95-12-25
日本語学校「訴訟事件」と日系新聞


『正義は我に在り−在米・日系ジャーナリスト群像』社会評論社、1995年12月

1 日本語学校「試訴事件」の持つ意味

 1893年ハワイ島コナに最初の日本語学校が開校して以来、ハワイの日本語学校は急速に全ハワイ諸島に広がった。戦前のハワイの日本語学校が抱えた最大の課題は、米化思想に立った現地アメリカ領ハワイ政府による規制や禁止の圧力に対して、いかに学校の存続を守ってきたかという問題に尽きる。
 1919年3月に領議会に提出された日本語学校取締法案(アンドリュース案)を皮切りに、日本語学校に対する規制は時を追って強化されていった。1920年には、外国語学校取締法が成立、さらに、1921年には、実質的に日本人教師の制限をねらった外国語学校教師検定試験が開始された。そして、1922年には、日本語学校の学年を強制的に短縮させ、日本語学校を実質的に縮小しようとする学年短縮規則が教育委員会で採択された。ここに至って、日本語学校関係者を中心として、その規則を違法とし、実施の差し止めを求める試訴が連邦裁判所に提起されることになった。この裁判が、日系教育界をはじめ日系社会を大きく巻き込んだ「試訴事件」と今日呼ばれる社会運動に発展したのであった。
 この事件が背後にもつ構造を概観すれば、縦糸として日本語学校を米(Americanization)に対する妨げと考える領政府と民族性(Ethnicity)を守ろうとする日本人移民の反目が存在し、横糸として、ともに日本人移民社会を構成する重要な民族的社会集団(Ethnic Organizations)であったキリスト教系勢力と仏教系勢力との間の日本語学校の存立をめぐる思想的対立あるいは政治的対立が影を落としていた。そして、この日系社会内の二つの勢力の対立に、当時ハワイ日系新聞の双璧であった『日布時事』と『布哇報知』がそれぞれの勢力を代弁するメディアとしての役割を果たしたのである。本論では、民族関係論の観点から、たんに日系新聞のみを対象とせず、白人社会と日系社会を含み込んだ当時のハワイ全体の世論状況を現存する多様な資料から明らかにしていきたい。
 ところで、この事件は、ハワイにおける戦前の日本人教育を考える際に、欠くことができない重要な意味をもつ事件であり、すでに、いくつかの優れた研究論文も発表されている。(1)しかし、この事件を民族的運動(Ethnic Movements)としての側面から理解する上で欠くことのできない運動推進組織である試訴期成会の議事録等の資料が、これまで発見されていなかったため、試訴過程のダイナミクスを分析することができなかった。ところが、それが当時日本人病院と呼ばれていた現クアキニ・メディカル・センターの保存資料庫から発見されたのである。(2)この日本人病院は、当時のホノルル最大の日系民族機関であり、その資料庫から「試訴事件」関係の議事録が発見されたこと自体が、当時の日系社会の中でこの「試訴事件」運動が持ったマグニチュードの大きさを示していると同時に、この事件が当時の日本語新聞ジャーナリズムを始めとする日系社会内部のリーダーシップ構造とどのように関係していたかを知る上で、きわめて興味深い示唆を提供してくれている。

2 事件の過程とその背景−日本語教育の拡大と米化主義の台頭−

A ハワイにおける日本語学校の発展

 1923年の「試訴事件」の背景には、ハワイにおける日本語学校の急激な拡大があった。ハワイにおける日本語学校の発展の一翼を支えたのは、日本人移民社会にともに強固な影響力をもったキリスト教と仏教の二大宗教勢力であった。ハワイで最初に日本語学校が開設されたのは、1893年、ハワイ島コナにおいてであった。しかし、ハワイの首府であるホノルルにおける日本語学校の開設は、奥村多喜衛らキリスト教関係者の努力によるところが大きかった。(3)1896年に奥村が開いたこの日本語学校は、その後の中央学院の前身となった。しかし、キリスト教による日本語学校の開設は、数からみれば少数で、最大多数の日本語学校は、どの宗派にも属さない独立系の日本語学校であり、それについで、仏教系の諸宗派に属する日本語学校が第二の多数派を形成した。それぞれの宗派が設立を競い合っていた仏教系日本語学校の中でも、本派本願寺系が最大の勢力を誇っていた。(4)
 1934年に行なわれた日本語学校に関する調査結果をもとに日本語学校を設立母体別に集計したものが、表1である。

