富士峰館

概説 永保3(1083)年、源八幡太郎義家が安倍一族を5万の兵を率いて攻めたとき、要害の地として人馬を休めたとの伝説がある(富士峰、五万堀の地名に残る)。五万堀より600m位南の高台が水田地帯にせまる位置、富士峰古墳にあった。下って天正18(1590)年末のころ、佐竹義宣が常陸大掾清幹を攻めるにあたって、攻めあぐんでいた高野兵城(高浜)を攻略するために富士峰館に陣を置き、自ら大軍を率いてこれを破ったといわれる。[『玉里の史跡六井六畑八館八艘探訪マップ』より]
南側から台地先端を臨む
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訪問記[2004/02/23]今日も昨日に引き続きものすごい強風が吹き荒れる日だった。それでも昨夜の暴風雨で塵が吹き飛んで空がきれいだった。南へ突き出した台地に館はあったらしいが、突端部を残してほとんど残っていないようだ。とくに館の中心と思われる富士峰古墳は昭和63年に工事で湮滅したそうだ。ここから北約600mの台地上一帯は五万堀というらしい。写真の先端部下には玉里村の六井の一つ「亀井」がある。
所在地新治郡玉里村高崎1638-2外。高崎西バス停の北約300m。
参考書『玉里の史跡六井六畑八館八艘探訪マップ』、『玉里村史』