追悼 永山則夫

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寺山修司「幸福論」より

拳銃少年永山則夫が、中学時代に「校内一の長距離ランナー」だったということは、彼の犯罪と政治との関わりを知る上ででの、大きなポントとなると思われる。
(中略)

網走番外地で生まれ、北国のどんよりとした重苦しい空の下で育った、貧しい母子家庭の永山則夫にとって、人生は生きるに価いするものかどうか、疑わないわけにはいかなかったことだろう。田畑もなく、生活保護を受けながら行商する母、まったく「いいところのない」むさくるしい八人兄弟の平屋−小学中学と新聞配達をしながら、階段を半分降りたところに腰をかけて、ラングストン・ヒューズの詩のように「トランペットがしみわたるすきっ腹だよ こんなところにゃながくいられねぇ」と想った孤独な少年。近代化の遅れた東北の農村で、発展の必然性を待ちきれなかった永山が、自分の心の抑圧を地理によって解放しようと考えたとしても、それは無理のないところである。

(中略)

永山則夫は「幸荘」の六号室に住んでいた。私もまた、べつの「幸荘」の六号室に住んでいたことがある。同じ北国に育ち、同じ母子家庭から「家出」をたくらみ−東京に失望して海外にあこがれ、それに挫折したあとは、「内なるアメリカ」を大切にしはじめて、モダンジャズ喫茶のコルトレーンやアーチショップの騒音の狂熱の中を、コーヒーをはこびまわる。ともすると、こみあげてくる土着の付属物、津軽弁、などをかくすために身なりはいつもきちんとし、じぶんだけの近代化をおこたりなくする。かれと私の合言葉は、脱出である。