概説 | 別名、親沢城。涸沼を挟んで宮ヶ崎城の対岸にある。涸沼の水運を意識した城であったことは確実である。伝承によれば、この城は、石河氏の一族で石崎保の地頭となった、石崎禅師房聖道の居館であったという(『水府志料』)。とすれば、鎌倉前期に築かれたかなり古い城ということになろう。しかし、かなり新しい築城技法を取り入れているので、おそらくは、江戸氏が宮ヶ崎城とともに涸沼の水運を監視・統制するために戦国後期頃に築いた城であったのではなかろうか。[『茨城町史通史編』より] |
南側からの遠望 |
その他の写真 |
訪問記 | [2005/01/24]親沢公園の無料駐車場があるので駐車しやすい。駐車場から50mほど西へ行った辺りから木の階段で堀尻まで登れる様になっている。台地先端部を一本の大きな堀切で区画した単純な縄張りではあるが郭側の土塁中央部には櫓台を兼ねた大きな横矢の張り出しを設けている。また、郭の先端に近い場所には土壇がある。狼火台として使われたものかも知れない。中央部が窪んでいるが、さすがに狼火台当時のものではないと思う。枯死した樹木の切り株が抜けた跡のように見える。 |
所在地 | 茨城町上石崎字親沢。親沢公園の北側の丘。 |
参考書 | 『茨城町史通史編』、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』 |