−−−−−表1−−−−−

 当初の日本語学校では、日本の文部省編纂の国定教科書を使用し、修身、国語、日本地理、歴史、珠算、唱歌、毛筆書方、裁縫などの教科が課された。また、「天長節」には遥拝式を行ない、教師、学童ともども君が代を合唱し、御真影を拝するといったありさまだったと記録にはある。(5)
 1910年代に入ると、日本語学校に通う生徒の数は順調に拡大を示した。1914年には、ハワイ全島で日本語学校に通う学童の数は1万人を超えた。さらに、1934年の調査では、日本語学校に通う学童の数は、ホノルルで13,838人、ハワイ全島で41,192人に上った。(6)
 このような学童数の増加を反映して、日本語学校の組織化が行なわれるようになった。最初に日本語教育機関の連合団体として組織されたのは、ホノルル教育会(1906年)であった。これに続いて、各島に続々と日本語学校の統合機関である教育会が組織されていった。そして、最後にこの各地の教育会の上部組織である布哇教育会が結成されたのは1914年である。(7)

B 米化の圧力と日本語学校に対する規制の強化

 この布哇教育会の結成を促した要因の一つは、ハワイにおける米化運動の興隆に対する日本語学校関係者の危機感であった。第一次世界大戦の勃発によってハワイの白人支配層の中に急激に台頭したナショナリズムは、ハワイにおける最大の非白人勢力であった日系人に対して、激しい米化要求をつきつけはじめた。これに対応して、設立された布哇教育会では、「日本人学校」を「日本語学校」に改称したり、文部省国定教科書の使用を中止し、ハワイで使う教科書を自主編集したり、国語以外の科目を教科から除外するなどの自主規制の方針を次々と打ち出していった。
 しかし、対策はつねに後手に回り、米化要求はその後も衰えることを知らず、その要求は、最もシンボリックな形をとって日本語学校の閉鎖要求に収斂していった。
 日本語学校に対する批判が最初に公開の場で口火が切られたのは、1919年1月の『ホノルル・アドバタイザー』紙上に掲載されたジャッドによる規制案であった。これをきっかけに日本語学校批判は白人世論を席巻し、同年秋、合衆国教育調査委員会がハワイを訪れ、日本語学校について調査するといった事態に発展した。そして、その翌年の1920年11月、日本語学校を主要ターゲットとする外国語学校取締法がハワイ領議会で成立する。この法案は、日本語学校を代表するハワイ教育会らの修正運動の結果、かなり緩和されたものとなったが、しかし、それでも、外国語学校および教師の許可制、英語を話せない教師の排除、公立学校開校時間内の授業禁止などきびしい制限を含んでいた。

 外国語学校取締法(抜粋)
 (第一条 略)
 第二条 何人といえども前もって教育局に請願し許可を得ざる限り、ハワイ領内にて外国語学校を経営するを得ず
 第三条 何人といえども前もって教育局に請願し許可を得ざる、限り外国語学校にて教授する事を得ず(後略)
 第四条 何人といえども教育局にて民主主義の理想、米国の歴史及び制度に対する知識を所有し、英語会話及び読書をなしうる点において満足せざる限り、外国語学校にて教授する許可を与えられざるべし。(後略)
 (第五条 略)
 第六条 外国語学校は午前公立学校開校に先立ち、または、公立学校時間中授業するを得ず。生徒は1日1時間または1週6時間以後外国語学校に出席するを得ず。(後略)
 第七条 教育局は随時外国語学校にて使用する教科書および教授課目を指定する充分の権利を有し、教育局指定以外の教育課目または教科書を使用するを得ず。(後略)
(後章略)(8)
 
