2003.12.9
イラクに派兵される自衛隊員に犠牲者が出る前に言っておきたいこと



 
アメリカは対テロ戦争を叫んでイラクに攻め込んだ。アメリカ軍は首都を攻略したが、フセイン大統領も捕らえていないし、ゲリラ化した兵士たちや国際義勇兵たちとの戦闘も続いている。日本はアメリカ軍による首都制圧を終戦とみなすという欺瞞を弄して、今、イラクに自衛隊を派遣しようとしている。今日、そのための閣議決定が行われた。その理由もアメリカとの同盟関係の維持というイラクの平和とはほとんど無関係な目的のためである。これを参戦といわずになんというのだろうか。いまさらいうのも白けるばかりであるが、憲法違反は明らかであろう。

 
あの凄惨で愚かなアジア太平洋戦争に対する民衆の圧倒的な経験が戦後憲法の非戦規定を支えてきた。それが、ついに根底的に骨抜きにされた瞬間に今われわれは立ち会っている。

 
イラクに派兵された自衛隊にもし犠牲者が出れば、政府の政治責任は免れない。だから自衛隊に犠牲が出れば、この政権の好戦的な姿勢にブレーキがかかるだろうという見方がある。しかし、それは非常に皮相な見方だろう。一般的に、兵士を送りだした国の国民は、派遣された兵士の死に対して敏感であると同時に、その死を美化する傾向をもつ。兵士を送り出すまでは、それに反対し、批判することは比較的自由であるが、一旦派兵されたあと、まして、犠牲がでたあとは、批判することができない雰囲気が社会を覆っていく。もちろん、派遣した政治家たちは批判されるかもしれないが、犠牲になった兵士たちは、決して無駄死にだとはいわれない。犠牲になった兵士たちの死は、結果として、メディアや世論によって美しく装飾されるのである。それを政治権力が利用しないわけはない。

 
現情勢を冷静に考えれば、今回のイラク派兵でもし自衛隊に犠牲がでれば、それはまったくの犬死というものであろう。しかし、それを言っていられるのは、犠牲がでるまでの短い時間に過ぎない。犠牲がでれば、その瞬間に、国民やメディアは愛国的な美談でかれらの死を飾り、冷静な論評を許さないだろう。そのような状況の中では、これまで政府を批判していた野党も、兵士たちの死が無意味ではなかったという言説に呪縛され、本質的な批判を展開することができなくなる。犠牲になった兵士たちの遺族たちに同情が集まり、テロを回避するために本来するべき非武力的な努力を冷静に議論することが困難になっていくだろう。それは、ちょうど9.11の多発テロ事件の直後のアメリカを覆ったあの情動的な反応と、それを利用しようとしたブッシュ政権の手口を彷彿とさせる。

 
かつて「戦地で戦っている兵隊さんたちのことを思えば、文句は言えません」などといった、言論と思想に対する自縛的状況がふたたび起こってくるに違いない。人間の死という厳粛な事態が、批判的精神の存在する余地と余裕を社会から失わせてしまうからである。このような言論と思想の自縛は、この社会の自由な雰囲気を根底的に変化させるかもしれない。

 
理性とユーモアの沈黙がすぐにやってくる。まだ犠牲者がでていない今だから、言っておきたい。今回の派兵で犠牲になる兵士たちの死は、本来の自衛隊の存在規範から鑑みて、ほとんど意味をなしていないだろう。マスメディアと政府と世論にヒステリックなナショナリズムが一世風靡する前に、今回の派兵の愚劣な性格をわれわれは正面から見つめておかねばならないのである。

 
この国家の新しい世代の国民たちは、今後、このような国家の方向とどのように付き合っていくのだろうか。戦後のこの国の仕組みは、たとえ非民主的であろうと不正にまみれていようと、国民の命までは取らないと言う不文律を維持してきたという一点において、国民はこの国の政治権力の存在に無関心でいることができた。どれだけ投票率が低く政治的関心が薄れようとそれでもかまわない、なぜなら命までは取られないだろうからという甘えの下で、人々は無関心を続けることができた。

 
しかし、これからこの国で生きることは、国家に命を差し出す決意と引き替えになろうとしている。このことに、どれだけの若い人々が気づいているのだろうか。