琢磨会会報第78号



森 恕 『固め合気』
小林清泰 『久琢磨の墓に詣でる』


森 恕 『固め合気』

相手の体を瞬間的に固める合気技である。この技も、大東流の多くの合気技の定石通り、こちらからは相手の体を捕らず、相手に捕らせて掛けるのである。
この技は、相手がこちらの体のどこを捕ってきても、こちらは捕られたまま、捕らせたままの状態で技を掛け、電撃的にその相手の体を硬直させて、その体勢を崩すことができるのである。
この技が最も大きな効果をあげることができるのは、立合いで、相手がこちらに対し両手捕りあるいは諸手捕りなど、いわゆる手捕り技で攻めてきたときである。
この合気の技掛けが効を奏すると、その瞬間、相手はこちらの手を掴んだまま、まるで電撃でも受けたかのように金縛り状態に陥り、手や体が硬直して足が浮き、そのときの体形と姿勢のまま、完全にその動きが凍結する。
このときの相手は、足も腰も動かせなくなっているので、重心維持を図ることもできず、こちらがその硬直した相手の体を、相手から掴まれたままになっている手でそっと押してやるだけで、まるで棒倒しのようにばったりと倒れるのである。
瞬間的に相手の体の力を抜いて倒す合気技が「抜き合気」であるが、「固め合気」はそれとは正反対に、相手の体に瞬間的に力を入れさせ、その体を硬直させて倒す。
抜き合気の掛け方は、自分の体の力を抜くことによって、相手の体の力を抜くのであるが、固め合気は、自分の体に力を入れることによって、相手の体に力を入れさせるのである。
この固め合気は、抜き合気の研究稽古を行なっているうちに、相手の体に対する刺激の与え方によっては、抜き合気とは逆に、相手の体に力が入るという現象が起きることを発見し、それを何度も繰り返し点検し検証することによって、ようやく理解し会得することができたものである。
この技も抜き合気同様、体術の常識に反する術理から成り立っており、私自身、自分で技を掛けながら、なぜこういう現象が起きるのか、最初のうちはなかなか理解することができなかったのが実情である。
技の掛け方は甚だ簡単である。手捕り技の場合であれば、相手の掌中にあるこちらの手に瞬間的に力を入れるだけである。従って、何をしたのか外からはわからないはずである。
しかし、この合気は力の入れ方が難しい。その点では抜き合気における力の抜き方と同じである。
「抜き合気」の場合については、本誌六十四号の「抜き合気」と題する稿で、「自分の力を抜く」、特に武術的に力を抜くということが如何に難しいかということを詳しく述べているが、「固め合気」のために、自分の体に力を入れるということについても全く同じ悩みがある。
相手の体に力を入れさせるためには、自分の体のどの部分に、どのように力を入れたらよいのか、抜き合気の場合と同様、考えなければならない問題は少なくない。
私は、あるとき、神戸で黒帯稽古生に対する定例の指導稽古を行なっていた。当日の稽古の主題は、両手捕り肘伸ばし合気と抜き合気である。
肘延ばしは、相手の掌が下に向いている、いわゆる陰の形である。
この形の肘延ばしは、掌を上に向けた、いわゆる陽の形の肘延ばしよりも技掛けの効果が強烈で、掛けられた相手は、両腕を強く延ばされ、足が浮き、肩をすくめたような姿で上半身を硬直させる。
そこで、相手の掌中にあるこちらの手の力を瞬時に抜くと、その瞬間、相手に抜き合気が掛かり、相手は膝、腰の力が抜けたような状態で倒れてゆくのである。
私が立てていた当日の稽古予定は、稽古生諸君に、この肘延ばしと抜き合気をひと通りさっと流し稽古をしてもらって、その要領を飲み込んでもらい、次に、固め合気の稽古に入るというものであったが、いざ始めてみると、抜き合気における力の抜き方の問題で、たちまち立ち往生となり、稽古を先に進めることができなかった。
そこで、抜き合気については後日改めて復習することにして、固め合気の稽古に入ってみたのであるが、今度は逆に力の入れ方で稽古が止まってしまった。
つまり、自分の体に「力を入れる」、あるいは「力を抜く」という、一見実に簡単なことであっても、いざ武術としてこれを行なうことになれば、如何にそれが難しいことであるか、稽古生諸君に再認識をしてもらう結果になった。
私はかねがね、大東流合気柔術は、感覚の武術であると思っている。
大東流の小手技、その中でも特に合気技は、当流の優れた先師が人間の小手、なかでも指や掌の感覚が非常に鋭敏であることに着目をし、その感覚を武術としての人体操作に利用すべく、工夫を凝らしたものであると信じている。
本稿の「固め合気」も、掌のこのような感覚を利用したものである。私はこれを完全に会得して、相手の体の力については、抜き入れ自在の境地を得たいと願って更に稽古を重ねているところである。 


