ブータン踏査記

その2 2001/10/28 - 29

ティンプー−プナカ と 農家の訪問調査

10月28日
ティンプーの街を今日は観光する。そのまえに、早朝、ホテルを抜け出しティンプー最大の目抜き通りを山側に歩いていった。早朝ではまだ多くの商店やオフィスは扉を閉じていた。道端でインド人かあるいはネパール人らしき一群の人々が、街の清掃を行っていた。竹箒のようなもので、道端のごみや落ち葉をかき集めては、手押し車に積んでいく。めずらしく早朝から開いている駄菓子屋のようなコンビニのような商店の前には、行列ができていた。また、これから長距離の旅でるのだろうか、小型のバンに荷物のかばんを詰め込みながら、談笑している一群の人々もいた。途中、映画館らしき建物もみた。インド映画のポスターが掲げられていたが、早朝の街にはどこか裏寂れて、場違いな感じもした。
さて、この日は、博物館、国営の工芸品店、ターキンと呼ばれる牛科の動物を野外展示している国立の動物園などを午前中をつぶしてざっと見学した。ブータンの旅行社がコースにいれてくれているので、見ないと損という程度の観光。ただし、観光を研究的に考察する上では、それなりに興味深い側面もあった。
とくに、博物館。
この博物館は、古い民家をそのまま現状保存して展示施設に利用している。いわゆる民家博物館といった趣の展示施設である。おもに近代化される以前の「伝統的な」生活様式を保存しつつ、実際に、民家の周辺で粟や米、とうもろこしなどの農産物の栽培を行いながら、農家の生活についての実物展示を行っている。
ただし、室内に設けられた展示品は、いわゆる陳列展示が中心で、実際にそれらがどのように使用されている、あるいは、されたいたかを知ることは難しかった。また、展示用の民家の内部は写真撮影が禁止されていて、そのくせ、カタログなども整備されておらず、せっかくの訪問もこれでは記憶のかなたに消えてしまいかねないのではないかと思った。
午後は、昨日来た道を引き返しながら、稲刈り作業や脱穀作業を行っている農家を探しつつ車を谷沿いに走らせた。運良く稲の脱穀作業を数人で行っている田圃を見つけた。作業を行っている農民に作業風景の撮影を依頼したところ、こころよく引き受けてくれた。
しかし、ティンプー周辺では、稲刈作業はほとんど終わっているようで、稲刈り作業の撮影はできなかった。私にとっての今回の踏査旅行の目的は、すでに数年来続けてきたアジア太平洋の農村での農作業や村落生活にかかわる映像素材の収集であったが、その目的からみると、今日の行程は、やや収穫の少ないものであったといわざるを得ない。
すこし早めに午後4時ごろホテルに戻った。

10月29日
ドチュラ峠を越えて、プナカまでの比較的短距離の行程である。ドチュラ峠は、標高3116メートルあり、そこからはブータンの最高峰群が一望できる。早朝の方が雲がかからずみえる確率が高いとのガイド氏の助言を受けて、朝、8時30分に出発した。一昨日来た道をすこし引き返すと立体交差になった分かれ道があり、ひとつはパロ、他の一つはプナカへと続く。そこをプナカへとると、あとは、ドチュラ峠まで、一気に標高を稼ぐ登り道となる。日本から持って来た気圧計の針はどんどん上昇していく。3100メートルを指したあたりで、あてずっぽうに「もうこの辺りでしょうか」と尋ねるのが早いか遅いか、そこは峠であった。
峠には、仏塔があり、辺り一面に白や赤など色とりどりの旗指物用の×が林立していた。その傍らで、丁半博打に興じる男たちもいた。仏塔の周辺には、ツェツェとよばれる小さな土饅頭様の焼き物がこれも無数に並べられていた。ツェツェは、死者の骨と土をこね合わせて、素焼き様に焼き上げたものと、祈願のために焼くものとの2種類があるそうだが、そのどちらもこのように仏塔の周辺に並べられるため、どれが故人の骨入りのツェツェなのかは誰もわからないのだそうである。ブータンでは、死者のための特別の墓というものはない。その代わりに、このツェツェを焼き、仏塔の周囲に備えるのだそうだ。そして、どのツェツェが誰の骨かもわからず、仏陀の庇護の下に死者たちは眠りにつくのである。
ドチュラ峠にたって北側のはるか遠方にそびえる白く雪をいただいた標高7000メートル級の山々は、朝の光に輝いて、ひたすらに神々しかった。日本アルプスの俊峰も、これにははるか足元にも及ばぬようにこのときは思った。ただし、これを長野県人に話せば、きっと気分を悪くするに違いないのだが。
峠からみえるブータンの俊峰の中でも、もっとも高く威容を誇るのが、ガンカープンスム(7541メートル)。その左手に頂上が平坦になった、読んで字のとおりのテーブルマウンティン(7094メートル)、そのずっと左手にそびえる3つのピークをもつ山がジョモラリ山(7316メートル)である。このジョモラリ山は、京大隊によって初登頂が行われた山である。

