あなたはどっち? 二つの「迷惑」論
〜イラク日本人人質事件から対立する二つの世界観がみえる〜

04.4.15


 イラク日本人人質事件に対する人々やメディアの反応をみているとたいへん興味深いことに気付くようになった。それは、発言する人の世界観の違いによって、反応の仕方にあざやかに二つの異なったパターンが認められるのである。

 その世界観の異なる立場というのは、一言で言うと「国家国民」対「世界市民」という対立軸に関わっている。

 まず、自分が所属する国家の国民であると強く意識する人々がいる。このような意識は近代の国民国家の成立以来、きわめて旺盛に醸成されてきた伝統的意識である。世界は国家によって分割されており、人々はそのくびきから逃れることは困難で、運命を共同することが義務づけられると考え、また、それを積極的に引き受けようとする。そして、自らが帰属する国家の国民として、常にその利益に貢献することを第一義とする。さらに、国際的な領域の問題に取り組むときにおいても、つねに自分が特定の国家の国民であることを意識し、その解決の方途が自国の不利益に結びつかないような道を選ぼうと考える。たとえば、今日の世界で激増する難民問題に対応する場合も、その解決の重要性には首肯するものの、実際の受け入れについては、条件を厳格に設定し、社会問題の原因となりかねないとして難民の受け入れを可能な限り制限しようとするような立場である。だから、その活動は勢い国家やそれに従属する機関を基盤とすることになる。

 一方、自分が世界市民の一員だと強く意識している人々がいる。世界市民という意識は、かつては国際主義などと呼ばれた時代もあった。しかし、今日では、地球環境問題や人権問題、エイズ対策などにみられるような世界レベルの医療・保健への関心の高まりの中で、国家の枠を超え、地球レベルの環境保全や平和建設、人命と健康を価値とする立場が強く示されるようになった。この立場では、単独の国家の利益だけを追求する立場は国家エゴイズムとして批判され、地球環境や人権、医療などの普遍的価値が優先される。たとえば、WHOへの唯一加盟という国益に固執する中国がSARS情報を台湾に提供することに反対したため、台湾のSARS予防に障害となったことはボーダーレス化した感染症に対する国家の無知とエゴイズムを象徴するものとしてきびしく批判される。この立場にたてば、必要とあらば、活動の場をひろく世界に求めることになり、さらに、国家の枠をこえて行動することを心情とするので、その活動はNGO(非政府組織)を足場とすることが自然な傾向となってくる。

 注意すべきは、この二つの世界観はいつも対立しているわけではない。たとえば、ある開発途上国を援助するといった局面では、国家国民も世界市民も、ともに精力的な貢献を示すことがある。前者は途上国の経済の発展が自国との貿易の拡大などをとおして巡り巡って自国の発展にも寄与し、ひいては自国の安全保障や国際的なステータスの格上げに寄与すると考える。後者は、地球的価値にもとづいて貧困の解消が世界平和と環境保全に資すると考えるだろう。また、もうひとつ留意すべきは、前者が好戦的な民族主義、後者が単純な平和主義というわけでもない。たとえば、アメリカのネオコンは世界に民主主義を敷延するという地球的価値観にもとづいて行動する結果、世界に戦乱をもたらすことに躊躇しないし、また、第2次大戦以前のモンロー主義は、アメリカの国益のために、ヨーロッパの戦争には荷担しないと言う平和主義を採用した。

 したがって、単純な議論は避けるべきだが、しかし、今回の人質事件では、この二つの世界観の差異がみごとに事件に対する反応を分けていた。ここでは、それを2つの迷惑論として論じたい。

 まず、国家国民の立場にたてば、自衛隊の派遣は、国際社会における日本の名誉を高める栄えある行為であると考えるか、そこまで積極的にはなれなくとも、アメリカとの同盟関係を維持するための必要経費であり、とりわけ北朝鮮の脅威から日本を守る上で、しかたのない選択だったと考える。だから、その国益に準じる自衛隊派遣に障害をもたらす武装勢力による人質拘束の原因を作った若者たちの行動は批判されてしかるべき行為だと考えるのである。つまり、今回の人質たちの行動は国家の国益に対するきわめて許し難い「迷惑」ということになる。退避勧告のでている地域にわざわざ出かけていき、愚かにも武装集団に拘束され、日本の国益をかけて派遣されている自衛隊の撤退要求の取引材料にされるといった国家国民にとってあるまじき迷惑をかけるとんでもない人々ということになるのである。さらに、劣化ウラン弾の被害などをことあげし、日本の同盟国の戦争のやり方に批判を加えようと言うような国益に反する若者もいることは本当に腹立たしいことと考えるのである。だから、小泉首相の自衛隊撤退拒否発言は、国家の方針にぶれがないことを示し、ひいては人質の命と国益を同時に守る正しい選択だと評価するのである。もちろん、人命の尊重と邦人の保護が重要であることは理解されている(邦人保護というのは、在留民保護が帝国主義国家における海外侵略の恰好の口実になるように国家ナショナリズムの重要な一角でもあることに留意すべきだろう)が、しかし、事態の進展が思うようにいかず、いらだちが募ってくると、「自己責任論」が台頭し、国家の保護にも限界があるといった国家エゴの本音がこぼれ出てくるのである。

