琢磨会会報第69号



森 恕 『掛手の合気』
小林清泰『ブルータスよお前もか』

森 恕 『掛手の合気』

 掛手(かけて)の技のときに、どのような合気技を掛けることができるのか、ということについて述べたい。
 掛手とは、闘いのために相手と対峙したとき、相手からの攻撃を待たず、機先を制して、こちらから先に相手に対して掛ける技のことである。
 これとは逆の場合が受手(うけて)であって、これは、相手の攻撃を受けて、初めて発動される技である。しかし、その技は、掛手のように、いきなり相手を攻撃するものではなく、まず、何をおいても、とりあえず相手の攻撃を防ぎ、自分の身の安全をはかった上で相手を攻撃する必要があるために、技は、必ず相手の攻撃を防ぐ技と、その上で、その相手に反撃をする技とで構成されており、しかもその反撃の技は、必ず相手の攻撃方法を利用するものでなければならない。
 つまり、その技は、防御と攻撃が組み合わされたものになっているため、掛手の技よりは、数倍も複雑な動きが要求されるのである。
 大東流の技は、その大部分がこの受手の技である。
 しかし、調べてみると、琢磨会にはこのような受手の技に加え、掛手の技も思いのほか多く伝承されている。
 それは、久琢磨師が我々門弟に直接指導をした技のなかにも、数多くみられるのであるが、武田・植芝両師指導の技をまとめた総伝写真集をみても、掲載された技全体の約一割が、この掛手の技である。
 このことからいえることは、大東流の技は、九割の受手の技と、その対極にある一割の掛手の技、この大きな二つの技の流れで構成されていて、掛手の技は、大東流の技のなかで、大変重要な位置を占めているということである。
 そして、大東流における関節・急所・合気の三大技法体系は、掛手・受手いずれの場合にも確立をしており、その術理と技法内容も両者略々同一である。
 つまり、工夫さえすれば、受手の技はそのまま掛手の技になるのである。
 但し、合気技だけは例外である。
 本来、合気技には、@ 技掛に力を使わない。A 技掛のために、こちらからは相手の手や道衣を捕らない、という二つの鉄則がある。
 受手・掛手何れの場合でも、合気技においては、この鉄則が厳重に守られていなければならない。
 例えば、片手捕り合気投げ・両手捕り合気上げなどの、手捕り合気技にみられる典型的な受手の合気技は、相手の攻撃方法(この場合はこちらの手を攻撃的に捕るという方法)を逆に利用して、反撃の合気技を掛けることができるので、技自体は難しくても、合気技の鉄則は守ることが出来る。
 しかし、相手がまだ何の攻撃も始めていない段階で、機を見て先制的に技を掛けてゆく掛手の合気技においては、利用すべき相手の攻撃方法がまだ存在しない。
 そのような状況下で、相手の身体を柔術的に操作しようとすれば、Aの鉄則(こちらから相手の手または道衣は捕らないという合気技の鉄則)は破らざるを得なくなる。
 しかし、その瞬間、その技は、掛手ではありえても、もはや合気技ではなくなるのである。
 私は、合気の鉄則を守った理想的な掛手の合気技とはどういうものか、総伝を参考に色々時間をかけて稽古と工夫を重ね、これまでに数手の合気技を会得することができた。
 具体的には、「触れ合気」・「肘窩の合気」・「曲支の合気」・「載せ合気」等であり、これらは既に或程度まで公表を終えている。
 私は、これら掛手の合気技は、合気の真髄に迫るものであり、その術理と技は、合気之術の最高極意に位するものであると思っている。


小林清泰『ブルータスよお前もか』

 皆様ご健勝で大東流合気柔術の稽古に励んでおられることと存じます。私は六年前腎臓を患い、五ヶ月ほど入院治療しましたが、多くの方にお見舞いを頂きまして有り難うございました。お蔭様で順調に回復し、今は元気で稽古をしております。この場を借りてお礼申し上げます。しかし、まだ受身が充分にとれませんし、持久力も昔の半分もありませんが、このたび、病と訣別する意味で、第三十回日本古武道大会(今年は熊本)に出場させていただきました。出来映えは、演武者の皆さんからよい点を付けていただき満足しております。今年三月末、讃岐の金毘羅宮へお参りに行きましたが、本殿までお階段を休まず登ることができ、歳相応の体力まで戻ったかと自負しております。

