概説 | 南北朝の戦中の延元3(1338)年初秋、南朝方(吉野朝)は出羽奥州にて戦力の挽回を期すべく北畠顕信を鎮守府将軍に任じ、義良(のりよし)親王を奉じ伊勢より船団を出帆せしめたが、途中伊豆沖にて台風に遭い兵船は四散、親王の御座船は伊勢に吹き戻され、顕信の父親房らの一行は常陸内浦(東条ヶ浦)に漂着し、神宮寺に拠って挙兵したのでした。だが、高師冬の麾下にあった佐竹氏の輩下、烟田、鹿島、宮崎、大掾らに攻めたてられ、衆寡敵せず旬日の間に落城、親房は阿波崎城を経て小田城へ落延びたのでした。 十三塚:延元3(暦応元)年初秋、南朝の准后北畠親房がここ神宮寺に挙兵するに当り、地元百姓らを指揮督励して築城や兵糧集荷等に貢献した近隣13ヵ村の名士らは、神宮寺落城後間もなく佐竹軍(北朝方)の手に捕縛斬首され神宮寺原頭の露と消えましたが、戦も漸く終わりに近づいた弘和元年、地元の寺僧らにより供養が営まれ、処刑の場にこの塚が設けられました。[『桜川村の遺跡と文化財』パンフレットより] |
本城手前の空堀、土塁と土橋 |
その他の写真 |
訪問記 | [1998/03/03]教育委員会の説明板は剥げて薄れて読みとれない。空堀や土塁の遺構、竹林とふかふかの腐葉土。 [2000/11/27]奥まで入って行くとかなり大きな土塁が残っているので感動。前回2年半前よりも歩き易い印象。やはり春と秋との違いか。 [2002/05/06]神宮寺から神宮寺城の解説板の前を通って高田神社(江戸崎町)方向へ向かう直道六丁の道は「一里馬場」と呼ばれていた。これは神宮寺城に関係づけられた名称か、あるいは神仏分離前には神宮寺門前で流鏑馬神事でも行われていたのか?神宮寺城は現在説明板のある林の中だけでなく東西南北へかなりの広がりがあるらしい。南側の集落の中にも土塁が残っているとのこと。戦国時代に作りかえられたのかもしれない。だとすると、南北朝時代の神宮寺城はもしかするとここではなかった可能性も。 [2005/09/19]現在の神宮寺城址は舌状台地先端部から300mほど奥まった場所にある。もう少し南側の台地先端部の様子を見に行った。城址の西側の道は後世に付けられたようで、郭を南北に縦断していると思われるが、道の西側は一面畑となってしまい、城跡の面影は無い。道に沿ってほぼ真っ直ぐに台地先端手前まで進めるが、後世の道のため周囲に遺構らしきものは認められない。ここは前山という集落で大きな屋敷が並ぶが、屋敷の裏手には何かあるかもしれない。台地先端部の最高地点が南西側の民家の裏山になっていたはず。次回にはお訪ねしてみよう。南端から道は東へ曲がりその先から右手へ谷津へ下りていく道がある。谷津へ下りる道を逆に北側の集落方向へ進むと右手にお堂と半鐘のある辻へ出る。この辻の西側角には土塁と堀跡が認められる。ここは現城址の南東側に当たる。前山集落のほとんどが神宮寺城の南側地区だったとしてもおかしくはない。涼しくなったら再度調べに来よう。 |
所在地 | 稲敷郡桜川村神宮寺字前山 |
参考書 | 「桜川村史考別冊」に昭和四年ころの見取り図 |