峠からの眺望を満喫したあとは、一路、プナカでと急ぐ。その途中、農家を訪問した。

農家のインタビュー1
最初に訪問した農家は、ティンプー郊外のソフスガ村のドルジーワンモンさんの家である。ブータン人は、家族名をもたないから、この名前は、われわれに応対してくれた今年60歳になる女性の名前である。同居家族は8名で、この女性の夫はすでに亡くなり、夫の兄のことし92歳になる男性がこの家の最長老ということになる。かれは、ラマの称号をもち、かつて僧院で僧侶を務めていた。高齢に達したため、僧院を離れた。この国では、僧院に入る僧侶は、結婚を禁じられており、家族を持たないことから、老後は弟の家に同居することになったという。彼は、この家の仏堂を護持する役割を担っており、家族の尊敬を集めていた。
その女性の娘の一人が、まだ7ヶ月の男児を背中におぶって私の質問に答えてくれた。彼女は、現在27歳で、5年前に結婚した彼女の夫とともにこの家に同居している。ブータンでは、結婚後、妻側夫側のどちらの実家に居住してもかまわない。夫は農業の傍らタクシーの運転手をしており、農外収入を得ている。そのせいもあってか、家屋の構えも周辺の農家より堅牢で、この周辺の農家の中では、比較的裕福な家庭だと思われた。彼女には、5人のきょうだいがいる。一番上の兄は、ブータン政府の公務員として働いており、下の弟は、まだ高校生とのことであった。妹のひとりは、障害を負っていて、同居家族が面倒を見ているとのことであった。
農家として栽培している作物には、まず米があげられる。今回のブータン調査では、多くの農民に栽培面積を尋ねても、何々平米といった正確な面積の答えがない。そのかわり、耕運機で開墾するのに何日かかるといった答え方で返ってくる。ここでも同様に、耕運機で耕してx日かかるという答えが返ってきた。同行の農学者に尋ねたところ、耕運機の能力から推定しておよそx平米くらいだろうということだった。この10月末の時期は、ちょうど米の収穫時期にあたり、この農家でもすでに米の収穫を終えていた。収穫に際しては、自家の労働力だけでは足りないので、周辺の農家に手助けを依頼するとのことであった。そのとき、手伝いにきた農民には、1日50nuの手間賃と朝昼2回分の食事が提供されるとのこ
とであった。
米以外に、小麦、くだもの、野菜(キャベツ、タマネギ、ニンニク)などであり、週に一度、ティンプーの市場まで売りに行くとのことであった。家屋に併設された動物小屋では、牛を飼育していた。牛はもっぱら搾乳のために飼育しており、肉牛として販売する目的はない。
家屋の構造は3階建てで、1階はもっぱら家畜の飼育のためのスペースであり、人家の入り口は、いきなり2階に急な梯子を使ってあがる形になっていた。入り口には立派な木製の扉がついており、それに金属製の錠前が取り付けられていた。一般的に、ブータンの農家は非常に立派なたたずまいをしており、通常でも3階、大きな場合では4階建ての豪壮な農家も散在した。入り口を入って、すぐ右手にまがると、そこは居間で、インタビューはそこで行われた。
台所には、各種の電化製品が並べられていた。8人もの家族のための炊飯器はさすがに大きかった。自分の子供時代、多くの従業員を使っていた開業医の実家のキッチンを思い起こした。
さらに、居間と反対側の奥には、仏間があり、北陸地方の仏間を思い起こさせるような巨大な仏壇が祭られていた。この部屋の隣が、今年92歳になる最年長のラマの居室となっていた。仏間には、ブータンの仏教特有の釈迦像を中心にした3体の像を上段中央に安置し、その両側にさらに3体の像を安置していた。下段中央には、高名なラマ僧の写真が飾られていた。
インタビューに応じてくれた子連れの娘さんに、この家にある写真を古い順から見せていただくよう依頼した。
すると、夫がかわりに、奥に引っ込んだかと思うと、一枚の写真を手に持って現れた。その写真は、ガラスケースに納められた1枚のラマ僧の写真だった。
このラマ僧こそ、戦術の92歳の老人が50歳の記念に撮影した写真とのことであった。50歳の記念というからは、計算して、今から42年前の写真ということになる。写真が撮影されたときの状況を記憶していないか、老人に尋ねたところ、誰だか知らないが、カメラをもった男性が村にやってきて、そのときに、その男性が撮影してくれたそうで、その後、焼き付けられたモノクロの写真が送られてきた。その写真が、居間、老人が手に持っている写真で、この家族に現存する最古で、かつ、唯一の写真であるとのことだった。

