開発批判からポスト近代観光へ
〜ポスト・コロニアルな世界とオルタナティブ・ツーリズム〜
『国際交流』2000.10
山中速人


変化を余儀なくされた観光政策
 近年、観光をめぐる国際環境が急速に変化を示し始めた。その原因のひとつは、大量消費にもとづく近代観光の帰結としての観光資源の過剰使用か引き起こす深刻な環境問題、もうひとつは、豊かな先進国から貧しい開発途上国へ向けられた国際観光の差別的まなざしに対する途上国とりわけ先住民族の側からの批判の急速な高まりである。かつて観光といえば平和産業だとして体制の如何を問わず開発指向の政策が採られてきた時代はすでに過去となった。観光をめぐる環境の劇的変化を受けて、戦後、一貫して開発拡大路線を推進してきた政府の観光政策ですら、昨今の観光政策審議会の答申をみるかぎり変化の兆しがうかがえる。
 平成7年の観光政策審議会答申「今後の観光政策の基本的な方向について」は、「観光施設への閉じ込め型観光サービス」から「地域ぐるみ型観光サービスへの脱皮が必要」と地元地域社会との協調を唱い、また、「観光資源の保全、活用、開発の調和を図り、協同して持続可能な観光を実現すべき」であると提言している。開発中心の資源搾取型の観光から環境や地域社会との調和をはかる「持続可能な」観光へ舵を切ったのである。
 もちろん、この政策変化の陰には、バブル時代の華々しいリゾート列島構想が各地に残した廃墟の群が横たわっている。また、アジア太平洋の各地でリゾート開発計画を展開したゼネコン企業が住民や先住民族の激しい反対運動に遭遇し、外交問題にまで発展しかけた苦い経験がある。
 本論では、このような最近の急激な国際観光をめぐる環境変化を受けて、ポスト近代観光にみられるいくつかの傾向を紹介し、その行方を考えてみたい。

沸き上がった批判〜バブルの底から
 ここで、ポスト近代観光の問題に入る前に、近代観光に対する直接の批判の原因となったバブル時代の観光開発が当時どのような文脈で批判されたのかを確認しておきたい。
 話は、1980年代後半にさかのぼる。
 バブル最盛期の1980年代後半は、観光開発に直撃されたアジア太平洋の地域にとっては、観光が地域社会にどんな問題をもたらすかを思い知った時代だった。80年代最後の89年には、アジア太平洋のその後の観光をめぐる市民的活動にとって重要な意味をもつ会議がいくつも開催されている。中でも、ハワイで開かれた「先住民族に対する観光の影響」を話し合う会議は、オーストラリアで「土地の権利と観光」をテーマに開催されたWCC(世界キリスト教協議会)と並んで、日本の国際観光が先住民族社会にもたらす深刻な影響について議論が集中した。(これらの会議については、松井やより『アジアの観光開発と日本』新幹社が詳しい)
 これらの会議で各地の先住民族や国際NGOが指摘した国際観光の問題点は、つぎの3点に尽きた。
 まず第一に、リゾートなどの巨大観光施設の開発がもたらす環境破壊である。タイのプーケットやマレーシアのペナンやランカウィ島などに見られる熱帯林の破壊、フィジーのヴィチレブ島のマングローブ林の破壊など、大規模リゾート開発による環境の破壊と土地収容による少数民族や先住民族の生活破壊が顕著に見られた。これら開発プロジェクトの一部は、日本のゼネコン企業が一翼をになっており、JICAやOECFを通じたODAによる資金援助も行われていた。
 第二に、リゾートに押し寄せる先進国の観光客と受け入れ側の開発途上国の地元住民の間の不平等な関係である。その典型は買春観光であり、韓国のキーセン観光、フィリピンのセブ島やマニラにおける買春問題、インドネシアのバリ島での男性売春問題が大きく取り上げられ、また、買売春に社会的弱者である少数民族の未成年が動員される問題(北タイのアカ族のケースなど)が告発された。また、観光に付随する歓楽街の形成がもたらす犯罪や薬物汚染などの社会問題が指摘された。