 この法案の成立を皮切りに、1921年には教師の英語等能力資格試験が開始され、つづく1922年8月には、教育委員会で学年短縮規則案が採択され、翌年1月1日よりその実施が決定されたのである。この学年短縮規則とは、外国語学校小学校課程の修学年限を6年とし、幼稚科および第1、第2学年(小学1、2年に対応)への入学を禁止するというものであった。また、同時に、使用する教科書はあくまで英語をベースとした外国語学習を前提としたものに限定するという規則も含まれていた。
 このような厳しい規則が実施されると、当時100カ所を超えた日本語学校はほとんどが存亡の危機に直面せざるを得なくなる。このような事態に至って、ついに、パラマ日本語学校、カリヒ日本語学校、中央学院、東洋学園の4校が同規則および外国語学校取締法の差し止めを求める試訴を連邦裁判所に提起することになったのである。

C 「試訴事件」の運動過程

 これら試訴提起4校は、『布哇報知』の支援を全面的に得て、弁護士のジョセフ・ライトフォートを弁護人とし、1922年12月27日試訴を正式に提起した。この後、各地の日本語学校が続々と試訴提起に踏み切っていった。これらの試訴提起派の学校群は、共同歩調を取ることとなり、1923年1月18日、試訴期成会を結成した。この試訴期成会は、裁判が佳境に入った1924年に体制の立て直しが図られ、第二期の執行体制が組織される。今回発見された議事録は、この第二期の議事録であり、日本人病院で長期に亘って主事の職にあった出羽五十人が、この試訴期成会書記に就任したため、同人の保存していた議事録が病院資料と一緒に発見されたものと思われる。
 最終的には、当時のハワイ日本語学校の3分の2を占める88校が試訴期成会に参加したのである。
 ところで、このような試訴派の動きに対し、領政府も強攻策を次々と打ち出してきた。学年短縮規則についで、日本語学校に通う生徒から1人につき1ドルを課税し、それを支払わないうちは、規則執行停止の仮処分の執行をみとめないという法律229号を1925年4月に成立させた。このような領政府の圧力に対し、試訴派の学校は窮地に追い込まれ、ついに5月6日、一度学校を休校するという非常措置を宣言するにいたった。試訴期成会が、参加各日本語学校に対して発したビラには、その当時の緊張した雰囲気がよく現われている。

 一、インジャンクションノ許可ヲ得ルマデ五月十一日ヨリ臨時休校スルコト
 一、如何ナル威嚇的文句ヲ以テ其筋ヨリ来ルトモ決シテ恐ルルコトナク、一弗課税ハ納付セザルコト
 右御了知相成度候」(9)

 インジャンクションとは仮差し止め令のことであるが、この間、試訴派と領政府教育局との間には、連邦地方裁判所に対して執行仮差し止めの申請、決定、その解除の申請、決定、それに対抗して再度の申請、決定とめまぐるしい法定闘争が展開された。そして、最終的に7月6日に連邦地裁においてデボルト判事より、サンフランシスコの控訴院の判決が下るまで同法の執行を停止するというインジャンクションが下り双方合意に達した。
 一方、試訴派にとって、裁判資金をあつめることは、かなりの難事業であった。弁護士ライトフォートへの報酬3万ドルはもちろんのこと、これに加えて裁判所に1万2500ドルのボンドを積まねばならかった。(10)しかし、この試訴運動においては、ハワイ日本人社会は二つに分裂したため、日本人病院の建設やその他の寄付活動に力を発揮してきた既成日本人団体のネットワークをそのまま使用することができなかった。そこで、期成会は、参加の日本語学校に生徒一人につき1ドルの割当で追加資金の調達を行なったりした。
 さて、サンフランシスコ控訴院に法定を移した試訴問題は、同年11月12日より控訴院弁論が開始された。
 領政府側の代表検事総長のライマーは、法定戦術として弁論を形式化するため、前日ワシントンに発ったので、弁論は試訴側の弁護士ライトフォートの一人舞台になった。ライトフォートは、日本語学校で使用されている教科書を全文英語に翻訳した資料を提出し、反日本語学校派の批判に反論を展開した。(11)
 控訴院の判決が下りたのは、1926年3月22日であった。判決は、日本語学校側の勝訴であった。これを受けて、8月18日、領政府は法律229号を廃止を発表した。裁判は、引続き上級審で継続されたが、1927年1月21日にワシントンの大審院で日本語学校側の勝訴が確定したのである。
 最終的に連邦司法が下した判断は、米国憲法第14修正条項にのっとり、「日本人父兄は不当なる取締りを受けずして子女の教育を指揮する権利を有す」という個人の教育権を全面的に認めるものであった。
 この判決に対し、試訴派は、『布哇報知』に、「米国に対する忠誠を再び表明すると共に、吾人の子女を忠勇、有為なる米国市民として養成すべきことを誓い・・・・・」(12)という声明を発表して、試訴運動を収束させた。
 一連の試訴事件は、ここに終結をみたのであった。

