唐沢山城

概説藤原秀郷の築城に始まり、藤原氏の居城と伝わる。藤原氏の勢力が衰えた後、藤原氏の流れをくむ足利俊綱の弟成俊が治承4年(1180)に佐野氏を称して廃城となっていた唐沢山城を再興した。戦国時代この地は後北条氏と上杉氏との境目にあたり領国支配は安定しなかった。佐野昌綱は末子を上杉謙信の養子にしたため、永禄2年(1559)に北条氏政によって攻められた。その後、宗綱が城主となるが跡継ぎ問題で佐野氏は分裂。天正5年(1577)、上杉氏が介入するが撃退した。天正11年(1583)宗綱は館林城の長尾顕長と須花坂で戦い討ち死。嫡男がいなかったため天正13年(1585)北条氏から養子を迎えることで北条方に組み入れられてしまう。天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原攻めを機に昌綱の弟が後北条氏から唐沢山城を奪還、房綱と名乗る。慶長7年(1602)、唐沢山城を廃城にし春日岡(佐野城)に移転するように徳川家康に命じられ、さらに慶長19年(1614)、城と領地を没収され、佐野氏は信濃に配流されてしまう。[『よみがえる日本の城15』を参考にした]
大手桝形
その他の写真
  1. 南城の南側の堀切
訪問記[2006/06/19]関東では数少ない石垣の城の一つ。常総諸国の戦国大名たちも上杉氏と北条氏との狭間で翻弄されたが、この佐野氏もまた同様で、「♪今日は上杉、明日北条♪」と歌われる名曲『境目哀歌』のモデルだというのは知る人ぞ知る事実。
所在地栃木県佐野市富士町。唐沢山神社が目印。
参考書『よみがえる日本の城15』