2002年5月11日

日本領事館への亡命者連行事件に思う


 私は、国家の主権を絶対的な概念とすることに賛成しない。というのも、人権や世界経済の効果的な運営などという観点に照らしてみれば、一国の主権を絶対視することは、今日のグローバルな地球社会の現実にとって、決して得るものばかりではないからである。国家が主権をいいださなければ、どんなにかこの世界は過ごしやすくなるだろうというような事態を私たちは少なからず経験している。たとえば、天安門事件以後の中国における人権弾圧、アメリカの京都議定書からの離脱、などなど数え上げればきりがない。しかし、そのような事態に直面したとき、弾力的な主権の理解を妨げ、主権の絶対性を説いてきたのは、つねに国家であり、その忠実な僕としての官僚たちだった。

 ところが、今回の日本領事館に対する中国武装官憲の侵入事件を通して分かったことは、主権の観念が、いかに日本の官僚にとって希薄な存在でしかなかったかという事実である。
 官僚たちは、いうまでもなく、日本という国家から給料をもらい、その存在を前提として生活している人々である。国家の主権について最大の信奉者であるべき人々のはずである。ところが、今回の事件が顕示するところを素直に理解すれば、官僚たちこそ、日本国家の主権というものを軽んずる人々であったということを首肯せざるをえないのである。すくなくとも領事館に庇護を求めて逃げ込んだ北朝鮮の家族の方が、日本という国家の主権のもつ力を信じていたというべきだろう。

 韓国のカメラマンがとらえた映像は、日本領事館の副領事の、緊張感の微塵にも感じられない弛緩しきった勤務状況を余すところなく暴露した。亡命をもとめて生死をかけた北朝鮮の母子の悲痛な状況に対する想像力を決定的に欠いたその姿は、愚かというよりも滑稽であった。彼にとっては、泣き叫ぶ母子より、地面に散乱した警官の帽子の方が気がかりであったのだろう。主権の観念すら希薄な日本の官僚たちにとって、まして人権とはこの程度のものなのであろう。

 常々、これらの官僚たちは、主権をたてに国民に対して国家への忠誠と服従を求めたがる。主権は、国民に対して自分たちの手前勝手な都合を合理化し権威化する時、たいへん便利な道具なのであろう。有事法制をめぐる国会審議で、国家を背負った官僚たちの言説を私たちはここで想起するのである。主権を守るという建前は、この国の再軍備と米軍への追従のみごとな口実として機能していた。

 しかし、今回の事件は、この国の官僚たちにとって、主権とは、拾って差し出した警官の帽子のように易々と譲り渡してしまえるものだということを明らかにしてしまったのである。人間は、正直なもので、とっさの際には、その人の考え方やものの見方の本質が現れてしまうものだ。

 外務省の高官たちは、今回の事態の原因を、亡命対策マニュアルの不備に求めようとしている。しかし、それは鉄面皮な言い訳に過ぎないだろう。マニュアルがあろうがなかろうが、問題は、人間の生死に関わる局面に直面したとき、生理的な反応として行動できるほどに、人権とヒューマニズムの原理を身につけているかどうかだ。姑息なマニュアルがなければ何の対処もできないというのは、マニュアルの基底にあるコンセプト(それが人権であれ、主権であれ)についての根本的理解を欠いている証左であろう。

 わたしたちは、この程度の官僚たちに私たちの生殺与奪の権を与えていることを肝に銘じるべきだし、そのことがもたらす不幸にもうすこし敏感になってもよいのである。