3 日本語学校をめぐる論争の構造と意見分布

 それでは、この「試訴事件」とそれに至る過程で闘わされた日本語学校をめぐるいわば異文化教育論争は、いかなる展開を示したのだろうか。

A ハワイ支配層の論理(白人財界人、保守派白人組織)

 ここでは、領政府による日本語学校に対する規制を背後から支えた白人団体として、次の3つの団体の反日本語学校論を取り上げておくことにしたい。その団体とは、「アメリカ革命の娘たち(Daughters of American Revolution)」、ホノルル商工会議所、それに「ADクラブ・ホノルル支部(AD Club Honolulu)」である。この3つの団体が領政府に日本語学校規制をつよく働きかけたのである。
 中でも「アメリカ革命の娘たち」は最も強硬な意見を主張し、英語以外の言語による教育の必要を一切認めないという立場をとった。この団体の主張の背景には、第一世界大戦後の高揚したアメリカ・ナショナリズムと徹底した米化思想(Americanism)が存在していた。

 「この戦争で得た経験によって、われわれが確信したことは、われわれが、アメリカ主義の発展と擁護をおこたり、外国からやってきてその国の言葉や習慣、理念を維持するための機関や社会に安全な居場所を国家として与えてきたということである。・・・・・われわれの怠惰のために今度の戦争の間に支払った犠牲は、・・・・・もはや繰り返してはならないものであり、そのためにも、明らかに外国語学校は不必要であるばかりか、われわれの国家の安全と団結、人々の繁栄と平和を損なうものであると信ずる。」(13)

 これに対して、商工会議所は、米化主義という原則は掲げるものの、やや穏健な立場をとり、中等教育以上の日本語学校の存在は否定しないが、その行政による規制と初等教育での外国語の使用の禁止を求めるものであった。そして、公立学校の開校時間内の外国語学校の授業の禁止、教師の英語能力の検定と資格制度などもあわせて主張した。(14)
 この商工会議所の見解は、領政府によって対外国語学校政策の根幹として踏襲された。
 また、ADクラブは、外国語学校が子供たちの米化の障害になるという見解を示しながらも、外国語学校が実態として日本人労働者の子弟を放課後保護する役割を果たし、また、非白人の子供たちにとって母国語は将来の職業生活にとって必要であるという判断も示した。そして、提言として、外国語学校を領政府教育局の管轄下におき、将来、可能ならば公立学校の一部として併合することを提案した。(15)

B 白人教師たちの意見(公立学校の白人教師たち)

 行政担当者やプランテーション企業側のどちらかといえば政治的な反日本語学校論に対して、同じ白人である公立学校の教師たちの反対論は、また、違った観点に立つものであった。領政府内務省が1920年に発表した教育調査の中に、当時の公立学校教師たちが日本語学校をどのように見ていたかについての聞き取り調査結果が収録されている。(16)それをもとに、現場の教師たちの反日本語学校論をまとめてみよう。
 まず、教師たちが憂慮したのは、子供たちが公立学校と日本語学校の両方に通わされることからくる健康上の負担であった。

