2004年6月30日

若者が投票にいかないと得する人々がいる。それでもいいかい?

 若者はいつまで無関心と政治的沈黙をし続けるのだろうか。私は、たいへん興味をもって観ている。というのも、現在の政治状況は、これから日本社会の支え手となる若者たちにとって、きわめて過酷な事態を招くような政治的選択をしつつあるからだ。

まず第1に、今回の年金法の改正がもたらす状況がそうだ。これから毎年増加し続ける年金掛け金を支払いつづけるのは、若者だ。しかし、彼らが年金を受け取る年齢になった時、かれらが手にできる年金は、本当にみすぼらしい額にならざるを得ない。「自分は年金を掛けなければ損はしない」と思っているのは愚かだ。政府は強制徴収や税金にすればなんとでもできるだろう。若者が羊のように反抗することなく、黙って掛け金を支払ってくれることほど、政府にとって嬉しいことはない。とりわけ、社会保険庁に天下りして、高給をはむ厚生労働省の官僚たちにとって。

第2に、憲法改正がもたらす状況である。改憲派の最大のもくろみは、自衛隊の国軍化にあることは言を待たない。ただでさえも入隊者の確保が困難な自衛隊を抱える政府が、国軍に昇格後しばらくして国民に国防の義務を課し、徴兵制を復活させることは避けられないだろう。もちろん少子化社会だから戦前のような人損に対する無自覚な徴兵はないかもしれない。しかし、兵役の復活が若者の人生にとってどれだけの障害と厄災となるか、韓国やロシア、ドイツの若者に聞いてみればよいだろう。

第3に、構造改革と自由化のかけ声の陰で、ここ数年間の間に、労働者を保護するさまざまな雇用関係法が改正され、働くものの環境が急速に劣悪になっていることだ。派遣労働が認められたことで、企業は、身分が保障された正社員の雇用を抑え、派遣労働者で置き換えることができるようになった。多くの企業は、すでに雇用されている中高年の既得権を崩して若者を雇用する困難な道ではなく、中高年はそのままにして、新たに雇用する若者を派遣労働者にしてコスト抑制をする安直な道を選んでいる。企業と政府は、若者にしわ寄せする形で、自分たちの取り分は確保したまま、着実に社会全体としての賃下げを達成しつつあるのである。

かつて、こういう社会状況が起これば、労働運動や社会主義運動などが勤労者の権利をかかげて政府に抵抗した。社会主義思想は社会を統御する方策としては、その非効率さが露呈したが、国家権力やむき出しの資本主義に対するチェックと抵抗の機能としてはきわめて強力に機能していた。しかし、今日、社会主義も労働運動にも、若者たちの参加はみられない。連帯して巨大な支配勢力に立ち向かう方法は失われたままだ。脳天気なマスメディアは、「君が次世代のビルゲイツだ。起業家になって、勝ち残れ」と威勢がよいが、1人の勝ち組の陰には100人の負け組がいる。グローバル化する世界経済を視野に入れれば、少子高齢化による人口減少と経済の停滞期に入った日本で生活しなければならないということ自体、すでに負け組の一員にカウントされているのかもしれない。

ならば、こういう社会状況に対する若者の適応戦略は、なんだろうか。いつまでも親のすねにかじりつくパラサイト化か? それとも、海外脱出か? しかし、この失われた10年の中で、親のすねも細くなった。また、留学熱は相変わらず盛んだが、相手国の永住権や市民権を持たない一般の日本の若者の中で実際に海外脱出できる者の数も、現実にはきわめて少数だろう。

先の戦争で、多大な国民の犠牲を強いた日本政府は、戦後、はげしい国民の反発を受け、国家の戦略に国民を直接動員する政策をとることに躊躇してきた。現実の政治は、利権や汚職が横行する不公正に満ちたものだったが、だからといって、国民の命をかり出すようなことは慎重に避けてきた。だから、国民は政治の不正に目を背け、それを口実にして無関心を決め込んだが、だからといって命まで差し出すことはないと安心しておられた。

しかし、そのような無関心にも限界がきているようだ。今、何かしなければ、若者の未来にとって、重大な事態が待ち受けているかも知れない。しかし、権利の上で眠る者は、救う必要がないというのが、民主社会の原則だ。若者たちの無関心を見越して、若者に負担を押しつけて笑う者たちがいる。若者たちは、どのようにして自分たちの未来を守るのだろうか、今度の選挙に若者たちがどういう行動をとるのか、私は、非常に興味を持ってみている。