫神社社伝」
正平4(貞和5)1349 高師直、将軍後継者を直義から義詮に代える。上杉重能を流罪にし、護送途中に殺害阿151
正平5(観応1)135011.12上杉能憲、父重能の仇をうつため信太荘で兵を挙げる(観応の擾乱)阿755
正平6(観応2)1351 高師冬滅亡。信太荘下条は佐々木高氏(道誉)に与えられる美82
  8.-佐野次郎義英、附名古御館の主として小田家より送られ、地名を舟子と改める。その後四代で子がなく廃城となる美91、「福田家文書(舟子)」
   小田孝朝、庶子(母は野州佐野の郷士属門の佐野右京之亮の女)舟子次郎義英を舟子城に配す。義英の被官として木原領に近藤薩摩守の親を送り木原を領す木165、「小田文書」
正平10(文和4)1355 佐々木高氏、近江国へ移り下条の支配者が交替する(小田氏か?)美82,392
正平21(貞治5)1366 初代木原城主、近藤民部正利貞出生美392、「永厳寺過去帳」、「小野木文書」
文中3(応安7)1374 このころ、ふっとの津志た、あんちうの津が小田氏(孝朝)吉原氏の知行下にあり、信太荘は小田氏の領分になっていた可能性がある美83、「海夫注文」(香取文書)
元中4(嘉慶1)1387 上杉憲定、臼田直連に信太庄布佐郷を与える年、「臼田文書」
このころ  土岐原氏、常陸国信太荘惣政所として移住してくる江57、伊藤勲「土岐原史紀」
元中9(明徳2)139210.-南北朝統一 
応永113941.13初代木原城主近藤民部正利貞(利真)、長応和尚を招き神越山実照院永厳寺を開基[所在地は移動前の領土内カ]美83,88、「永厳寺寺伝」
応永21395 上杉憲方の子憲定に信太荘上条下条が安堵される阿155、「上杉家文書」
応永初年  近藤民部正利貞、東条荘下条伊佐部(現東町)に来住阿156
応永71400 近藤民部正利貞、天真自性を拝請して、神越山永厳禅寺を創立開山美88、「永厳寺寺伝」
応永1614093.25信太荘惣政所に土岐原秀成(浄瑞)の名がみえる美393、「円密院文書」
応永171410 松葉市郎兵衛位牌に「喜参善光禅定門」応永十七年正月、機堂長応(花押)とある美393
応永1814119.6土岐原左馬助入道沙弥浄瑞(秀成)、円密院に紛失状を出す年、「円密院文書」
応永2414175.-上杉憲基、臼田貞重に勘解由左衛門尉の官途を推挙する年、「臼田文書」
応永25141811.19土岐原秀成の子憲秀、佐倉の毘沙門堂別当に諸岡右京亮の子幸明丸を「庄主玄航」が補任するのを承認する文書を出す年、「円密院文書」
応永3014238.2土岐美作守、鎌倉府方の一員として小栗満重の居城を攻める史364、「鳥名木文書」
応永3114241.23上杉憲実、臼田勘解由に東条荘下条市崎郷(現東町)を預け置く年、「臼田文書」
応永3214252.9沙弥定勝(臼田貞重)、孫臼田貞氏に信濃国海野荘や武蔵国帷郷の所領を譲与する年、「臼田文書」
正長114288.27鳥名木国義、山入与義の残党退治のため、土岐景秀に従って野口城(現御前山村)を攻撃年、「鳥名木文書」
永享31431 第二代城主近藤民部大輔藤原朝臣利春、城郭の一画に伽藍を建立、実照山永厳禅寺と改める美88,393、「永厳寺寺伝」
永享71435 鹿島神社が富有者名を書き出した名簿「富有仁等注文」を奉行所へ提出。その中に南郡辺室村と田余郷(ともに現玉里村)の地頭、土岐左馬助入道の名がある阿156、「富有仁等注文」(続常陸遺文)
永享1214406.12関東管領上杉清方、「信太庄契約人々中」に対し、御旗警固を命じる(結城合戦への軍勢催促状に相当)江60、「臼田文書」
  12.15土岐原景秀、鎌倉府より霞ヶ浦の海賊取締を命じられる年、「鳥名木文書」
嘉吉114414.16土岐原景秀、結城合戦に参加阿757
文安314462.18上杉憲景、臼田政重に河内郡遠山郷・足高郷・浜田村や北郡大増郷などの所領を譲与する年、「臼田文書」
文安4144711.7臼田氏、一族が一味同心して佐竹義従に味方する起請文を書く年、「臼田文書」