 「日本人の子供たちは非常に長時間また早朝から日本語学校にいかねばならないので、授業中起きていられません。学校での長い時間と長い通学距離のために、朝、充分な食事ができないのです。」

 「親が東洋人の子供たちは、栄養状態がよくありません。子供たちの多くが昼食を食べることができませんし、ときどきソーダ水を飲むか、ピーナッツをかじるか、おそらくはその両方です。こういった状況を救済する手だてがなにかあれば、もう少し学校での能率も上がると思われます。」

 「日本語学校は子供たちを精神的な疲労に追い込んでいます。日本語学校は、子供たちに本ばかり読ませて、体操や運動の時間を充分与えていないからです。」

 一方、確立過程にあったこの時期のハワイ公立学校にとって、私立の教育機関はひとつの脅威であった。この事情が、公立学校で働く教師たちをいっそう日本語学校に対して否定的な態度に追い込んだ。

 「私は、すべての日本語学校は廃止すべきだと思います。それは、公立学校を妨害するからです。日本人の子供は校庭でもいつも日本語で話しています。他の子供たちも日本語の影響を受けざるをえません。多くの場合、日本語学校は公立学校のとなりにあり、生徒たちは公立学校が終わると、その足で日本語学校に流れていきます。」

 「日本語学校では生徒たちに授業中大声で話すことを許しているので、私の授業時間の半分は生徒を静かにさせることに費やされてしまいます。」

 「私は日本語学校は廃止すべきだと思います。人間にとってふたつの言葉を同時に学ぶことは不可能と思います。」

 「子供たちは両方の学校でいい成績をとろうと悲壮な努力をしています。しかし、日本語学校の教師は日本語学校の方が優先順位があると考えているのです。」

 これ以外にも、日本語学校がアメリカに対する忠誠心を薄れさせるといった主張もみられた。
 これら公立学校の白人教師たちにみられる反日本語学校論は、今日の日本の学校教師にみられる反学習塾論とよく似た構造をもっていたように思われる。これらの白人教師たちには、基本的に異文化社会が教育において異なった価値体系と規範をもっているという認識が欠けていた。また、子供の教育に関する二重の権威を認めない教師たちの思想をそこに感じることもできた。しかし、一方、地元の公教育に対して充分な配慮を払わない日本語学校の側の排他性もそこから窺うことができた。
 いずれにせよ、現場の教師たちは、日本語学校の存在を公教育の権威と効力を脅かすマイナス要因としてきわめて否定的に受けとめていたことは確かであった。そして、このような教育現場における公立学校と日本語学校の日常的な摩擦の存在は、領政府に日本語学校に対する規制を正当化する強力な根拠を与えたのであった。

C 試訴派の論理(試訴派の声明と『布哇報知』)

 試訴派の論理は、幼児・初等教育における母言語の優越を主張することから展開された。試訴の当初の目標は、あくまで幼児と初等教育期の日本語教育を規制する学年短縮規則を阻止することにあったからである。最初に試訴に踏み切った4校の声明にも、つぎのようにその主旨がうたわれている。

 「学校撲滅の結果、親子の間柄に於て思想を交換し能わざる悲運に陥るべく、是れ万人の斉しく感知さざる所なるべし。」(17)

 この主張を、試訴派を全面的に支持する『布哇報知』が、次のように補強した。

 「日本人の家庭の実際に通ぜぬ人には、幼稚園と第一第二の三級を廃止せば、それだけ日本語に接する機会が少なくなるから、英語を覚えるに利益が有るように思われよう。しかし、それは大なる誤りである。彼らは日本語を使用する父母の膝下に育ちきたれるが為に順序として其の初めに覚えた言葉は日本語である。・・・・・日本語学校への通学を差し止めても、日本語使用を廃せしめることが出来ぬ。」(18)

 米化を急ぐ白人支配層の論理は、幼児期の日本語教育は英語修得の妨げになるという点を強調していたが、逆に、試訴派の論理は、英語の修得は自然にまかせても否応なく達成されるが、日本語は衰退する一方であるから、よい日本語を保持するためにも幼児期の日本語教育は必要であるという立場を強調した。その背後には、ハワイ定住によって移民たち、とくに二世子弟たちの使う日本語が変質しつつあるという危機感があった。