 第三に、観光によっての地域の伝統文化の破壊や変容が進み、その尊厳が失われるといった批判の声があがった。観光による文化変容は、以前から、たとえばV.L.スミスの『ホスト・アンド・ゲスト』研究のように文化人類学が研究対象としてきたが、この時期の批判は先住民族の側から直接提出されたことに特徴があった。たとえば、観光資源として動員された台湾やタイの山岳少数民族グループからは、多数派民族の観光業者が伝統文化を娯楽化し、女性習俗を性風俗化することに批判が投げられた。
 これらの批判や反対運動の激化は、直接的には日本のバブル経済期の観光開発が引き金となったものだが、しかし、近代観光のもつこれらの矛盾は、今世紀初頭から存在してきた古い問題であった。今世紀以来のハワイの観光開発とそれが引き起こしてきた先住民族の文化変容の問題を歴史的な視点から研究してきた私から見れば、80年代後半に生じた問題の多くは、今世紀前半のハワイのそれと非常に類似した構造をもっている思えた。ここで、ハワイの事例に触れながら、近代観光のもつ構造的な特性についてまとめてみたい。

近代観光の装置〜負の先進地ハワイから
 ハワイはおそらく世界でもっとも早く今日の近代観光の粗型が完成した場所である。
 1893年、当時ハワイ王国を経済的に支配していたアメリカ系白人農業資本家たちのクーデターによって、女王リリウオカラニは政権を奪われた。その後、共和国の時代を経た1898年、ハワイはアメリカによって併合された。当時、最大の産業はサトウキビ生産だったが、すでに、次を担う産業として観光が注目されていた。
 施設産業としての近代観光に不可欠な用地は、タロイモの水田が広がる沼地だったワイキキを埋め立てることで確保した。その際、政府は借地権を持つ農漁民に対して衛生対策の名目で沼地の埋め立てを命令し、その費用を払えない大半の借地人に借地権の放棄を要求した。こうして養殖業や農業を営んでいた零細農民は土地を奪われ、埋め立てで造成された更地はビッグ・ファイブと呼ばれる五大農業財閥の手に渡った。以後、ワイキキ開発はこれらビッグ・ファイブによって独占的に進行するのである。
 他方、観光客の誘致先は、大衆社会の成立期にあった米本土だった。大量の観光客を誘致するために、大量交通手段と巨大宿泊施設が準備された。ビッグ・ファイブの支配下にあるマティソン汽船会社がロサンゼルス=ホノルル間に巨大客船を就航させる一方、1926年、ワイキキ海岸にニューヨークの設計事務所が設計した大規模ホテルが建設された。また、観光地としての楽園イメージは、アメリカ各地の博覧会やハリウッド映画とのタイアップで製作された楽園映画によって広く本土に定着していった。
*(観光開発による環境の改変や破壊、先住民族の観光資源化やその文化の商品化による変容はこの過程で起こった。)政治権力と結びついた開発資本、大量輸送手段、大規模宿泊施設、マス・メディアによる広告という4つの要素が近代の観光開発に不可欠の要素とすれば、ハワイの観光開発は、それらの各要素が融合したマス・ツーリズムのプロトタイプと言っても過言ではない。私は、この観光産業とマス・メディアの結びつきを「メディア観光産業複合体」と呼んでいるが、この複合体こそマス・ツーリズムとしての近代観光の本質であり、ハワイは、その意味で、それが生み出す負の側面の典型ともなったのである。
 ところで、マス・ツーリズムに対する批判には、大きく言って2種類ある。一つは、D.ブアスティンの『幻影の時代』に代表される「旅行の大衆化」に対する批判である。商品化された旅行が個性や創造性を失い擬似イベントと化している現実を批判するこの立場は、しかし、その「本物の旅と贋物の旅」を区別する視点がエリート主義だとする批判や「本物と偽物」という枠組み自体を疑問視する批判を浴びた。