宝徳314517.29上杉憲忠、臼田河内入道に豊田荘内笠間御台へ分与する下地の引き渡しを命じる年、「臼田文書」
康正114555.1上杉房顕、信太荘にいる家臣団に対し、下総攻めに参戦するよう命じる年、「臼田文書」
  11.10細川勝元、土岐原景秀に信太荘内の上杉氏家臣団の結束と幕府への忠節を命じる
  11.-土岐原景秀、室町幕府より所領を安堵される美393
康正214565.10このころ、土岐原景秀らが東条荘内の二階堂盛秀跡を与えられる年、「臼田文書」
長禄3145911.-鎌倉府(関東管領)と古河公方(足利成氏)の間で信太庄合戦が起きる江61、「御内書案」
文明21470 土岐原景成を檀越に、江戸崎に山門無動寺(不動院)開山美100,393
文明314713.7熊野大社の売券に江戸崎の地名がみえる(古文書に江戸崎が現れる最古のもの)江358
文明81476 土岐原景成、木原社を修復阿159、「木原社棟札」(安得虎子)
文明141482 近藤民部正藤原利貞没美393、小野木文書
長享21488 近藤式部大輔ノ兄利春没美393、小野木文書
延徳21490 土岐原景成、江戸崎の管天寺を創立阿159
明応21493 継庵道胤、海源寺を創立開山(開基は舟子城主佐野吉秀)美91、「海源寺寺伝」
明応614975.17土岐原景成没。江62
明応91500 土岐頼芸、生まれる美67
文亀115017.-土岐原源治郎を大旦那、佐野吉秀を旦那として舟子海源寺に外護の手をさしのべる美67,393、「海源寺本尊膝前墨書」
永正11504 河内郡伊佐部(現東町)城主近藤氏、居城焼失し、神越(木原)の城へ移り、永厳寺へ田畑山林を寄進美88,394、「永厳寺寺伝」
永正315067.3御殿棟上、第三代木原城主近藤式部大輔藤原利勝、神越村を木原村と改める。永厳寺永五拾四貫文の寺領と申也美88,394、「永厳寺寺伝」
永正4前  土岐原氏家臣臼田弥次郎、近藤八郎三郎(勝秀)被官原内匠助ら数名、小田と内通し江戸崎乗っ取りを謀るも発覚江62、「上杉顕定感状」(臼田文書)
永正7〜91510〜 このころ小田氏、江戸崎城を攻め落とした可能性あり阿161
永正91512 土岐原源二郎、小笠原氏隆から兵法書「訓閲集(きんえつしゅう)」を学ぶ[このころ江戸崎城は土岐原氏の手を離れていた可能性あり]阿161、「土岐古状之写」(安得虎子)
永正1115144.21小田成治没し、小田政治後を嗣ぐ
永正131516 小田政治の被官菅谷勝貞、土浦城を攻め城主若泉五郎右衛門を滅ぼす阿162
永正1415176.18小田政治、岡沢九郎兵衛に東条庄地頭方の鍛冶の「大工職」を認める牛I 288、「岡澤文書」
大永31523閏3.9土岐原治頼、八代(屋代)城を攻略。龍ヶ崎を足掛かりとして信太荘奪回作戦を開始。小田軍も破る阿162、「幸田成友所蔵文書」、「臼田文書」、「真壁文書」
  4.19上杉憲房、土岐原治頼・近藤八郎三郎らと相談して、小田政治との合戦の際の軍忠に対し臼田河内守に感状を与える年、「臼田文書」
大永515254.26土岐原治頼、近藤八郎三郎藤原勝秀・土岐原親類孫九郎頼基らと久野の観音寺観音堂を再建東324、「観音寺棟札」
大永7頃1527 近藤丹後守、土岐美作守治頼の次男・小増丸を養子に望むが、断られる美88,394、「臼田文書」
享禄4頃1531 小田政治、木原城を攻略した可能性あり木167、「日輪寺文書」
天文111542 土岐原治頼、伊佐津竹内城を攻め、金剛寺甲斐守近衛光寿を逐う。間もなく江戸崎城も回復したと思われる。土岐原治頼の兄、土岐頼芸、斎藤道三に美濃を逐われる阿163
  2.10「永厳寺旧記録」を記す・現住大川叟、後天正10(1582)年壬午年孟春(1月)13世岳雲○礼写置美88
  9.1このころ、土岐頼芸、土岐原治房に系図・鷲の絵を送る年、崎286
天文121543 土岐頼芸、治頼に家牒を譲る。治頼、土岐家の総領となり、苗字を土岐に復す阿163
天文171548 小田政治没。子の氏治、後を嗣ぐ阿163
天文231554 土岐越前守(治英の弟頼勝カ)安見と若栗の野境争いの調停をする。若栗村地頭にはたの(波多野)山城の名がみえる阿163、「御めやすの事」(湯原尹氏蔵文書)、「木原社の大般若経奥書」(安得虎子)