 「今でもいわゆる妙齢の美人が途方もない言葉を使って聞く人を恐縮せしめる事がある。もし、日本語学校が在って之を矯正しないとせば、今日の日本人子女が必ず甚だしい言葉を使うであろう。事実、今日の日本人子女の言葉には閉口である。」(19)

 試訴派の大半を占める日本語教育関係者と日本語学校脅威論を唱える白人教師や米化論者との間には、実際に日本語学校で行なわれている日本語教育の効果について、非常に大きな事実認識の格差が存在していた。日本語学校関係者にすれば、二世児童たちの日本語離れは、止めようもない現実であり、崩壊する日本語を辛うじて食い止めるのが、精いっぱいであったということであろう。
 これに加えて、試訴派の日本語学校必要論には、日本語がこれら日系二世にとって、将来、就職などに不可欠であるという切実な現実認識に裏付けられていた。

 「日本人子女が其の母国語を知らねば近き将来に於て就職難に遭遇することは形式や体裁論の上から行なうべきものでなく、彼らの将来を思って親切の上にも親切に考えてやるべきである。」(20)

 事実、当時のハワイでは、就職に関する差別のため日本人子弟の多くは日本人相手の日系ビジネスに職を求める傾向が強かった。その際、就職の条件として日本語が話せることは、不可欠の条件であったのである。(21)
 試訴派にすれば、二世に日本語教育が必要となる遠因の一つは、白人社会からの日本人排除にあるということになる。
 一方、試訴派は、米化論者の主張を逆手にとる反論も行なった。試訴派は、元来、外国語学校取締規制自体が米国憲法に違反するという立場をとっていた。したがって、白人米化論者に対して、この国では、もし行政による不法な権利侵害を受けたと信じるときは、泣き寝入りせず断固これと闘うのが真のアメリカ精神であるから、自分たちは、本来の意味で正しく米化したがために試訴に踏み切ったのであると反論した。

 「もし、立場をかえて県会なり教育局なりが、違法の法律若しくは規則を設けて米人の権利及び行動を制限したとせば、彼らはおそらく一分の猶予もなさず法定で争うだろう。之を敢えてするは社会の平和を破る所以であると説く者あらば、彼らは米国の憲法を無視して得たる邪悪にして安価なる一時的の平和を望まずと云うであろう。茲に真の米人の意気を見る。」(22)

 つまり、試訴派が主張したのは、米化というのはアメリカ建国の理想と民主主義の精神への忠誠であり、試訴を提起することは、民主主義の権利意識を日本人が内面化した現れであり、それこそ日本人の米化が達成されつつあることの証明であるという論理であった。この試訴派の論理には、白人の反日本語学校論者が米化を英語の使用や生活習慣の西洋化という文化的な次元の問題とする論理に対抗し、人権や法的平等などの社会原理の問題として再規定する立場を読みとることができる。
 この意味で、試訴派は、反試訴派に対して、返す刀で彼らこそ真の米化の意味を知らない米化せざる人々だという批判を投げつけた。

D 反試訴派日本人の論理(奥村多喜衛と相賀安太郎『日布時事』)

 日本人社会の中で試訴派に対して試訴反対の立場から言論を展開した人々がいた。試訴批判派は、総領事を含めたホノルル日本人社会の体制的指導層を代表する人々であり、これにキリスト者が加わった。これら批判派は、『日布時事』を支持メディアとして、試訴派を撹乱した。
 ここでは、『日布時事』の主筆であった相賀安太郎とキリスト教の立場から試訴を批判した牧師の奥村多喜衛に焦点をあてて、その反試訴の論理を探ってみたい。
 まず、当時の日系支配層の立場を代弁する『日布時事』の社主であった相賀安太郎の試訴批判の根拠は、日米関係の悪化を配慮することの一点につきた。これは、当時の仏教・教育界を除く日系エスタブリッシュメント全体に共通する見方だと受け取ってよい。(23)

