境界人の力〜民族集団の発展とホスト社会〜

『書斎の窓』No.483,1999.4, pp.18-22.


山中速人


コリアタウン再訪

 最近、大阪市生野区にある「コリアタウン」を久々に再訪する機会があった。東京に暮らしていると大阪に戻る用事があっても、なかなか訪ねたい場所に行かれないものだ。この「コリアタウン」もそんな訪ねてみたい場所のひとつだった。
 コリアタウンとは生野御幸森商店街の通称で、知る人ぞ知る在日コリアンの街、「エスニック・コミュニティ」である。商店街には、韓国・朝鮮料理の食材を扱う店やチマチョゴリなど民族衣装を扱う衣料品店など、在日の生活に必要な品々を扱う店が軒を並べている。
 この街に私がなぜ興味を持ち続けているかと言えば、一九九〇年にこの街の映像記録を撮影したからだ。映像記録と言ってもいわゆるドキュメンタリーとは違う。防振ステディカムという装置をビデオカメラに装着して映像のブレを排除しながら、商店街を中心に周辺約六キロにわたる街路を切れ目なく移動撮影した。撮影の目的は、エスニックなものにせよ、民俗的なものにせよ、この街の文化的な表象をある時間で固定し、景観のレベルで記録しておきたいと考えたからである。
 さて、この街を再訪したのは、撮影時点から九年経った今、街頭景観に浮かび上がった文化表象にどのような変化が見られるか確認してみたいと思ったからだ。もちろん、本当の動機はそんな乾いた学術的なものではなく、美味い食材を求めることにあったわけだけれど。
 再訪して街の佇まいが大きく変わっていることに今更ながら感慨を深くした。九年前この街を撮影したとき、この街がコリアタウンであることを顕示していたのは、商店街の入り口に掲げられていた「チョア!コリアタウン」という垂れ幕くらいだった。ところが、今日、この街の入り口は韓国風の大きなアーチが建設され、商店街のあちこちには、韓国風の装飾具がにぎやかに街を飾り立てている。訪れる人々も、観光客と思しき人々を見かけることが増えた。
 この九年の間に、この街はあきらかに韓国風のおもむきを強めていた。もちろん、このような景観に変貌したのは、厳しい経済環境にあって生き残りを掛けた商店街のしたたかな戦略もあってのことに違いない。しかし、いずれにせよ、この街の変貌をみるにつけ、日本社会のこの数年間の急激な変化と民族集団としての在日コリアン社会の着実な発展を感じずにはおれない。

民族集団を発展させるもの−ハワイ日本人病院への関心−

 一体民族集団の発展とはいかなる要因に依るものなのだろうか。生野の街を歩きながら、私は再びそんなことを考えるのである。この問は、この度、有斐閣から出版する機会をいただいた『エスニシティと民族機関−ハワイ日系人医療の形成と展開』においての常に繰り返してきた問いでもあった。
 この問いに答えるために、私が着目したのは、民族集団の凝集性をもっともよく示す指標の一つであるエスニックな組織や団体であった。これらの団体や組織には、民族系の経済団体、企業、政治団体、病院、福祉機関、新聞社、学校など、その民族集団のメンバーによって営まれるさまざまな組織や団体が含まれるが、それらの中でも、組織化の水準の高い企業や社会機関をエスニック・インスティテューション(民族機関)と呼んでいる。民族集団の凝集性は、これらの組織や機関の発展や衰退を通して顕在化するといってよい。実際、エスニシティを研究する多くの研究が、民族集団の凝集性を計る指標の一つとして、その民族集団のメンバーによって組織されるさまざまな団体や組織の加盟者数や予算の増減を取り上げている。
 この本で私が取り上げたのは、ハワイのホノルルで長年地元の日系人のための医療に携わってきたハワイ日本人病院(現クアキニ・メディカルセンター)の存在であった。この日系医療の中核を担った病院を事例に、私は、その建設と運営に深く関わった日系人たちの活動を資源調達という観点から分析し、民族集団がホスト社会から資源を調達していく過程のダイナミクスを明らかにしたかった。
 この病院が開院したのは一九〇〇年である。この年にホノルルを襲ったペストはチャイナタウンを中心にたちまち拡大したのだが、これに対する防疫措置として政府がとったチャイナタウン焼却の失敗によって、周辺一帯が大火災となり、隣接していた日本人街も類焼し、たくさんの被災者を出した。この被災者の救援のために急遽開設されたのがこの日本人病院の前身である日本人慈善会付属病院である。以来、この病院は幾度にわたる増築と移転を繰り返しながら、ハワイ在住日本人の医療を担う中核的な病院として発展していった。太平洋戦争の勃発によって名前をクアキニ病院と変えたが、今日でも、老人医療に特色をもつホノルルの基幹的な病院として活動を続けている。