 もう一つの批判は、観光に大衆が参加すること自体を問題視するのではなく、その過程に伴う諸問題(たとえば、自然環境や文化財の破壊、地元地域社会の隷属化、先住民族の伝統文化の破壊や変容など)を問題視する立場である。
 後者の場合、マス・ツーリズムによって引き起こされた観光の負の側面は、観光を生産する制度やシステムの改良と変革によって克服されるべきものとして捉えられる。この考え方に立って、80年代後半に展開されたNGOや先住民族によるマス・ツーリズム批判の一部は、90年代に入って、新しい観光のあり方を提示する運動として結実していった。これを境に、アジア太平洋地域で、従来のマス・ツーリズムと異なる「もう一つの」観光の試みが数多く登場するようになる。

オルタナティブ・ツーリズムの多様な展開
 マス・ツーリズムと対比的に新しい観光の形態を指す概念として、本論では、「オルタナティブ・ツーリズム(AT)」という概念を使用する。
 AT以外にも、マス・ツーリズムと対比する文脈で多くの新しい観光概念が使われている。たとえば、持続可能な観光、適正観光、責任ある観光、ロー・インパクト・ツーリズムなどの概念は、マス・ツーリズムがもつ規模重視の開発指向性に対する対抗的概念として使用されている。一方、エコ・ツーリズムは環境への配慮を重視する姿勢、グリーン・ツーリズムやアグリ・ツーリズムは農業の再評価や農家の参加を重視する姿勢、また、スタディー・ツーリズムやソフト・ツーリズムは、地元の住民との関係の持ち方に視点を置き、前者は学習的姿勢を、後者は相互理解を重視する姿勢を特徴としている。中でもATは、近代マス・ツーリズムとは異なったこれらの新しい観光の思想や形態を特徴的に示すものであろう。
 さて、国際的なATの潮流は、すでに1970年代よりその萌芽を見ることができた。アジア太平洋に限れば、インドシナ戦争の最中、欧米各地で繰り広げられた若者による反戦運動やカウンターカルチャー運動が旧植民地であったアジア地域との新しい対等な関係を模索する運動へとつながり、対抗文化運動として旧植民地への旅行が組織された。その過程で、ATを模索する国際間のネットワークが誕生していった。
 たとえば、タイでは80年代を通じて、従来の植民地主義的な観光のあり方を批判し、対案を提示する『CONCERN FOR TOURISM』誌の発行運動が行われた。これを通じて、タイだけでなく周辺の東南アジア地域の市民運動と、ゲスト側のヨーロッパやアメリカの市民運動との間に、ATを模索する国際的なネットワークが生まれた。このネットワークに刺激されて、同時期、日本にも国際的なATのための市民運動が生まれた。
 
オルタナティブ・ツーリズムとNPO〜ハワイとカンボジアの事例から
 ところで、ATの特徴の一つは、観光を利益追求の道具とせず、ゲスト=ホスト関係に支配従属関係を持ち込まないことである。とすれば、ATを担う主体は、当然、非営利性と市民的な公益性を担保することが求められる。欧米では、多くの非営利法人(NPO)や非政府機関(NGO)がATを事業化して成果を上げている。日本では、NPO法が成立したばかりという事情もあって、ATを担う団体の多くは形式的に営利企業の形態をとっている。しかし、今後は、NPO法の充実や税制優遇措置も期待され、NPOがATの中心を担うことが予想される。
 NPOによるATの取り組みとして、現在、私自身が関わってる活動を以下簡単に紹介しながら、NPOによるATの可能性について論じてみたい。

1. ハワイ(オアフ島ワイアナエ)の事例
 ワイアナエ地区は、オアフ島西端の町で多くのポリネシア系先住民人口を抱えた貧しい地区である。ここにATの企画が持ち上がったのは、日本人観光客用のリゾート開発計画をめぐって現地で反対運動が続いていた1989年のことだった。リゾート建設は先住民社会にとって文化と生活を破壊するものと映った。
