石神城

概説 石神城を本拠とした石神氏は常陸大掾氏の庶子である鹿島氏のさらに庶子で、応安7(1374)年の『海夫注文』の中に「たかはまの津 石神知行分」と高浜の津の支配者であったことが確認できる。この付近は入り江を臨む微行地の先端にあたり、ここからは自分の支配する高浜の津や耕地などが一望できたことだろう。弘治4(1558)年ごろ粟生氏と争いを起こし、両氏とも滅亡したと伝えられる。[現地説明板より]
県道260号線脇の説明板と土塁・堀
その他の写真
訪問記[2004/02/03]花光院の周囲は土塁の痕跡で囲まれている。東側には浅くはなっているが堀跡が認められる。東隣の民家の北側には土塁と堀の跡が見られるのでここも別の郭だったと思われる。北側、中部幼稚園との間の道は堀跡だったかもしれない。都市公園周囲にも直線状の土塁があるが、花光院周囲の土塁の曲線に比べあまりに直線的過ぎ城館遺構ではないと思われる。
所在地鹿島郡神栖町石神字御城。県道260号線沿いの走湯山花光院という寺のある場所とその周辺。
参考書『茨城県遺跡地図平成13年度版』