「圧迫と差別への抵抗」という言説

 分析を進めるに当たって、この病院の歴史をまとめる作業が最初の課題となった。倉庫に積み上げられた史料のカタログを作り、また、高齢に達したかつてのスタッフたちにインタビューをした。これらの史料を読み進め、また、かつてのスタッフから話を聞くにつけ、この病院を経営し、発展させてきた多くの日本人、日系人の努力は並大抵のものではなかったことが分かってくる。病院スタッフや関係者は、多数派である白人社会の有形無形の圧迫に抗して、日系医療機関を守り通してきた。とくに、古い世代に属する関係者ほど、このような強い感情と矜持を持っておられた。
 多数派からの厳しい圧迫をバネとして民族意識を高揚させ、その拠り所としての民族機関を維持し発展させなければならないというのは、エスニック・アイデンティティの一つの強烈な表現の形であろう。これを民族集団の凝集性という観点からみれば、「圧迫と差別」の存在が民族集団の凝集性を高めるという考え方である。
 日系移民に限らず、多数派の支配の中で自分たちの民族機関を守ってきた人々は、よくこのような言説を口にする。それは、少数民族運動史や移民史などでよくみられる歴史記述のためのメタ史観といってもよい。それによれば、今日のマイノリティ集団の発展や拡大は、ホスト社会からの差別や迫害に対抗してマイノリティたちがその凝集性を高めた結果獲得された成果として顕示されるのである。
 しかし、病院の古い資料に当たりながらこの病院の経営を分析していくと、興味深い事実が明らかになってきたのである。白人系の病院(クイーンズ病院)と比べて財政基盤も弱く、日本人コミュニティからの支援に頼らざるを得ないこともあって、病院管理者たちの記述や発言には白人社会に対する対抗意識が漲っているのだが、実際の経営を丹念にみていくと、白人社会から人材や資金が巧みに日本人病院に流れ込んでいるのである。

資源を媒介する境界集団

 たとえば、一九一七年の新病棟建設募金では、総額の二割がキリスト教団体を通じて白人社会から調達され、その後建設した養老院についても、財政負担の大きい高齢の給費患者を日本人病院から切り離し、共同募金など白人社会からの資金で運営する社会福祉施設に移管するが真の目的だった。また、人材についても、白人系病院で公認看護婦の資格を取得した後、日本人病院に採用された日系二世の看護婦たちの方が、本国から呼び寄せた看護婦や日本人病院で養成した看護婦たちよりも重要なポストに就いていることが分かった。
 このような意志決定は、もちろん、経営者としての冷徹な合理的判断である場合もあろう。また、選択の余地のない窮余の策であった場合もあろう。しかし、いずれにせよ、表向きに「語られた歴史」とは別に、実際に繰り広げられるホスト社会の多数派と少数派の民族機関との関係はきわめて密接に結合されており、資金や人材をめぐる複雑な交換関係が成立していた。
 従来、民族機関や民族組織の発展は、その民族集団がホスト社会の多数派に対抗し、閉鎖的な凝集性を高め、その民族集団内の資源を調達することによってより堅固に達成できるものと思われてきた。しかし、そのような見方は必ずしも実際のエスニック関係のダイナミックな側面を捉え切れていないのではなかろうか。実際の民族機関の発展には、ホスト社会からの資源が巧みに動員される仕組みが存在していることが多いのである。そして、このような仕組みには、ホスト社会と少数派民族集団との二つの社会に属するいわゆる境界人たちが深く関与しているのだ。たとえば、白人社会と日本人社会にまたがって組織されたキリスト教者たち、あるいは、白人病院で訓練を受けた日系二世看護婦たちがそうである。これら境界人たちが、ホスト社会の優位な多数派からマイノリティの民族機関への資金調達に関与したり、また、二世看護婦のように自分自身が交換資源となって白人病院と日本人病院を横断的に移動し、技術やサービスといった資源を貫流させていた。このような境界人たちを私は構造的媒介集団と名付けた。
 民族集団の発展は、たんに集団内部の排他的な凝集力や強固なエスニック・アイデンティティを持った成員の存在にのみ依拠するのではないのではなかろうか。民族集団の排他的な求心力は、むしろホスト社会からの資源調達を阻害することで民族集団の発展に停滞をもたらす可能性が高いのである。民族集団の発展は、その周辺に媒介集団をどれだけ豊かに形成するかにかかっているといってもよい。
 日本人病院の歴史が教えてくれるのは、このような媒介集団の重要性であり、それが今日の世界で繰り返されている民族葛藤を解決に導いてくれるかもしれないと言う予感である。
 東京あたりで蔓延しつつあるテポドン・パニックに心を暗くする昨今、「コリアタウン」の活況の中をあちこちと彷徨いながら、そんなことを考えていた。