農家のインタビュー2
プナカ近郊のチャンユ村に住むゲムチャリンさんの農家を訪問した。
3世代10人の家族のうち、3人がこの農家に居住している。これら10人の家族構成は、第1世代の夫婦(妻56歳、夫61歳=本人)を筆頭に、第2世代のきょうだいが、5人いる。これら5人きょうだいのうち、最年長が女性(37歳)で、すでに結婚して現在はティンプーで暮らしており、夫との間に3人の娘がいる。つぎは、男性(30歳)で、プナカ市内で高校教師をしている。ほかに、女性(28歳)のきょうだいが1人、男性のきょうだいが2人いる。そのうちの一人は、まだ15歳で、現在、高校に通っている。訪問時、同氏の妻はプンツェリンの娘の出産の手伝いに出かけており、留守とのことであった。
ゲムチャリン氏は、16年前に軍を退職し、そのとき購入した現在の農地で農業を営んできた。
耕地面積も小さく、都市近郊ということもあって、稲作はしていない。トウガラシ栽培を中心に行っており、収穫したトウガラシはティンプーに持っていって売りさばいているとのことだった。この周辺では、多くの農家がトウガラシ栽培を手がけているという。
耕作面積をたずねたところ、耕運機で1日で耕してしまえる広さだと答えた。これを戦術の農学者に換算してもらったところ、20〜30アールの広さだろうとのことだった。収穫したトウガラシを販売して得られる収入は、およそ1500〜2500nuになる。しかし、昨年は、不作で5000nuにしかならなかったと答えた。
生活費は、年で5万nu程度だと答えた。農業収入では生活を支えるには不十分で、退役軍人といっても、年金はなく、家計の大半を子供たちからの仕送りに依存して生活しているとのことだった。
通された居間には、本人の写真と子どもの写真が1枚だけ飾られていた。本人の写真がいつ撮影されたものかを尋ねたところ、25年前にインドとの国境警備の任務についていたころ、国境の町であるプンツェリンの写真スタジオで撮影したものだと答えた。
本人の写真の傍らに、大きめの額に7〜8枚ほどの写真が飾られていた。一見、家族の写真のようにみえたので、近づいてよく確認したところ、王室の家族写真であった。最上段右上には王妃の写真が飾られ、その下に王子王女たちの写真が飾られていた。
家族全体の集合写真がないのは、ブータンの農家の特徴のように思われた。しかし、家族の紐帯が希薄かというとそういうわけでもなく、毎年1回、プジャと呼ばれる法事に一族全員が遠方よりあつまって祝い事をするとのことであった。しかし、そのときに写真がないかどうかを尋ねたところ、やはり、そのような写真はないとのことであった。