 「非試訴派が何故に試訴にあくまで反対したかというに、それはこの地における日米人の融和と、われらの二世たる日系市民の将来を案ずる一念からであった。元々、試訴派も非試訴派も日系市民に対する日本語教育の必要を信ずる点においては、同一である。且つ当地に於ける日本語学校の存続を望むことにおいても同一である。・・・・・非試訴派の側では、何といっても問題の主体は日系市民である。なるほど、自分の子女を教育する権利は、その両親の手にあるにしても、日系市民の教育機関を県(引用者注:領政府を当時、県と呼んだ)の教育局が監督せんとするのは当然である。それを阻止せんとする試訴派の説は不当であると信じた。」(24)

 したがって、彼らにはつぎに取り上げる奥村多喜衛のように天皇ナショナリズムを批判し、自ら進んで米化を受け入れるような積極性は持ち合わせていなかった。
 このようないわば事なかれ主義的非試訴論とは、異なって、キリスト教の奥村多喜衛の論理は、もっと積極的な米化論に依拠していた。奥村は、以前から徹底した米化論の支持者であり、自ら進んで、自主的な米化運動を指導していた。
 奥村は、ホノルルで最初に日本語学校を設立した功績を持っていたが、1900年にハワイがアメリカに併合されて以降は、よい米国市民となることが在ハワイ日本人の使命であると説き、日本語学校から国民教育の方針を取り除くべきだと主張した。

 「我らが子女も市民権を付与せらるるとなれば、その教育方針も改変せねばならぬこととなったので、先ず、第一に日本人小学校叉は日本人中学校の名称を改めて布哇中央学院となし、日本国民教育を施す云々の規則は全くこれを撤廃した。其の頃すでに全島各地に日本学校は雨後の筍の如く起こり、内地の学校その侭で盛んに忠君愛国の精神を鼓吹した。かくては、必ず近き将来に面倒な問題が起こるに違いない。私は自分が児童の為を思うて始めた日本語教育が返って第二世の発展を妨げるような結果となっては相済まぬと、深く自己の責任を感じたので、すべての日本学校は国民教育の方針を改めて純然たる国語教育となさねばならぬと口に筆に極力主張した。」(25)

 奥村の米化教育論は、米化を白人文化への同化と考え、同時に米化をキリスト教の摂理を受け入れる過程とみなす立場によって支えられていた。

 「彼ら米国人の要求する所は、実にこの精神的同化であって、外形的同化ではない。・・・・・しかして精神的同化の実を現わす途色々あるべきが、詮する所は左の二点に帰着するであろう。・・・・・第二は米国人品性の基礎であり、家庭の精神であり国家の生命であるキリスト教を受け入れることである。」(26)

 奥村の経歴は、他の在ハワイ日本人支配層と比較すると異色である。奥村の自伝では、かれは自由党の壮士として三大自由建白事件に参加し、治安条例違反に問われ、東京追放の処分をされた。その後、奥村は、貧窮の中でキリスト教と出会い、同志社で宣教師の資格を得た後、伝道のためハワイに渡ってきたのである。したがって、奥村の思想は、天皇ナショナリズムに批判的であったが、それは同時に、キリスト教主義を媒介としてハワイ白人支配層から受容される要素ともなった。したがって、奥村の日系社会におけるリーダーシップは、白人支配層との仲介能力によって維持されるという側面を持ち、奥村もそれを巧みに利用した。というのも、領政府教育局長ヘンリー・キネーの次のような発言をみれば、奥村の仏教攻撃が白人米化論者にすくなからぬ影響を与えていたことは確実とみられるからである。

 「もともとこの日本語学校問題の起こったのは、日本人側からであった。日本語学校中その校数のきわめて少ないある宗派(キリスト教)の首領が、この問題を提起したのが、事実である。その目的は、うたがいなく日本語学校の全体あるいは少なくとも反対宗派(仏教)の学校を閉鎖しようとするためであった。」(27)

 この意味で、試訴事件は、日系社会内部の政治的な勢力争いとしての側面をも強くもっていたのである。

E ハワイ白人知識人の立場(大学人たち)

