中居城

概説 大掾氏の流れをくむ田野辺氏が鎌倉時代この地に土着し中居姓を名のり、代々この城に居住したといわれるが確証はない。天正19(1591)年2月9日、最後の城主中居秀幹は、「南方三十三館」と称された鹿島・行方両郡の領主等と共に佐竹義宣に太田城で誘殺され、城もほどなく廃城になった。[『図説中世城郭辞典』より]
南側虎口の土塁
その他の写真
  1. 迫力満点の横堀と土塁だが、写真ではいまいち
訪問記[2005/04/18]空堀・土塁とも豪快。しかし、写真にするとちっとも迫力が捕らえられていない。主郭部と北の念仏堀を結ぶ連絡用の細い郭は藪が深かった。
所在地大洋村中居字城の内1173。
参考書『図説中世城郭辞典』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』