 この反対運動は、計画の一部を変更させて収束したが、この過程で、日本人の観光形態が批判され、その対抗案として、リゾートでない新しい形態の観光が日本と現地の市民間の話し合いの中から浮上した。これが、現地で社会教育活動を展開するNPOの一つであるマカハ農園に滞在しながら先住民族の文化やハワイの軍事基地問題を学ぶスタディー・ツアーとして実現していった。
 このツアーでは、参加者はホテルに宿泊せず農場か協力者宅にホームステイし、先住民族団体の運営するタロイモ教育園でハワイ文化についての実習を行ったり、軍事基地を訪ねて平和学習を行うというものであった。また、訪問するだけでなく、相互交流(ゲスト=ホスト関係の逆転)にも取り組み、ツアー代金から積み立てた費用で先住民リーダーを日本に招聘する活動も行った。
 この活動をもとに、ATのための宿泊施設、ハレオマルヒア(平和を創る家)が1995年に建設された。建設に際しては、日本、ハワイ、イタリアで募金運動が行われ、6万ドルが集められた。(日本での募金団体は「タロイモ基金」代表・領家穣関西学院大学名誉教授)
 この施設を拠点に、ツアーが毎年夏に企画され、これまで学生、主婦、教員、農業者、僧侶、ジャーナリストなどの各種グループが現地を訪ねた。日本側での実務を担当するのはATを専門に企画運営する大阪の旅行社のマイチケット社(http://www.asahi-net.or.jp/~ud4k-ymd/index.html )で、ツアーの募集に際しては、このプログラムがATであることが明記され、料金の算定に際しては宿泊施設の使用料を通常のホテル並に設定し、現地NPOである農園を通して地元に還元する方針が採られている。

2. カンボジアの事例
 一方、カンボジアを訪問するツアーでは、国内のNPOとATを結びつける試みが行われている。内戦で衰退したクメール伝統絹織物の復興を通してカンボジア農村の村興しを進める現地NGO、クメール伝統織物研究所(IKTT)の活動やハワイ先住民のタロイモ栽培を通した村おこし運動を日本側で支援するためにNPO法人・アジア太平洋農耕文化の会(理事長・渡部忠世京都大学名誉教授)が結成された。このNPO法人の主要な事業の一つがATである。
 毎年、東南アジアを中心に現地の農民団体やNGOとの協力のもとに、交流と村おこし支援の活動を組み込んだツアーが企画されている。(詳細は、渡部忠世編『市民流フィールドワークのすすめ・モンスーンアジアの村を歩く』家の光協会)とくにカンボジアに関しては、アンコールワットのあるシエムリアップにIKTTが開いたクメール織物の工房で作られる伝統織物・手工芸品の企画や生産のための資金援助、日本での販売支援をNPOを通じて行っている。日本での販売については、フェアトレードの考え方にもとづき、日本市場での伝統工芸品の価格を根拠に算定し、事務経費を除いた収益をすべて現地に還元し村興しに再投資する原則を採っている。こうすることによって、カンボジア側での職業開発や村づくりのインセンティブがもたらされることが期待できる。
 経済的な規模を考えれば、ハワイの事例もカンボジアの事例も*(きわめて)小規模なものであり、現地の地域経済やコミュニティに与える影響は(きわめて)小さい。たとえば、カンボジアの村で伝統織物を織ることによって農家にもたらされる収入は月に10ドル程度で副業に過ぎない。しかし、従来の近代観光が規模の経済を追求し、その結果、観光経済に全面依存するいびつな構造をホストの側に作ってしまったことの反省がATの根元にある以上、むしろこのような現地に負荷をかけない規模の小ささこそ、AT本来のあり方だろう。
