筒台(神戸高商)四年の生活も白駒の隙を過ぐる如く過ぎ去り一九一九年(大正八年)三月廿日、早櫻の蕾の赤らむ頃に卒業した。今時であったら就職問題という難関が控えている訳であるが私どものその頃は今とは大違いで当時の大商社から数少ない卒業生は引っ張りだこであった。というのも丁度その頃は第一次欧州大戦の末期で日本はヨーロッパの各国が数年にわたる消耗戦の最中も日本は僅かに青島(チンタオ)に出兵したのみ、あとはこの連合国に武器兵器、糧食等を補給し巨利を博した時代であったから、各商社とも拡張につぐ充実で社員を増やし、猫の手も借りたい時代であった。こんな有り難いブームの真っ最中だったから卒業生の多くは本科二年の頃から赤紙ならぬ赤札(売約済み)がついており、卒業の際の海外旅行なども実は商社が旅費と便宜を提供して入社の予約をしたのである。卒業まで決まらずに残って居るのはあの社でもない、この店はどうかと学生の側で選択している連中で、要領の良い男は俺はまだじゃと言いつつ各方面の会社からの誘いに色目を使い、度々その招待に出て飲んで回っていたのもあった。
私の場合は土佐寮の関係から鈴木商店と縁があり大体鈴木商店に行きたいと思って居たが、海外研修で、印度へ行った際に現地の三井物産で至れり盡せりの世話になった。カルカッタで三井の栗山謙三さんに弟の如く可愛がって頂き「卒業したら俺のところに来なさい。印度は今後発展する土地だぞ。」と誘われ承諾して帰った。神戸では三井の支店長が私を招いて「ぜひ三井へ入社してくれ、無理に印度に行かなくてもいいのだ。」と勧められたので栗山さんとの約束であるから採用してくれるなら異存はありませんと断言した。それで決まったと思って居たが話が表面化したとき鈴木商店の方から「久君は従来の関係からも鈴木に決まっていると思っていたが、三井に入るとは意外だ。ぜひ鈴木に寄越して貰いたい。」と津村先生、水島校長に強談判であった。一日校長のところに呼び出されて「君は三井と鈴木と両方から引っ張り凧になっているそうだがどんな経緯かね。」と尋ねられたので、印度での約束を守りたいと告げると、「男として一度約束したことをあくまで守るのはよい事だ。しかしたとえ何の約束がなかったにせよ鈴木の方では自分の処へ来るものと決めていまっている。暗黙の約束くらいはあったかもしれだろう。君の郷里の関係から言っても先輩の関係から言っても君には鈴木の方が適している、働きよと私は思う。君が三井を断りにくいなら私が三井に行って話してあげるがどうだ。」私は「萬事校長先生にお任せ致します。」と答えた。三井は校長先生が謝ってくれ私も平身低頭で引き下がった。
さて鈴木商店へ改めて面会に出むくと西川支配人は私のことをよく知っていて「君は苦学したので充分勉強も出来なかったろう。学資を出してあげるから東京の専攻部(現在の一橋大学)へ行ってはどうかね。」「有り難いお話ですが母が年寄っていますので一日も早く楽をさせてやりたいのです。」と答え、面談は人情話に終始した。
鈴木商店で、私は土佐の先輩のいちばん多い鉄材部に配置させられた。先輩に教えられまず算盤(そろばん)、英文電信、プライベートコード、コレスポンデンス、鉄材取引の基礎、重量計算、ストック表から外電による鉄材輸入値の原価計算、エスティメートを勉強した。学校で学んだことで唯一の英語のみが仕事に役立った訳だ。最初に責任をもたされたのがこの英語の出入電報の整理、第二が原価計算、第三がストック表の整理である。なかでもストック表の整理は非常に面倒な作業であったが、会社に出入りするブローカー連中はこのストックリストが商売の種本であったので、私はブローカー連中から大変大切にされた。私は英語の会話は出来たので当時毎年アメリカのニュース・スチールから視察に来る代表たちの案内役もつとめた。
大正八年五月、徴兵検査があり、久方ぶりに故郷へ帰った。池内男登世と共に室戸で徴兵検査を受けた。甲種合格の私と丙種不合格の池内君とが悲喜交々(こもごも)の酒宴でヤケ酒を呑みその料理屋で沈没していたら臨検に現れた巡査が知人で「おまん久君じゃないか、下では池内も倒れちょる。こんなとこで長居せんと早う旅館に帰りや。」と叱られ、ほうほうの体で宿に帰った。
この年の十二月一日に香川県善通寺の四三連帯に経理志願兵として入隊した。出発の日の汽船は見送り客でいっぱいであり、多数のランチが祝入営の旗を押し立てて和田岬の港外まで見送ってくれた。このときは母が一緒に善通寺まで見送ってくれた。善通寺では大阪角力が催されて居り、見物にゆくとぜひ一番やって貰いたいと頼まれ、明日入営する志願兵だとのふれこみで五人抜き戦に出て勝った。親方からお祝いにおごられて夜遅く旅館帰ったところ母は寝もやらず心配していて大変叱られた。申し訳ないことであった。