 以前から琢磨会の昔のことが知りたいとのご要望があり、また原稿のお勧めもありましたので、記憶を辿りながら、私の大東流合気柔術体験、見聞をお話します。

入門当時
 私が合気道を始めた動機は、昭和三十六年夏、天風会大阪修練会の納会でのことでした。久先生が柔道経験者と若い女性を舞台に呼び寄せ、女性に技を掛けさせているのを見ていて、女性でも出来るのなら、小柄な私でも稽古が出来そうだと、同年秋に久琢磨先生の門を叩いた。
 関西合気道倶楽部は昭和三十四年秋創設されており、道場の入口には『関西合気道倶楽部』と書いてあった。御堂筋淡路町埼玉ビル三階八畳ほどの狭い道場で驚いたが、半年ほどすると、向かいの御堂筋側の部屋が空いたので移転、道場の広さは二十畳ほどになった。道場は受身をするとよく響き、下の銀行から蛍光灯が切れると苦情が来たこともあって、スプリング入りの道場へ改修された。当時、道場は法人会員で維持されていた。『関西合気道倶楽部だより』を三号まで発行しておられたが、事務局にあります。

久琢磨倒れる
 昭和三十六年秋、久先生は自宅トイレで軽い脳梗塞を起こし倒れられた。半年後には、軽い後遺症は残ったが奇跡的に回復され、医師も驚いておられたとか。私はよく足馴らしのリハビリに、六甲山系へハイキングのお供をした。武田惣角先生との約束もあり、免許皆伝者を出すまでは、床に臥していられないとういう責任感が回復を早めたのだと思う。当時、神戸市岩屋にお住まいだったので、道場までは遠く、初めの頃は奥さんが付き添われ、大抵ねずみ色かかった黒い背広にエンジ系の赤いネクタイを絞め、赤いベレー-帽を被り、ステッキを突いて指導に来ておられた。

稽古風景
 昼の休憩時間に稽古に来ておられたのは三和銀行、敷島紡績、日本板硝子、楠田事務機、蝶理、三洋貿易等の企業の社員さん。夜には松田工業(現マツダ)、大阪ガス、久保田鉄工、白石基礎工業、大和銀行、朝日新聞社、大同生命、日豊、栗本鉄工、三菱商事、近江人絹繊維、安宅産業などの法人会員さん。個人会員で稽古に来ておられたのは、今も活動しておられる、森恕先生、庵木英雄先生、小林高士先生、三好雄一先生です。昼は植田杏村師範、夜は朝日新聞社の森脇潔師範が指導に来ておられた。夜は朝日の人も来ておられた。朝日新聞社でも稽古をしていたので、大和銀行の行員さんの仲間に入れていただき稽古に参加をした。当時は印刷局、警備員の方が多かった。基本稽古は受身から始まり、毎回、双手で相手の片腕を掴み練成、両手で手首を掴み外四か条で極めながら壁際へ追い詰めて交代、常に小手返し、四方投げ、袖取り、突き等の稽古を行った後、久先生は正面打ちなら正面打ちの技を、袖取りなら袖捕りの技を何通りも教えてくださった。道場閉鎖間際には、総伝写真集を見て指導、総伝写真集から派生する技をも併せて指導してくださった。