 さて、NPOが観光事業に参入することのメリットはなにか。まず、市民参加による国際交流が一層促進される。さらに、旅行業界全体に関わる航空運賃やサービス価格の決定メカニズムの透明性が高まることが期待できる。また、従来見えにくかった受け入れ国側での観光開発をめぐる環境破壊、人権侵害や経済的搾取に対する監視も容易になるだろう。この分野で先行するアメリカでは、NPO主催のツアーが中南米の先住民族に対する人権弾圧の抑止に一役買っているし、また、NPOツアーが既存ツアーより市場競争で優勢を示す場合すら現れている。

ポストコロニアリズムと観光〜先住民の文化戦略
 ところで、これらゲスト側の動きに並行して、ホスト側にも大きな動きが起こっている。一言で言うと、先住民族の政治的覚醒である。
 これまで、ホストとしての開発途上国の国内では、開発独裁型の政治権力が外貨獲得戦略として観光開発を展開し、政治的マイノリティとしての少数民族は、その伝統や文化を「観光資源」として国家と多数派民族グループによって一方的に搾取されてきた。少数民族は、ゲストとしての旧宗主国とホストとしての途上国多数派からの二重の搾取を受けてきた。しかし、冷戦構造の崩壊とフィリピンやタイ、インドネシアの独裁政権の崩壊にみられるような途上国内の政治体制の民主化によって、途上国内の少数民族や先住民族の異議申し立てや権利主張が活発化している。
 今日、先住民族の権利回復の要求の高まりは、途上国・先進国の如何を問わず、世界的傾向になりつつある。たとえば、今世紀において最も観光化が進行したハワイでは、ハワイアン・ルネッサンスと呼ばれる民族文化復興運動が興り、フラなどの伝統文化はもとよりハワイ語の復興も進みつつある。このような先住者の権利回復運動は、彼らを観光資源として搾取してきたホスト側多数派から自らのアイデンティティを取り戻す運動に発展しつつある。その過程で、観光化された文化表象を自己否定し、より「真正な」民族文化の再構築が先住者側の文化戦略として繰り広げられつつある。
 先住民族(とくに、多文化主義政策を採る欧米先進国における先住民族)の中には、観光自体を自分たちのイニシアティブの下に置き、非先住者の参入を政治的に排除することで先住民族の経済的利益を確保しつつ、他方、失われた文化の回復をはかるオルタナティブな観光戦略を展開する人々も登場してきた。たとえば、北欧のサミ人はサンタクロース観光と一体化させられてきたサミ人の工芸品の伝統を民族的著作権として社会的に認めさせるよう運動し、一部それに成功した。また、北アメリカの平原先住民たちは、かつて自分たちを隔離するための装置であった居留地の特権を利用して賭博場を経営し、その収益を民族復興の経済的基盤として利用し始めている。このような先住民族による観光の逆利用という新たな文化戦略も、ポスト・コロニアルな世界におけるATのあり方として今後さらに注目を集めるだろう。
 しかし、このようなポスト・コロニアルな状況の下で繰り広げられるゲストとホストの間のオルタナティブな関係において一つの皮肉な葛藤が生じ始めている。それは、文化の「真正さ(オーセンティシティ)」をめぐる葛藤である。植民地宗主国であった欧米の国々(ゲストの側)は、植民地化された地域の文化について評価と意味づけを従来一方的に行ってきた。これに対して、先住者(ホストの側)は、彼ら自身にとっての「真正な」文化を今日逆に提示し始めている。このイニシアティブを取り戻した先住者の側が戦略的に装う文化本質主義、つまり、これこそ我々の文化の本質なのだという先住者の主張は、他方でエスノセントリズム(自文化中心主義)に結びつきかねない。このような状況に対して、ATが本来もつ、*対等な交流によって相互に影響を与えあうというリベラルな(言い換えれば構築主義的な)文化観はどう切り結ぶことができるのだろうか。
 近代マス・ツーリズムを植民地主義の申し子として批判してきたATにとって、この先住者によって主張され始めた文化本質主義は、ホスト=ゲスト間の新たな葛藤の火種となるかもしれない。