 一方、世界市民の立場からは、まったくこれとは逆立した捉え方がされる。この立場では、イラク戦争によって混乱し、疲弊したイラクの人々に対して、直接的な援助と支援を与えることは、きわめて重要なことであると考える。また、その支援のあり方として、戦争の一方の当事者であるアメリカやその同盟国による援助は不適当なものであり、可能な限りそれらとは異なる中立的非国家的な援助こそが必要であると考える。また、イラクでアメリカやその同盟国が非人道的、非地球的行為を行わないよう監視し、そのすべてを知る権利が地球市民にはあると考える。この立場に立てば、たとえば劣化ウラン問題を調査する若者の活動は、地球環境と人権の保護にともに貢献する意義深い任務であり、戦乱の中だからこそ、実行する価値があるということになる。(ただし、今回の人質の若者がその任務を遂行するために十分な実力があったかどうかはここでは問わない。それは、技術的問題であって、それは自衛隊の訓練がイラクでの活動に適していたかどうか分からないのと同じである)一方、アメリカによる統治に協力する自衛隊の派遣は、アラブ民族主義やイスラム原理主義にたつイラク武装勢力の敵意をあおり、イラクにおける日本人NGOの活動に危険と障害をもたらすたいへんな「迷惑」ということになる。そして、小泉首相の自衛隊撤退拒否発言も、事件の解決を一層困難にさせる大きな迷惑ということになる。さらに、人質の救出のためといってアメリカ軍の支援を乞うことなども、迷惑以外のなにものでもないということになる。というのも、アメリカ軍の介入がさらになる現地からの反発を惹起し、また、武力救出によって人質やイラク人民衆にさらなる犠牲が生じることを恐れるからである。

 この二つの立場の差異は、とうてい埋まりそうにない。ただ、そうはいっても、地球市民も今日の世界の現実では、どこかの国民であることを回避することはかなわず、国家国民といえども地球世界を無視しては生存が困難であるという帰属の二重性をともに含んでいるのが悩ましいところである。だから、現実のわれわれの言動は、この二つの間で揺れるのだろう。しかし、はっきり言えることは、今回の事件について、発言されているさまざまな意見や立場を注意深く聞くことによって、その発言者がこの2つの立場のどちら側により強く立っているかを見極めることができると言うことだろう。ふだん、国際協力とか世界平和とかの美辞麗句の陰にかくされている人間の世界観が今回の事件をめぐる発言をとおして鮮やかにすけてみえるのである。それは、本人たちからも自覚されていないものかもしれない。事件の解決を願い、その推移を見守るとともに、メディアや人々の意見にもたいへん興味深く注目するのである。

 最後に私の立場を述べさせていただければ、世界市民といえば面はゆいが、すくなくとも自分を国家国民などと考える立場からはきわめて遠いというのが正直なところだろう。というのも、19世紀以来世界を幾度となく無益な戦争に巻き込んできた国家ナショナリズムにこれ以上拘泥することに、21世紀に生きようとするわれわれ、ましてこれからの世代の未来が託されるとは到底思えないからである。実現の道は困難であろうとも、地球市民としての生き方の道を模索することにこそ、これからの未来を生きる人類の唯一の希望があるからである。

 さて、最後に、個人的にもうすこしあけすけな言い方を許してもらえれば、まあ、関西人のリアリズムかもしれないが、この国からはどう考えても納税額にみあったサービスは受け取っていないように思えるから、お前は国民だなんていわれて、これ以上の献身や貢献や忠誠をもとめられるのは御免被りたいものだ。今回のイラク支援だって、隊員に目の飛び出るような危険手当をだして、水を配る程度の仕事しかさせないような自衛隊派遣に遣われている私の税金をそのまま高遠さんに差し上げたいくらいである。そうすればどれだけイラクの子供たちが助かることだろう。彼女のような援助こそ、真に私の期待するものだからだ。そんな彼女を危機にみちびいた自衛隊派遣はこんな大迷惑なことはない。政府は自衛隊を送るような税金を湯水に遣う道楽もいいかげんにして、はやく日本に引っ込めてもらいたいものだ。