大学で合気道同好会創設
 私は稽古量が物足りず、昭和三十七年に大学で合気道同好会をつくり、埼玉道場で稽古をしていた。第一回合宿は久先生の紹介で、網走市内の大東館道場で行ない、館長武田時宗宗家(武田惣角のご子息)より一か条をご指導いただいた。北海道へ行く途中には、久先生の紹介状を持って合気会本部道場、養神館道場を見学した。
 合宿後も久先生にご指導していただいていたが、授業もあり、移動も大変なので、大学の道場で稽古をすることになった。久先生は神戸高商時代相撲で膝を痛めておられ、大学に来てご指導していただくのは大変であったのと、部の将来を考えると、関西学生合気道連盟(合気会系)に加盟するほうが活動の範囲も広がるので、大東流から植芝流に変更すべく学生の了解を取り付けて、今後のご指導を合気会の小林裕和師範にお願いしご承諾頂いた。小林裕和師範と共に久先生のもとへご挨拶にお伺いした。小林師範は、戦後、鰻谷道場(今の心斎橋)で指導を受けておられ、師弟関係であることを知って驚いた。移管については、久先生は心快くご承諾くださり、私は後ろ髪引かれる思いで袂をわかれた。久先生は学生連盟加入に際し、植芝吉祥丸先生が関西学生合気道演武大会に来られたおり、中之島公会堂まで出向いて、お口添えくださった。

ブルータスよお前もか
 袂を分かれてから直ぐに、久先生よりお手紙をいただいた。
 「ブルータスよお前もか」
 胸にくるものがあった。縁あって合気道へ導いて下さったご恩を汚してはいけないと、早速、久先生の元へお詫びのご挨拶にお伺いすると、「小林君は残って稽古に来なさい。」とのお言葉を頂いた。この時の思いが今日まで大東流を続けさせた原動力になっていると思う。学生時代は大学での稽古をしながら、曽根崎警察や福島体育館でも稽古した。久先生からの紹介状を持って、夏休みに大東館武田時宗宗家よりご指導を受けさせていただいた。途中、三日間ではあるが、湧別で大東流を指導しておられる堀川幸道先生の道場に立ち寄り、ここでもご指導いただいた。この時、サロマ湖へご案内していただき、湖が浅く軍港にならなかったお話しをお聞きした。オホーツク海に面し、風光明媚なところであった。帆立貝をご馳走になり、貝柱の大きいのにはビックリした。美味しかった。
 昭和四十年春休みには一ヶ月も久先生の実姉のご自宅に居候させていただき、合気会の本部道場で稽古をさせていただいた。植芝盛平先生より、「久さんはお元気ですか。」と声かけていただいたのが印象に残っている。本部では、小林裕和師範の紹介状を内弟子でおられた千葉先生にお渡ししたこともあってか、厳しくご指導して頂いた懐かしい思い出がある。久南平君(久先生のご子息)に案内していただき、塩田剛三先生(養神館創設者)の道場へ出稽古し、ご指導いただいた。久先生は武田惣角先生からは昭和十四年に免許皆伝を授与され、植芝盛平大東流教授代理からは、昭和三十四年、道場開きに初めての免状をいただいた。当時としては最高の八段の授与であり、道場に掲げてあった。久先生は武田先生と植芝先生の両先生に師事されていましたので、大東流と植芝流との明確な区別はありませんでした。昭和十年に植芝盛平先生に習われた技は大東流として(主に総伝の一、二、三巻)写真に撮り残されている。前述の埼玉ビルでは『関西大東流合気柔術』でなく、『関西合気道倶楽部』を名乗っておられたことからも窺い知ることが出来る。

免許皆伝者
 久先生は、武田惣角先生との約束を果たすべく、流統の後継者として、吉村義雄(総伝集に載っている人で元朝日新聞社員・元大阪市市会議員)、森脇潔(朝日新聞社退職後昭和四十五年他界)、植田杏村(産業新聞を発行)らの三人の門人に免許皆伝を出しておられます。三人とも久先生より先に冥土に召されたので、免許皆伝を忌みし、大東流免許皆伝允可書の肩書きに「総務長 武田惣角」とあるのを取り入れいれて、後継者として森恕先生に爾後を託される際に、免許皆伝にかわる総務長を委嘱されました。森総務長と名乗っておられます。

総伝技
 総伝技は久琢磨先生が昭和十年から十四年に懸け、植芝盛平、武田惣角両先生にご指導を受けた技を写真に撮り纏めた写真集に、女性護身術写真と警察官護身術写真も含め、十巻を天・地・人の巻に整理されています。久先生は、「武田惣角先生から一日四手ほど習い、毎日技は違った。(技がわからず)聞くと機嫌が悪いんだよ。とても覚えきれないので、先生を風呂に入れ、背中を流している間に、当直室で技を再現し、写真を撮って今の総伝集に纏められた。未整理の写真は自宅にあるといっておられたが、所在不明である。現在、森総務長は、久先生の残した総伝技を月一回指導しておられます。

