1999.3.8
「日の丸・君が代」にまつわる思い出

 君が代斉唱・日の丸掲揚を指導要領で強制する文部省の通達を巡って混乱する学校現場の悲喜こもごもがニュースになるようになって数年が経ち、また、その季節がやってきた。今年は、広島で教委と教組の板挟みになった校長が自殺し、重苦しい季節になってしまった。
 このニュースを聞いて思い出したことがある。小学校時代の思い出である。
 昔、私が通っていた小学校は、カトリック系の小学校で、厳格な規律を生徒に科すことで有名であった。教員は、平気で鉄拳制裁をした。私立ということもあるのだろうか、教員の中にはナチス・ドイツを公然と礼賛する教師もいた。宗教の時間を担当するオランダからやってきた外国人神父は、ユダヤ人差別を平然と口にし、ナチスによる虐殺を当然の報いのように言ってのけた。反抗的な私は、おかげで宗教の成績は、10段階評価で4であった。
 キリスト教系といっても、日の丸・君が代は当然であった。運動会の日には、麗々しく鉄筋の校舎の最上部に掲げられたポールにしずしずと昇る日章旗を君が代の斉唱とともに敬礼し、その後、なんとアベマリアを歌って聖母の恵みを祝福するのであった。むちゃくちゃのようにもみえるが、万事は、それで収まっていた。
 今から思うと、ナチス礼賛教師や日の丸・君が代の存在は、なんとも不思議な思い出であり、かわいらしい制服を着て、中産階級の子弟たちが通う私立小学校になんとも不似合いな風景であった。だが、それはれっきとした事実であった。
 しかし、だからといってこの小学校がすべて抑圧的な学校であったというわけではなく、女子生徒が半数以上で30人を切る少人数クラスのせいもあってか、けっこう、のんびりした小学校時代であった。男の数が足りないので、野球をするにも、サッカーをするにも、女子を入れなければゲームができなかった。だから、ハンディをつけたり、ローカルルールを作ったりといろいろ工夫した。お返しに、女子の遊びにも参加した。リリアン編みが流行ると、男子もリリアンに狂った。通学の電車の中でリリアンに没頭する男子小学生をみて、他の乗客たちはさぞ驚いたことだろう。
 その小学校を卒業して、公立中学に入った後、私は初めてふつうの学校では日の丸を揚げないことや君が代を歌わないことを知った。しかし、日の丸・君が代はなかったが、教師の暴力はその後もちょくちょくあったし、また、高度成長期のマスプロ公教育の下では、個性を殺し、タフでないと生きていけなかった。過当競争からくるいじめで転校する子もいた。名札の着用を義務づけ、校門で遅刻点検をする集団管理にはついに慣れることができなかった。
 つくづく思うのだが、子どもの生活にとっては、日の丸・君が代よりも重要なことがある。たとえば、クラスが大人数学級か、少人数学級かの方が、もっと重大なことなのだ。その意味で、日の丸・君が代で騒ぐ前に、もっと考えなければならないことは山ほどあるといいたい。しかし、そうはいうものの、君が代・日の丸を押しつけられることは耐え難いものであるが・・・。
 ところで、そんな小学校教育であったのに、現在の私がナチスや日の丸・君が代を人並みに批判できる自我を形成できていることに、ある種の安心感と自負を覚えるのである。そして、同時に、結局、そんな取って付けたような教育なぞ、人間の長い成長という観点からみれば、いかに無力であるかを感じずにはおれない。
 押しつけられたものは、所詮、無力なのである。
 たとえば、カトリック系の特色として、月曜日の一時間目の道徳の時間は、お御堂と呼ばれる教会でミサに参加することになっていた。これが、また、不思議な時間であった。校長を兼ねる神父が、前方の祭壇の前で鎖の房のついた香ろうをぐるぐると振り回し、祭壇に祀られた箱の扉を開いて中から何物かを取り出し、壇上に並んで口を開けた信者たちの口にそれを押し込んでいく。要するに聖体拝受と思しき儀式なのであるが、信者の子供は別として、その白い食べ物に対する興味以外は、何のことやら皆目理解できず、まったくおもしろくない時間であった。
 ところがそこに異変が起こった。当時、ローマ教皇であったヨハネス?世(23だったか、24だったかは失念した)が危篤状態になったのである。担任の教師が、厳かにその事実をクラスで告げ、教皇様のご回復を願って、それ以来、毎朝、早朝ミサに全員で参加することになったのである。
 多くの場合、私立学校に通う生徒の大半は、電車に乗って長い通学時間を費やした後に学校の門をくぐる遠距離通学生である。私の場合も、学校まで約1時間10分の遠路を通っていた。したがって朝8時15分登校の時間に間に合わせるには、自宅を7時には出る必要があった。そうすると起床は6時である。冬の朝など、まだ暗い早朝の凍り付いた道を駆け出していくのである。
 ところが、これに早朝ミサが加わったのだから大変である。登校時間は、さらに繰り上げられ、自宅をでる時間が6時30分ということになってしまった。誰も文句は言わないものの大変であった。口に出さないが、誰もが早くこのような苦行からの解放を願った。その結果、遠距離通学児童の大半が、お御堂で密かにヨハネス教皇のお早いご冥福を祈願するようになった。
「心優しい教皇様、どうかはやく死んでください。そうしたら、僕たちは、朝ちょっとでもゆっくりと眠ることができます。ご飯もゆっくりたべられます。お願いです。教皇様」
子供たちの真剣な祈りが天にお父様に通じたのか、教皇様はまもなく息をお引き取りになり、早朝ミサはなくなった。そして、また平安な日々が訪れたのである。神父たちの誰が、一見敬虔そうな子供たちが実は教皇の死を真剣に祈っていたなどと想像できただろう。しかし、私は信じるのである。当時、世界中のカトリック学校で早朝ミサにかり出された子供たちが彼の一日も早い死を内心祈っただろうことを。そうでなければ、あんなに簡単にぽっくりと死ぬことはなかったに違いない。
 私がこんな昔の不信心を、今、告白する気になったのは、なにごとも上から強要してはならないということを申し上げたかったからである。君が代であれ、日の丸であれ、イエズスであれ、マリアであれ、子供たちに上から押しつけてよいものは何一つないのである。そんなことをすれば、子供たちは心の中でのろいの言葉を発するであろうし、また、たとえ、そのときに受け入れたように見えても、人生の長い成長の過程で化けの皮は剥がれ、辛辣な批判の矢を報いられるに違いないからである。私の小学校時代の早朝ミサの経験とナチス礼賛教師の存在がそのことをよく物語っている。