   近藤利勝、娘(時姫)の虎の刺繍を永厳寺へ寄進。美88,394、「永厳寺寺伝」
弘治2(天文25)15563.-大谷城主波多野刑部少輔(秦宗治)、信太庄大檀那として一の宮楯縫神社に大般若経を奉納御162、「安得虎子」
  5.-土岐治英、大旦那として馴馬の来迎院の多宝塔を修築龍181
  12.14土岐治頼没。治英、土岐氏の惣領となり、大膳大夫を称する江359
弘治4(永禄1)15583.-土岐治英、大野三河守等に「ちくいり島、柳島、ふかま島」(河内村近辺と思われる)等の野地の開発を命じる[南方(龍ヶ崎方面)の拠点づくり開始カ]江65、「大野家文書」
永禄21559 土岐原越前守、久野郷(牛久市)の領主として確認される江65、「観音寺棟札」
永禄41561 上杉謙信、小田原城を攻める。佐竹・小田氏らの率いる諸将の中に土岐大膳大夫の名がみえる阿164
  4.-土岐治英、貝原塚氏胤を攻める江359
   土岐原越前守、若栗と阿見の境争論を調停する江65
永禄515622.22土岐治英夫人没江66、「常陸日月牌過去帳」
  7.28上杉輝虎(謙信)、土岐治英に関東出兵を知らせ参陣を求める江359
  10.30江戸忠通が土岐治英に佐竹義昭の出陣を知らせ参陣を求める江359
   [上記2件に関し土岐治英の参陣の有無は確認できないが、むしろ小田氏とは友好関係を持っていたようである]江66
   土岐治英(?)、大谷の波多野刑部少輔を根古屋に移す阿166、「木原社棟札」(安得虎子)
   土岐治英、木原城を修築して近藤利勝其子義勝を入れてこれを守らせる御158、「新編常陸国誌第九巻」
   近藤氏、当地(木原)取り立て[このとき近藤氏が入ったのは木原館カ?]御158、「木原社棟札」(安得虎子)
永禄61563 小田氏治、小田原からの勧誘を受け、謙信に背く阿164、「土浦市史」
このころ  土岐氏、北条氏と同盟に入る御158
永禄71564正月上杉謙信、佐竹・多賀谷氏らを率いて小田城を攻め、氏治を土浦へ追い落とす。このとき、土岐治英は動かず。北条方についたものと思われる阿164
永禄815655.-上条・追原(乙原)の野境争い起こり、土岐治英裁定する阿167、「小松沢家蔵文書」
  7.28上杉謙信、関東出兵に当たり、土岐治英に参陣を求める
永禄10156710.-小田氏治、佐竹軍と手這坂に戦って敗れ、またもや土浦城(被官菅谷政貞の城)へ退く阿165
永禄111568 土岐治英、東条庄の峯熊野権現(現桜川村古渡)の社殿を造立。霞ヶ浦に面した北方の拠点整備を進める江66、「安得虎子」
  2.-龍ヶ崎城完成龍185
永禄121569 手這坂の戦。牛久城主岡見山城守、谷田部城主岡見弾正戦死阿169
  10.25佐竹義重、小田城を攻略し、小田氏治は支城藤沢城へ敗走する
元亀11570 佐竹義重、土浦城を攻め落とす。小田氏治、土岐氏を頼って江戸崎城へ逃れる。まもなく菅谷政貞の子範政の奮戦で土浦城を奪還、氏治は木田余城へ移る阿165
   土岐治英、江戸崎城内守護神として鹿島神社を創建する江359
天正115738.-佐竹義重、小田氏治を伐ち、その支城の宍倉・戸崎両城を攻略、12日帰陣。4.12武田信玄没。7.18室町幕府滅亡
  2.27土岐治頼夫人没江359
天正215743.18上杉謙信、土岐治英に関東出兵を知らせ、その母と息子の死をねぎらう
  8.5烟田氏(現鉾田町)、土岐治英より鉄砲を買う年、「烟田旧記」
天正31575 江戸崎監物、八代右京の木原城を攻める木169、「東國闘戰見聞私記」
天正51577 土岐原越前守、久野郷(牛久市)の領主として確認される江65、「観音寺棟札」
天正615787.26梶原政景、木田余城を攻略。3.13上杉謙信没
  9.15佐竹義重、再び木田余城を攻略する(小田氏治、居城を失う)
天正815803.25土岐治英と岡見彦五郎が協力して、多賀谷氏の谷田部城を攻撃する
天正111583 小田氏治、孫の金寿丸を人質として佐竹義重に降伏阿165