初伝百十八条
 私は学生時代、久先生の紹介で網走の武田時宗先生(以後、宗家)の指導を受けた。大東館には初伝百十八条の名称が額に掲げてあった。一か条三十本を習ったが、名称があり、覚えやすかった。入門間なしで、さわりしか習わなかったが、大東流の技は新鮮に感じた。当時、宗家は三段までしか免状を出しておらず、門外不出で厳しかった。大東館の道場長和泉先生(合気体操の考案者)は最高段位三段だった。宗家は武田宗光(会津)さんには良く注意しておられたが、今思えば久先生への遠慮もあったのでしょうか、上手く出来ていないのに「それで結構です。」とよく言っておられた。宗家から、「最初に習う正面打ち一本捕りは、始めに習う技だから一本目、流統の特徴を表す。」と教わった。名称については久先生は「武田惣角先生から習った当時名称など無かったよ。」とおっしゃっていた。

久琢磨の教え
 久先生の埼玉道場での教えは、前にも書いたように宗家とは違っていた。昭和十年代に習った植芝盛平先生の稽古方法が埼玉道場で行われていた。植芝盛平先生のお弟子さんで白田林二郎先生が来阪来場して指導された時も又、塩田剛三先生(養神館)の稽古方法もよく似ていた。一か条、二か条、三か条、四か条の名称と、技とが同じであったし、腕の練成までもが似ていたのには驚いた。宗家は十八歳の頃、父惣角に「初伝の技が違うようですが、一からやらなないのですか。」と問うたところ、惣角は「教授代理が教えたのだから其れで良い。一からやり直すことはない。」と言って先に進んだそうです。一か条の領域を超えておられたのかもしれません。惣角も久も相撲は強く共通するものがあったに違いない。植芝先生の教えた技も総伝前半に残している。大東流と名乗らず、朝日新聞社で教えたのだから朝日流をはばかり『旭流』を名乗っておられた。総伝写真集の原本の表紙に金印字で刻印されている。琢磨会には武田惣角の晩年の技として総伝写真集に残っている。これは、現代人が考えても想いつかないであろう貴重な記録となっている。宗家は関西合気道倶楽部道場開設後に二度来られ、父惣角の技を聞いておられたそうです。私は大東館合宿の後、宗家に教えを乞うべく三度訪網しましたが、滞在期間が短く、多くの技を教えていただいたにも関わらず、それらの技が入り混じり、かえって覚え切れなかった。教わった一か条の技は写真三コマに撮りスクラプブックに纏め久先生と宗家に提出した。

宴は盛ん
 昭和三十九年、奥さんが神鋼病院で他界されしばらくしてから、久先生は道場に寝泊りして指導する熱の入れようであった。出勤前の朝稽古には大阪府建築部、三和銀行、個人会員の方が稽古に来ておられた。森恕先生は時には朝昼晩と稽古に来ておられた。久先生は賑やかなことが好きで、昇級昇段祝い、暑気払いなど理由をつけては飲み会があり、道場で宴会を開き、酔いつぶれて道場で寝て一夜を明かす者もいた。「社会人になったとき困るから、鍛えなさい。」とよく飲まされ、よく電車の中で寝てしまい乗り越した。久先生は高知のご出身だけあって酒豪家であり、尼崎の天崎先生とお会いしたときも、戦時中道場で黒幕を張って酒盛りしたことがあったと話しておられた。宴席では順番に一芸をやらされた。久先生は『南国土佐』を歌っておられた。森先生は草笛を吹いておられた。とにかく賑やかな酒宴であった。この影響か、私も飲み会は好きであるがいまだ下戸である。