農家インタビュー3
パロ近郊のイエンイショーデン地区に住む農家を訪ねた。応対をしてくれたのは、1ヶ月前に出産のためティンプーから一時的に実家に戻っていたチャンナムカーさんであった。生まれたばかりの息子を蚊帳のかかった寝床に寝かしつけながらわれわれの質問に応対してくれた。
彼女を含めた現在の同居家族は9人である。彼女によれば、最近では少なくなった3世代同居の農家である。第1世代は、72歳の祖母、祖母の夫はこの家には同居していない。次に、第2世代の44歳になる母、彼女の夫は高校の英語の教師をしている。そして、第3世代のチャンナムカーさんのきょうだいたちである。きょうだいの最年長は、チャムナカーさんのすぐ上の姉で、彼女は23歳。そして、次はチャムナカーさん本人、彼女は、21歳で息子はまだ1ヶ月に満たない。彼女の夫は、31歳の軍人で、昨年結婚して現在はパロ市内の軍専用の官舎に移って独立をした。彼女の下には、ティンプーの専門学校の技術者養成課程で学ぶ20歳の弟、14歳と13歳の妹、さらに、最年少の9歳の弟がいる。
耕作面積は13エーカーあり、一家の収入は、農業収入と農外収入が半分半分とのことだった。おもな作物は、米、小麦、ジャガイモなどであり、換金作物として野菜を生産していた。換金作物の代表格は、リンゴである。現在、成木が60〜70本ある。しかし、最近は収量が減少傾向にあるとのことだった。
彼女は、現在、長男の出産のあと、実家にもどって静養をしているわけであるが、出産は、ティンプーの病院でおこなったそうである。ブータンでは産婆による自宅出産も広くおこなわれているので、病院での出産は、この農家が比較的上層の階層に属していることの一つの証左であると思われる。
彼女に、この農家に保存されている家族写真がないかたずねた。すると、彼女の傍らでインタビュー風景を眺めていた母親のティンレイエムさんが変わりに答えてくれた。彼女に連れられて別室に移ると、その壁面に彼女の夫の祖母に当たる女性の写真が飾られていた。写真には、2人の女性が立ち姿で並んで写っていた。写真の中の若い女性はブータンの女性が着る伝統のキラという民族衣装をきちっと纏って写真の中におさまっていた。向かって右側が祖母、左側がその女きょうだいである。この女性は、ブータンの2代目の王と結婚をしたという。彼女には子どもがなく、財産をすべて王家に寄付したのだとティンレイエムさんは語った。写真は、したがってブータンの2代目の王の時代のものということになる。2代目の王というと、現在から90年ほど前のことになるはずであるから、この写真も相応に古いものということになる。写真には、かつてよく行われたモノクロ写真に擬似的に着色をほどこしカラー化が行われていた。ただし、そのカラー化は、写真全体ではなく、女性の借用している民族衣装のキラの文様の部分だけに行われていた。
そして、ティンレイエムさんは、われわれが写真に目を凝らしている間に、写真中の女性の着用しているキラとまったく同様の文様をもつキラをどこからか出してきてわれわれに見せた。生地の新しさからみて、彼女が取り出してきたキラは、写真中のキラではなく、同じ織り方で新たに折られたキラであることが分かった。つまり、このキラの文様は、彼女の家に伝統的に伝えられている固有の文様ということになる。誇らしげに、そのキラを見せる彼女と、壁の写真とをいっしょにカメラに収めることにした。この農家には、機織気があり、もっぱら母親が機織を行っているとのことだった。しかし、追った布は、販売するのではなく、もっぱら自家消費されるとのことであった。
彼女に、なぜこのように古い写真を飾るのかと問うたところ、先祖の記憶を残すためだというもっともな答えが返ってきた。
ところで、ブータンの家庭に、家族や先祖の写真の飾られていることがすくないことについて、ガイド兼通訳のキプチュイ氏に尋ねたところ、死んだ人の写真を飾るのは、悲しみをさそうということで、ブータンではあまり行われないという回答だった。しかし、この農家では、少なくとも、祖祖母の写真をこういう形で飾っていた。そういう意味では、この農家の写真のあり方は、他の農家とはすこし異なった写真観を持っているのかもしれない。