十二月一日入隊。九中隊野島大尉のもとに配された。その月の半ば頃、斎藤師団長から英文の手紙の書ける高商出身の志願兵をよこせと通報があり、指名されて師団司令部に通うことになった。師団長が北京駐在の武官であった時、同僚たる各国武官に贈られた品々んい対する礼状をそれぞれの人に宛てて書くのが仕事で、私は神戸に頼んでレターペーパーや封筒をとり寄せたりもした。余り丁重に扱われるので連帯や中隊に伝わり特別な志願兵との印象を与えた。こんなパトロンの他に私にはもう一人、理解者が現れた。工兵隊長の宮脇大佐である。同氏は三土宙造氏の舎弟で大の角力ファンで工兵隊では毎日兵隊に角力をとらせて喜んでいた。軍旗際で私の角力を見てからひいきとなり特に師団に交渉して私を工兵隊の助教に任命した。志願兵で助教になるのは異例のことである。兵隊生活で一番うるさいのは細密検査であるが、その前日には必ず工兵隊から「久志願兵は明日早朝より工兵隊の助教に行け。」と命令が出ておかげで面倒な検査を逃れられた。
大佐の発案で師団中の角力好きの兵隊を集め、日曜日ごとに近隣の町村で「兵隊角力大会」をやった。入場料を十銭かそこら取って旅費を出し、残りは全部当該地の在郷軍人会に寄附した。多いときは数百余になったから地元も大喜びでよく出かけて行った。私は宮脇さんから「大海」というシコナを貰った。宮脇さんはのちに代議士となり、時の陸軍大臣宇垣大将に「この頃の軍人の相場はどうか。」と陸軍をヤユしたというので評判になった。後日談だが、私が東京朝日に居た頃、訪ねて来られ「大海に会いたい。」「大海という者は居りませんが。」「いや、たいしかに居る。大海はシコナで本名は忘れた。」「それはひよっとして久君じゃありませんか。」「そう、久じゃ。」と問答の末、面会して「久君が大海ということを誰も知らん。全くなっとらん。」と大笑いされた。全く愉快な人であった。
こんな平和な軍隊に晴天のヘキレキの如く飛びこんで来たのはパルチザン討伐のシベリア出兵だった。真夜中に動員令が下り、非常召集のラッパが営庭に高鳴った。連隊長はさすがに音吐朗々と「大元帥陛下より動員を命ぜられた。凶悪なるパルチザンを討伐するのが目的である。動員第五日に出発する。各員は敏速確実に動員準備せよ。」と伝えたが、隊へ帰ってから中隊長の声はふるえて全く聞き取れなかった。たれ一人実戦経験のないあわれな軍隊なのであった。兵も動揺して居た。この指令が出たとき、志願兵もつれてゆくだろうかが噂された。どこからともなく志願兵のうち、久志願兵だけ師団長附として出征すると噂が立ち、私も覚悟した。翌日、出征部隊と残留組の編成が発表され、志願兵は全員残留と聞いてさすがにほっとした。津島隊長は私を連れて行くべく申請したが却下されたとのことで噂も事実に近かったのである。翌日から営庭は家族の面会で賑わった。というより悲劇の舞台となった。この中からあの有名な『一太郎ヤーイ』のおっ母さんが現れたのである。
いよいよ出陣の朝は暗いうちに整列し連隊長の訓示ののち、軍旗に敬礼し、みな一装用の軍服にピカピカ光る銃剣を携え、純白の木綿で銃を包んで背負う。営門の脇に酒樽が数個、鏡を抜いて並べられ、真新しい柄杓が添えられている。四方の締縄を外して、先ず連隊長が飲み、続く兵が飲んで祝ってゆく。残留組も一部は乗船地まで見送ったが、私は中隊長に命ぜられお酒の入った水筒を抱えては時々、行進の間に「中隊長殿、水。」と差し出した。船は午前十一時頃、詑摩港を出港した。この光景は忘れられない。
部隊はシベリアで大きな戦闘もなく守備に終始したのであるが、「カニのオムレツの中毒」という不測の事故で師団長以下、多数の死者を出したのである。
今回もまた、父の手記をのせて父の楽しい軍隊経験を語った。人のイヤがる軍隊へ、志願して来る馬鹿が居る、という歌があったが、「真空地帯」や「人間の條件」など、昭和期の軍隊は全く評判が悪い。悪い評判を聞く度にふしぎがり残念そうだった。大阪朝日の頃、父は民間人なのによく軍服を着た。写真が沢山残っている。「エライ勇ましい格好やなァ」と朝日の重役にそれとなくたしなめられたと言っていたが、そんな父に同行すると、汽車は三等はダメ(兵隊さんが迷惑するから)、うんど屋にも入れない(同じ理由)、軍服を不便なものだと思った。神戸製鋼所に移ってから宿舎が空襲で焼け、一切の装備・衣服を失ってやっと父は軍隊と、(父自身は大好きだった軍隊と)縁が切れた。ヤレヤレである。いま、感傷的に脈絡もなくいろいろなことを思い出している。父の思い出話
日支事変の初期、大阪朝日へ、ロイターの記者がとびこんで来た。「ウオー、ウオー。」と連呼する彼を、人が父のところへ連れて来た。大陸で戦争が始まったと聞いたが、詳細を知りたいので新聞社へとびこんだと言っている。「こんなところでは何もわからぬ。同盟通信へ行け。」と父は教えたと言う。
「軍服を来て英語を話すおかしなオッサン。」というのが父の評判であったと私は若い新聞記者から聞いたことがある。
依田きよ子