ご多忙な先生
 久先生は人を惹きつける魅力のある人で、政治家、経済界、朝日新聞社の来訪があった。ゴルフはシングルプレーヤーで、宝塚CCで優勝したとき、石井光次郎(久に植芝盛平を紹介した人・元副総理)の音頭で祝賀会がもたれた。病後も朝日新聞社OBコンペや、辰巳会(鈴木商店OB会)など、財界のゴルフコンペで楽しんでおられた。学生相撲の創設者の一人であり、横綱で名誉八段昇段をもらっておられ道場に掲げてあった。石井光次郎の額には『心技』と揮毫してあった。この言葉が好きで、大学のクラブの会報名に遣わせてもらっている。夏の高校野球では、遥か昔に退職されたのに評議委員をしておられ、プログラムに名前が掲載されているのには驚いた。野球の話となると、中等野球球場の話からになるので、又の機会があれば書くことにする。久先生宛の招待状をいただきバックネット裏から観戦した。甲子園球場で野球を見るのが初めてであった。
 当時、昇段審査は無く門弟の稽古を見ていて、時期が来たら昇段した。埼玉ビル増築の話が持ち上がり、地下に移転の話が持ち上がったが、道場で寝起きして指導しておられた久先生のお身内の方が健康を按じて、子供のいる東京へ引っ越すことになり、昭和四十二年、道場閉鎖となった。

関西合気道倶楽部閉鎖後
 門弟は道場閉鎖後、大和証券の沢井清徹氏のお世話で大阪証券会館道場、吉村氏の勤務先で広告の大広社屋、磯部運輸の土蔵を改造してもらった道場、関石産業二階改装道場に(西谷修先生が入門)転々としながら稽古を続けた。又、宇都宮守先生の取り計らいで朝日新聞社の道場を使わせていただいた。宇都宮守先生、天津裕先生は、夕方はご多忙なので、昼の稽古に顔を出しておられた。森脇潔師範が昭和四十二年ごろ退職され、朝日の社員さんが少なくなった。土曜日は朝日新聞社で竹中工務店合気道部と一緒に稽古をした。この頃私は、中津の関石産業が中心道場として皆と稽古していた。そのうち、川辺武史先生は住吉武道館で住吉支部、小林高士先生は奈良学園前で奈良学園前支部、永治英典先生は永治竹中工務店合気道部、宇佐見守先生は大阪ガス合気道部、三好雄一先生は神戸商船大学で大東流柔術研究会を立ち上げた。門弟は散らばったが、各地で稽古を続けた。

合同稽古はじまる
 昭和四十七年ごろから、大阪朝日新聞社体育館に各地で活動している仲間が集まり、活動状況の報告を兼ねて演武と合同稽古を行なっていた。この頃、南海電鉄の奥村林吉、四国の千葉紹隆、蒔田完一、井沢将光先生方も稽古に参加しておられる。日ごろの成果発表をしてから、久先生のご指導で合同稽古をした。この成果発表が今日の演武大会に繋がっていく。昭和五十年、千葉、宇都宮先生等の提案で門弟たちが団体結成することに成り、阿波池田の千葉紹隆先生の提案で名称を「琢磨会」と、全員一致で決まった。その後も、朝日新聞社での合同稽古は、久先生が他界される昭和五十五年まで続いた。

四国との交流
 昭和四十七年の春から毎年徳島の南小松島の蒔田完一先生の道場で久先生指導のもと、合同稽古がおこなわれ、四国の皆さんとの交流がはじまった。この流れは今も六月の脇町の合同稽古として引き続き行われている。
 ここで、四国大東流について少し記すと、中津平三郎(柔道五段)は四国の阿波池田の出身で、勿論、元朝日新聞社で久先生とは兄弟弟子にあたり、武田惣角先生の指導を受けた門人の一人である。昭和十八年朝日新聞社を退職され、戦後、阿波池田で大東流の普及活動をされた。門弟に今井敏勝、住友文四郎、千葉紹隆先生がいる。千葉先生のもとで稽古したのが、蒔田完一、井沢将光両先生である。

