Session6:オリジナリティとパロディ

さまざまなものが存在するこの世界。しかし、究極的にはどんなものの価値など同じかもしれないが、そこは目をつぶり、すべて等しくは評価されないのが現実。人に受けるものがあれば、受けないものもある。そもそも、その概念・物体・作品のアイデンティティーとはなんなのだろうか?

物語のシナリオでいえば、シェークスピアの戯曲ではないが、いくら工夫を凝らしたところである程度の種類にカテゴライズされてしまうのではないか、という話があるが、果たしてそうなのだろうか。元が良いものには、亜流では勝ち目がないのか?


コナミとジャレコとAPPLEとSOTEC
なんか、某Taiのタイトルのようだ(謎)

コナミがビートマニアシリーズでヒットを飛ばしたので、似たゲームをジャレコが出した・・・。同様に、iMacが受けたのでSOTECがiMacに似たデザインのDOS/Vマシンを出してきた。
それぞれ訴えられてしまったのだが、それぞれはそんなにもそっくりではない。そもそも、どこからが訴えられるレベルなのか、なんて線引きは誰にもできないだろう。しかし、今回の例はそれぞれ「ビジネス」なわけで、不景気な今の世の中、少しでも利益を出すことの障害になりそうなものは、早めに手をうっておかないとおまんまの食い上げになってしまう、というのはわからないでもない。

人間の趣向というのは一概にはかれないところが多々あり、商品であれば「売れた」理由をどう判断するか、というのは難しいものである(完璧に分析できれば次も売れる商品が作れるわけだし)しかし、SONYやAPPLEを見る分にはヒット商品と呼んでも良いものを次々リリースしているのはただの偶然なのか?それともオリジナリティという前に、何か人の心を動かす絶対的な何かの要素を確信して含めているのだろうか。

流行とか、マーケティングのうまさとかもあるのだろうが、潜在的に共感できる・人の気をひける特徴があるとすれば、その部分こそがその商品のオリジナリティ(=パクるのはまずい)といえるような気がする。しかし、一朝一夕にそれを見出す・作り出すことができる(誰でも簡単にぱくれる)程度のものならば、人間の趣向も大したことないのかもしれない。

概念の根源
サブタイトルだけはえらく難しそうな感じである。昔見かけた「WIRED」での押井守の言葉が印象的だったコラムから・・・・。

「ネタを作品に入れる時、それが別の作品の中で自分が気に入ったネタだったとき、そのネタの半分は自分のオリジナリティである」と。つまり、、、一般的に既存のネタを取り入れていると自覚している時点でそのネタのオリジナリティ度は0%になりそうなものだが(つまりパクリってことね)、そのネタを思いついたのが自分でなくても、自分の中で気に入って消化できていれば、半分は自分のものとしても良いのではないか?という話である。

例えば、CGアニメを作っていて斬新な表現方法を思いついたとする。それだけならその表現を考えた人がオリジナルになるわけだが、それを見て「ああ、俺もこういうのを考えていたんだ」という場合、それはパクりになり、創作性は0なのか?という話に似てないかな、と。

たどり着く表現手段の数に限りがあると仮定すれば、新しく思いついたようでも何かしら似通ったものになる可能性は高い。だとしたら、先に思いついたか、どうかという違いだけで100%、0%に分けてしまうのは違和感を感じる。

つまり、概念の根源が有限であるか、無限であるか、というのが1つの観点になると思うのだが、どちらを擁護すべきなのか難しいところである。無限であるとするならば、新しく面白いことは次々と創造可能で、出てこないのは本人の努力不足で、パクリは評価されず、e-oneはだめなマシンということになり(苦笑)、逆に有限であるならば、人の考えていることは案外、簡単な数で分類されてしまうということになる。

楽曲の独創性(MIDIとは)
先日も、小林亜星と誰だかが、盗作だなんだと、もめていたようだ。音楽は確か1小節以内の類似ならOKという規則があるらしいのだが、似た曲なんてのはごまんとある。そもそも、同じ人が作曲した曲なんて「同じちゃうの?」という曲がごろごろしている(この場合は別に問題にはならないのだが)

昔から絵画などで真作と贋作というものがあるように、偽者は所詮、大した価値は無いものであるのだが、音楽もそういうわけにはいかないのだろうか?ほとんどそっくりそのままのMP3データをホームページにアップして配布したりするのは流石に論外かもしれないが、個人が耳コピーしたMIDIデータなどはきわどいレベルと思われる。一旦デジタルにしてしまった後はいくらコピーしても劣化しないという意味では脅威かもしれないが、元の楽曲のソース(音・声)を再利用しているわけではないのだから、オールフリーにしてくれも良いと思うのだが、現実はそうではない。

音楽に関しての問題はなんといっても、お金がからむことであろう。逆に同人誌なんかは、一応暗黙に「メディアの可能性の追求心の保護?」みたいな理由で見てみぬふりな状況らしい。そういう意味ではBM98みたいので楽曲の宣伝をして、原曲の知名度をあげるというのも面白いと思うのだが(色々問題があるとしても))

「良いものは広めよう、みんなで共有しよう」、というのは抜け駆け無し、という状況下ではうまくいくと思う。と悲観しているうちにも、MP3のネットでの無料配信とかが少しずす進んできている今、徐々に変化はあるのかもしれない。良いフレーズだったらみんなで利用したって良いのにねえ。2次著作物を認めているリーフの音楽を見習って欲しいものだ

パロディがなぜ面白いのか〜まとめ
某大学サークル群のアニメパロディや、YMOのパロディ音楽、ゲーム元ネタ4コマ漫画など、概してわらかされる。パロディが好きだ、という話は良く聞くし、自分も面白がって見たりする方だ。しかし、その魅力とは一体何なのだろう。

基本的には元ネタがわからないとどうしようもないわけなのだが、良くあるバッシングというか、元ネタをコケにするような類はわらける理由もわかる(作ったことあるしね)。 しかし、そうでない作品も多い。じゃあ、何が面白さなのか。元ネタの面白さをここで考えてみると、良くできたパロディの場合は、元ネタも有名、というか良くできている場合が多い。色々な意味で思い入れが深かったり、詳しかったりする元ネタの場合ほど、楽しめるわけだ。だからどうしたと言われても困るが、「王道」「お約束」「人間が無意識レベルで期待している結果」というものがある程度一致している、数に決まりがあるのではないか、ということだ。。。

結局、全然取り止めがなくなってしまったが、自分なりのまとめとしては「いくらか人に受ける要素にパターンはあるが、その中でやれることはまだやりつくされてはいない」という曖昧な感じである。シナリオの定型に悲観することも無く、気ままにやっていくでも良いのだが。それにしても、面白そうなネタができたらどんどん開示して共有していくという姿勢はせめてアマチュアレベルでは持ちつづけたいものなのだが、富にコンピュータに関してはプロとアマチュアの差が縮まってきているので、例えばソフト開発で言えば、シェアウェアみたいな制度も必要になってきても仕方ないのかもしれない。私は嫌いだが。

今日はこの辺で