小林清泰 『久琢磨の墓に詣でる』

 脇町カルチャセンター支部の稽古に月に一度ではあるが参加して二年になる。稽古時間は夜なので、昼に出て時間があれば、名所、旧跡を探索している。徳島にも隠れた旧跡地はおおい。五月は板野のドイツ俘虜収容所後を見学した。観光地図を見ていて久琢磨の墓参りを思いつき、四女和田陽子さんに電話した。墓の場所だったら、安岡信久さん(久琢磨の孫)に聞いてくださいということで、電話をしたところ、「分かり難い処なのでFAX送ります」地図を受け取り、七月三十一日、三木清明副幹事長と東京のゴウッラン・オリビエ君と三名で西田辺を十時過ぎに出発した。室戸市佐喜浜まで二百七十五kmカーナビで到着予定時間午後三時とでる。急がないといけないなと思っていると大阪環状線の交通事故があって遅れ、更に神戸線湊川付近の道路補修工事で大渋滞があり、「工事するなら日中せず.夜間にやれ」と思いながら結局一時間以上のロスがあった。時間を取り戻すのに、明石大橋で弁当を買い車内で走りながら食べる。鳴門から、徳島小松島を更に南下、途中日和佐に立ち寄る。NHKの朝ドラで名を成した「ウエル亀」に出てくる道の駅JR日和佐駅と隣接していた。お供え物の.樒(しきび)お酒を買い休憩もほどほどにして出発する。室戸市佐喜浜までまだ百kmもある道路は空いていたが山道カーブが多く思いのほか時間が経過していった。佐喜浜に着いたのが四時を過ぎていた。安岡さんに書いて頂いた地図で久家の墓地はすぐに分かった。ところが久家の墓地に琢磨の墓石がないので焦った。たしか森、蒔田、川辺、小林高士先生と来た時は安岡佐喜ご夫婦の案内で墓参りをしたので、覚えているものと気にも留めていなかった。近所で久琢磨の墓は知りませんかと二軒で聞いた。嫁いできた者で土地のものと違うからようわからん。ちょっとまっとりと言って.電話で、土地の長老に聞いて下さった。朝さん(久琢磨の三女高橋朝子)を良く知っておられるおばさんがわざわざおいでくださり案内して頂いた。時々朝さんが帰ってきたら同級生集まって話をしておられたわ。久家の墓が三基あり親戚だそうだ。男の人が相撲取の人かいな、その人やったら、賞状が八幡さんに奉納されているよと聞き、墓参りを終えて、急ぎ隣接の八幡神社に駆けつけた。本殿に日本相撲連盟・日本相撲名誉八段の賞状額に入って掲げてあった。これは関西合気道倶楽部の道場に掲げてあった賞状だ。額の裏には久先生の字で(写真参照)文字が書かれてあった。墓参もでき,賞状にご対面ラッキーきてよかった。以前にも書いたが、八幡神社で十月に俄(にわか)祭りで相撲大会が二か所で行われている。佐喜浜は元大関朝潮太郎の出身地である。オリベさん曰く、「久先生は立派な先生だから、石碑でも建てからいかがですか」提案された。検討に値するが、久家、神社関係の了解、資金など考慮すると難事業である。佐喜浜を後にしたのは四時半、脇町に着いたのが八時半でした。当日は脇町のお祭り、阿波踊り、花火大会は調度八時半に終わっていたので、残念ではあったが佐喜浜に行ってとても良い思い出となった。