夏の合宿
 昭和五十七年から金剛山千早城跡の山の家で夏の合宿を行う。山の家は上館下館があり下館は道場であった。大阪府教育委員会の持ち物であったが、落雷で焼失した。その後、建て直されたが二度使用しただけで、バブルが弾け、府の予算が付かなくなり閉鎖された。当時琢磨会の行事も少なく、合宿の参加者は百人を超える盛況ぶりであった。食事は自炊であったので、百人分の食糧の仕入、百食の賄いは大変であった。収容しきれず廊下で寝る者や風呂場で寝る者がいた。飲み明かす者、酩酊して寝場所がわからず適当に寝ている者などもいて楽しい思い出である。今もこの合宿の参加経験を持たれた方は大勢おられる。特に印象に残っているのは、蒔田完一先生が南小松島から金剛山までご指導にこられた時で、既にガンに侵されていることを後で知った。本人の武道に対する情熱、気力には頭が下がる。この様に多くの先輩たちによって合宿は琢磨会に息づいているおり、今夏の合宿へと引き継いでいるが、最近合宿の参加数が少なく寂しい。各支部の稽古が充実してきたので、日帰り合同稽古に切り替えたら良いとの意見も出ている。

カルチャ−センターの講座開設とその後
 昭和五十五年一月、朝日カルチャーセンター千里教室開設にあたり、当時の山田三郎室長より久先生に合気道講座開講の打診があり、推薦いただいた私が初代講師を務めた。久先生も顔を出されたが、残念ながらこの年、昭和五十五年十月誕生日の三日前、神戸の公文病院で他界された。
 久先生亡き後、朝日カルチャーセンター神戸、芦屋、NHK文化センター神戸で講座が開設され、川辺武史師範の踏ん張りと、人気講座の一つになった。朝日カルチャーセンター千里教室から梅井眞一郎、渡辺文男、小泉雄二、三木清明、中山良男、鍵田小弓、藤本陽子(敬称略)の支部長、指導者が輩出され、二十五年以上経った今も現役で稽古を続け、指導しておられる。神戸では村木直彦、槇原恒夫、吉田英洋・浩子ご夫妻(敬称略)が支部長として、藤井寺スポ−ツセンタ−(閉鎖)からは、中川廣志、横山一夫、西本雅一(敬称略)が支部長として活躍している。他に顕木培功、西村善孝、阪谷一広、西谷修、城博幸・智子ご夫妻、福岡慎輔、堂上佐代子、山本敦史(敬称略)が支部長として指導に当っておられる。四国ではNHK文化センター高松は千葉紹隆・井沢将光、徳島は井沢将光、徳島新聞カルチャーセンターは木村和雄師範が指導。新しい指導者としては、野口宏明、阿部紘一、平岡茂範、飯尾幸重(敬称略)が道場長として指導に当っておられる。脇町では大西正仁・佐藤英明(敬称略)が指導しておられる。会社定年後に支部を創られた庵木英雄(鹿児島)、宇都宮守(豊能町)、天津裕(岸和田)等の先生も後進の指導に当っておられます。また、先生の助手として活躍しておられる方も、大勢おられますがお名前は割愛させて頂きます。海外ではフインランド、オ−ストラリア、アメリカにも支部ができています。
 久琢磨を知っている方が僅かになったのは寂しいですが、古武道としては大きな団体になり会員数は一般五百人、子供二百人に至っている。

演武大会
 久先生が他界された翌年、昭和五十六年に合同稽古朝日新聞社の合同稽古を基に、第一回演武が始まった。今年で第二十六回演武大会となるが、演武者が二百五十人を越えている。毎年、技術向上し、基本以外の技も多くみられ、見ごたえのある演武大会となった。