農家インタビュー4
次に、訪問したのは、同じくパロ周辺のチョミタンカ地区にある農家である。アポイントメントを採らず飛び込みの訪問インタビューをしているので、ちょうどこのときは、家族の数人が共同で刈り取った稲の脱穀を行っているところであった。
脱穀は、ブータンではよく見かけられる叩き落とし法によるものであった。脱穀風景をビデオに収録してから、屋内に上げてもらい、インタビューを行なった。インタビューに答えてくれたのは、今年21歳にある女性で、名前をキンレヨンといった。彼女は、現在、東ブータンに住んでいる銀行職員をしている夫と結婚しおり、夫との間に9ヶ月になる男の子がいる、彼女とこの夫とは、別居しており、ときおり、夫が彼女の実家であるこの農家に通ってくるとのことであった。彼女の下には、19歳で学校に通っている妹、同じく学校に通っている17歳と11歳のきょうだいがいる。
同居している父親の年齢は、現在、56歳で、軍を退役してから地元の病院に看護士として勤めている。母親は、名前をツオンペンといい、現在、55歳で、家で農業に専念しているとのことであった。この母親は、ガサの出身で結婚してこの家で夫と同居するようになった。この家は、父親が住んでいたものであり、およそ築40年ほどになるという。
農業について、みてみたい。まず、農地は、0.5エーカーであり、先述の農家とは、ずいぶん規模が異なる。栽培している作物は、米のほかは、小麦やじゃがいもであった。これらの作物は、この周辺の農家と同様であった。
彼女の家には、家族写真らしい写真は、ほとんどなかった。その代わり、サービス版に引き伸ばされた父親の写真が飾ってあった。その写真には、父親が膝をおって高位と思われる男性から何かを押し頂いているさまが写されていた。詳細を尋ねると、娘にあたるキンレヨンさんは、この写真は、昨年、父親が昇進をした際、郡の首長にあたる人物から辞令をもらっているところを撮影したものであると答えた。写真を撮影したのは、父親と同じ職場に勤めている動揺であるとのことだった。

農家インタビュー5
最後にmパロの町を流れる川を越えたドルジ地区の農家を訪問した。通訳兼ガイド役のツィーウオン氏の説明では、この周辺は比較的貧しい農家が集まっているとのことだった。家屋に入ると、一階部分が家畜小屋になっており、牛が飼われていた。ブータンでは、伝統的に家屋の一階部分に家畜を飼うのが古くから行なわれてきた。しかし、このような生活の形態は、不衛生だということで、近年、政府の指導で家畜小屋を屋外に移す政策が採られている。しかし、この農家では、まだ家畜との同居が行なわれていた。
われわれに応対してくれたは、今年61歳になるウチューという男性であった。彼は未婚で、この家に、弟夫婦とともに暮らしている。弟は50歳で結婚しているが、妻とは同居していない。この夫婦の下には、20歳になる娘がおり、35歳で農務省で働いている夫とともにこの家に同居している。そして、この若い夫婦には、1歳になる男児が生まれている。
ブータンでは、別々の家族に別居している夫婦は例外的ではない。この農家でも、この弟夫婦以外にも、60歳になる妹の一人が東ブータン在住の夫を持っている。ほかに、40歳になる妹がこの家に同居している。
この農家は、約2エーカーの農地を保有しており、他の農家と同様に米や麦を栽培している。また、換金作物としてのリンゴの栽培も行なっており、60本の成木を所有しているとのことだった。
この農家が持っている写真は、わずかに2枚だった。まず、生き生きとした表情を輝かせるウチュー氏の美しいカラー写真が1枚、柱にピン止めされていた。みごとな写真だった。ナショナルジオグラフィクス誌のグラビアを飾りそうな写真であった。なぜこのような写真がここにあるのか、仔細を尋ねたところ、ウチュー氏のいうところでは、昨年、ゾンの祭りに参加していたところ、イギリスの写真家がこの写真を撮ってくれたというのである。