札城

概説 高さ5丈許方50間許今は円野となる。往時大掾繁幹之に居る。因て札氏となる。繁幹は大掾清幹の2子也。遠孫幹繁治部大輔と称す。天正19年(1591)2月9日、佐竹義宣鹿島行方の旧族を滅し、其の土地を併せんと欲し之を太田誘殺す。幹繁途に之を聞き小里に逃れ後旧里に還り病んで死す。城遂に廃す。(『鹿島郡郷土史』)札城は平國香の後裔平繁幹が札に住して築いた城である。その子幹高になって札氏を称した。幹高の孫治部大夫幹繁は札及び阿玉を領した・・・。[以上、『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
1郭北東の角
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訪問記[2005/04/18]『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』では、北端の松尾神社のある郭を三の丸、その南側の方形の郭を本丸、さらにその南側の長方形の郭を二の丸としている。しかし、南側の街道監視のためにも普門寺のある台地まで城域にしておくべきではないだろうか。もう一つ、土塁の位置についても疑問がある。本丸といわれる部分の辺縁に土塁が無いのは構成の改変であるのか。反対に二の丸と三の丸の本丸側に土塁があるのはなぜだろう。これでは本丸から周辺曲輪の内部が見にくいではないか。
所在地大洋村札字城の内1166。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』