四国と大阪の関係
 宗家が五十五歳で漁業会社を退職されてからは、来阪のおり、朝日カルチャーセンター千里教室、藤井寺、住吉支部、四国などを巡回指導しておられた。千葉紹陸師範、南小松島の蒔田完一師範等は何度か訪網され、宗家の指導を受けられた。蒔田先生は自宅を道場に建て直すという熱の入れようであった。技がわからぬときは網走と文通をしておられた。当時幹事長だった鈴木新八先生も巡回に見えられ、四国に行く前にお立ち寄り頂き、お泊りいただいた。鈴木新八先生は四国で知っている技は惜しみなく教えられた。鈴木先生の指導の技を一か条から五か条、護身の手までを写真に撮り、解釈をつけて保存しておられた。私どもにご指導くださり、写真集も頂き、指導するときに使わせていただいている。蒔田先生は鈴木先生が書道の先生でいらっしゃると知ると、入門しておられた。
 網走の現指導部長の有沢先生が仕事で大阪に長期滞在されたとき、大阪の会員が住吉、大正道場でご指導を受けた。蒔田完一先生の指導により百十八か条は大阪に根付いた。久先生は百十八か条は「総伝技集に掲載されているよ。」と言っておられた。久先生は、「当時は技の名は言わなかった。」とも言っておられたので、百十八か条は宗家が名称を付けられたのではないかと思っている。久先生は最初に大東流教授代理の植芝盛平先生に師事した時に、記録映画を撮っておられるが、それは、今見る限り今日の合気会の創設期とも読み取れる映像である。宗家は「これは大東流だ。」と言っておられた。朝日新聞社の社主村山邸が後に社宅(曽根崎警察の南)となり、久先生が寮長として住んでおられた。そこには道場があり、築山から久先生の母が道場を見ている時に「誰か。」と武田惣角先生が問うたので、久先生は「母です。」と答えた。その時も「天窓を閉めなさい。」と言って見せなかった。久先生の次女依田喜代子さんは、武田惣角先生を「ただ怖い先生の印象しかありません。」と話しておられた。琢磨会には久先生が残された「写真集」(通称総伝技と呼んでいる)がある。これは先人が残した貴重な資料だ。技を紐解かないと写真集に終わってしまう。前述しましたが、月一度森総務長が総伝研究会を主催しておられる。二段以上の方は是非参加していただきたい。現在の昇段審査では三段からの受験にも総伝技から出題されるようになっています。

 宗家は試写会の後で「大東流合気柔術が色濃く残っている。」と言っておられた。総伝写真を見ながら稽古をしていて気がつくこと、仲間に教わることも多く、なるほどと新たなる発見をすることが面白く、楽しいです。知らないことだらけ、稽古の終わりは見えません。一生修業の身です。修得した技を指導していて「技が変わったのですか。」と質問を受けることもありますが、私だって稽古をする会員の一人です。知り得たことを指導することはありますが、理にかなっていれば、一つの技で何通りも出来て良いのではないでしょうか。先生によって少しやり方が違っても間違いではありません。体験する勇気と、本物を見分ける力を稽古の中で、培ってほしいですね。改める勇気を持つことです。高段者に成るほど、崩しをしっかりとし、反撃、返し技に合わぬよう心して稽古すべきです。技は、無駄な動きを無くし、力をさほど使わず、怪我をさせることなく早く補り押さえるようにするものではないでしょうか。審査技は名称通りの技をしてください。最後の極めはこだわりません。技を行う過程が大切なのです。初伝技で言うなれば、一か条は、二か条、三か条と関係があると言う事が理解できればよいですね。基本が如何に大切なことであるかを理解できるでしょう。例えば、一本捕りから小手詰へ、切返しから掬い投げへと続きます。体を捌き、相手の体勢をしっかり崩し、自分のいる位置、指の向き、肘の方向、自分の姿勢が相手より優勢であるか、それが出来ているかなどを確認すると良いのではないでしょうか。そうすることで上級の技に繋がっていくと思います。初伝百十八技を全部覚える事は大変です。個々に覚えるよりは、グル−プ毎に括ってしまうといいでしょう。共通点を見出すことの出来る人は上級者のような気がします。上級者は、動きに無駄、ムラ、無理がないのです。女性が出来てこそ技であり、大東流合気柔術だと思っています。
 私も最古参の一人になりました。幹事長という立場からではなく、一修行者として、更に大東流合気柔術を琢磨していきたいと思っています。稽古し始めて四十数年になります。その割には下手糞ですが楽しんでいます。生涯稽古だと思う日々です。楽しく稽古をしています。

 それぞれに自分を通して見ている事実がありますので、私と捉えかたが違うことも多々あると思われますが、私の目で見てきた私にとっての琢磨会の歴史です。これが全てとは言いませんが、琢磨会と私の歴史は以上です。