粟生城(あおうじょう)

概説 大掾成幹が鹿島郡の地頭となり鹿島を姓とする。成幹の子三郎政幹は鹿島城を築いて移る。政幹の子宗幹は1,000騎を率いて源頼朝の挙兵に参加した。宗幹、弘幹の兄弟は源義経に属し屋島の戦で戦死した。鹿島城に移ってからの粟生城の城主については不明である。[『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』より]
内御城と外城の間の切り通しへ踏み込むと、鬼気迫るものを感じる
その他の写真
  1. 外城(左手)と中ノ間(右手)を分ける堀切跡
  2. 外城南東部の土塁
  3. 御城域はみごとに土取されて西部劇で見るモニュメントバレーのようだ
訪問記[2004/01/06]「粟生城入口」標柱の所から入っていくと内御城と外城を境する切り通しになる。崩れやすそうな土質のためちょっと気持ち悪い。登り切ったところから先はものすごい藪。その先へ行くとおそらく御城になるのだろうが、そこは土取されているので断崖絶壁だったのではないだろうか。外城北側の八幡神社・平光寺周囲には大きな土塁が残る。平光寺から城の東縁土塁に沿って南へ降りる道がある。土塁の内側の城域はごっそり土取されている。外城の南端部で土塁が切れた所から御城へ入ってみると土取されて何もない空間。遙か前方にジョンフォードの西部劇『駅馬車』で見るモニュメントバレーのような取り残しの山が見える。おそらく、西側「粟生城入口」の所から入って行った切り通しの内御城側の削り残しだと思う。無惨!
所在地鹿嶋市粟生字御城。標柱は城址の西縁で鹿島臨海鉄道踏切の少し北側にある。八幡神社・平光寺は外城の北の端にある。
参考書『重要遺跡調査報告書II(城館跡)』