   廣徳寺、永厳寺第15代棟庵全梁により開山御152、「茨城県曹洞宗寺院誌」
   「木原館には近藤氏の二代目あたりの殿様が入居していた」御152、「廣徳寺伝承」
   佐竹義重、義宣と芦名盛重らの木原城進攻美88、「東國闘戰見聞私記」
天正121584 土岐治英、麻生之幹の援に応じ、治綱、行方の島崎安定と霞ヶ浦で海戦をする阿165、「新編常陸国誌」、「常陸志料」
  4.25土岐治英没(治綱、あとを継ぐ)
  10.9土岐治綱、徳川家康に江戸崎から馬二頭を献上龍211
天正1315855.21土岐治綱、高野山清浄院に最花を送る
天正1415861.24小田氏治、藤沢城を修築して移る
  1.27松田憲秀、土岐治綱からの進物(菱食・鰊)への答礼(弓・五明)を送る
  6.25松田憲秀、土岐治綱に源八郎(胤倫)の着陣を知らせる
  7.2根古屋城主波多野(秦野)刑部少輔没御162、「位牌」「過去帳」
天正1515877.1国分胤通、土岐治綱に牛久在番の答礼をする
  3.28土岐治綱、古渡智福院の熊野権現社殿を再建
天正161588 北条氏、霞ヶ浦を横断して玉里城攻撃を目標に高浜入り侵犯御161、「佐竹家譜上」
天正171589 近藤利勝・義勝親子、木原楯縫神社を再建。「信太庄木原一宮社殿一宇再建」(木原楯縫神社棟札)美88,394、「安得虎子」
このころ  「とき美作守・竜ケミね、木原三ケ所で千五百騎」美88,394、「小田原北条家人数覚書」、「毛利文書」
このころ  中世末、木原城主近藤薩摩守が愛宕神社社殿を再建(棟札)美38
天正1815901.29藤沢城の小田氏治、梶原政景の小田城を攻めるが敗れる
  3.18徳川家康の小見川代官吉田佐太郎、土岐治綱家臣石田駿河守(諸岡駿河守馬充)宛で沖の島の開拓を許す書状を発給箕輪徳二郎著「水郷一六島の農民」
  3.29北条氏の山中城陥落 
   木原、龍ヶ崎、江戸崎の順に佐竹義宣に降る美88
  5.20豊臣軍、江戸崎城を開城させる。城主土岐治綱は城下の高田須へ移され、その後上之島へ移る史424、「臼田文書」
  5.27佐竹義宣・宇都宮国綱、小田原に参陣して秀吉に謁見する年、「佐竹家譜」
  7.5北条氏直、豊臣秀吉に降伏開城 
天正1915912.9佐竹義宣、南方三十三館の諸氏を太田城に殺す
  11.20江戸崎城主芦名盛重、逢善寺学頭の定珍に、50石の寺領を安堵する年、「逢善寺文書」
慶長6160111.-小田氏治没(71歳)年、「小田本宗支族系図」
慶長71602 芦名盛重、所領没収され秋田角館へ転封される美395
慶長816032.-江戸幕府が開かれる美395
慶安416512.3土岐治綱、上ノ島(現東町)で没江66
寛永71630 土岐頼英、大田(現新利根町)で没江58
昭和41929 木原大火で木原城の絵図面焼失木162


[訂正・変更]
[1]『東町史史料編古代・中世』P317は「永正14(1517)年、土岐原氏、岡沢九郎兵衛に東条庄地頭方の鍛冶の「大工職」を認める(岡沢家文書)」と解釈しているが、『牛久市史料中世I-古文書編-』P288は小田政治発給文書と解釈している。永正初め頃、江戸崎は小田氏に取られている可能性があり、その後、土岐氏が大永3年に龍ヶ崎から八代を経て江戸崎を奪還したという流れを考えるとき、この文書の発給者は小田氏であることの方がより整合性がある。『牛久市史料中世I-古文書編-』の解釈は花押の判定を根拠にしているようだが、前後の流れからも小田氏発給と考えた方が自然だと思いこちらを採用した。(2002/9/30)

[参考文献]
(1)阿見町史
(2)東町史史料編古代・中世
(3)江戸崎町史
(4)龍ヶ崎市史中世編
(5)龍ヶ崎市史中世史料編
(6)龍ヶ崎の中世城郭跡
(7)美浦村誌
(8)御茶園遺跡
(9)茨城県史料中世編I
(10)茨城県史年表
(11)木原城記
(12)牛久市史料中世I-古文書編-
(13)牛久市史料中世II-記録編-


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