 ところで、以上の日本語学校問題のいわば当事者たちからやや距離をおいていた地元知識人たちの立場は、いかなるものであったのだろう。
 これら地元知識人を代表したのは、ハワイ大学の教員たちであった。かれらは異文化としての日本文化に対しては、価値の相対主義の原理にたって尊重する立場をとり、言語教育と異文化理解のための日本語教育の必要性を確認した。しかし、実際に日本語教育を担当している日本人教師の能力については、高い評価を与えてはいなかった。また、かれらは、天皇ナショナリズムのイメージにつらなる日本語学校のあり方に対しては、きわめて強い拒否感を現わした。
 このような地元知識人の考え方がよく示されているのが、ハワイ大学教授ボーハイ・マコイが1919年2月6日に行なった講演である。マコイの論理を要約すると次のようになる。

 「日本人が日本に誇りを感じるのは当然である。ハワイにおいて日本語が必要であることは、確信するところである。言語の修得は、その文化の長所と教養を理解することであり、日本文化の価値をハワイの日本人に伝えることは重要である。米本土では、どの大学でも数種の外国語を教えており、ハワイではその中に日本語が含まれるのはひとつの必然であろう。・・・・・一般のアメリカ人が日本語学校に悪い印象をもつのは、仏教派の学校がミカド崇拝を鼓吹する傾向があるからである。そのような教育方針は、今日の民主主義の時代にそぐわないと思われる。・・・・・また、一般に日本語学校の教師の給料は月30ドル程度と安すぎる。これを大幅に引き上げて、教師の質の改善を行なう必要があろう。」(28)

 これら知識人の日本語学校を容認する立場は、基本的に多様な文化的価値の存在を認めようというリベラリズムに通低するものであったから、それは同時に日本人の一元的な天皇ナショナリズムの価値観に対しては批判的な立場をとらせることになったのである。

4 考察−エスニシティの保存とホスト社会への帰属−

 以上にまとめたように、試訴事件に至る日本語問題をめぐる論争には、多様な立場と論理が展開された。
 さて、最後に試訴事件の過程を、民族関係との関連において分析してみたい。
 白人支配層の反日本語学校論は、植民地における同化政策のひとつの典型としての言語政策の一端を担うものであった。この論理を移民の異文化適応との関連で捉えれば、言語の英語化を通じて白人アメリカ文化へ同化を促進させることによって、アメリカの一部としてのハワイ社会での地位上昇を速やかに達成することが市民としての在ハワイ日本人の課題であるという立場が、この主張の背後にある適応モデルであった。したがって、民族的社会機関としての日本語学校は、当然、同化の過程で解体するべきもので、現地の公立学校に吸収されていくことは避けることができないものということになった。
 しかし、実際の民族関係においては、白人による社会的排除のために日本人の白人社会内での地位上昇は事実上制限されていたから、在ハワイ日本人にとってビジネスや生活上の必要から日本語教育の必要性は変わらなかった。よって、日本語学校を教育局の規制に委ねることは、たとえ、ADクラブの主張のように、日本語学校を一般公立学校の中に補助的機関として組み込むとしても、結局、日本語学校を一般教育機関に対する劣位の機関として地位に甘んじさせることを意味していた。領教育局の規制案は、同化を名目としながらも、実質的には、日本人教育機関の二級機関化をめざすものであり、それは結果として日系人階層の下位固定化を招来させる政策的可能性をはらんでいたと考えてよい。
 これに加えて、白人支配層の同化主義は、第一次世界大戦の直後という状況によって、きわめて強権的な色彩を帯びて発現された。このような覇権的な統制力の行使による規制は、劣位(Subdominant)な民族的社会機関としての日本語学校を分離主義的傾向に追いやった。とくに日本からやってきた日本人教師に対する資格試験制度の導入は、エスニック・エリートとしての日本人教師集団の地位を脅かしたため、これらエスニック・エリートによる反同化主義を一層強化させる結果を招来させたのである。
 もちろん、日本語学校規制案のような支配的民族集団からの統制ではなく、多数派からの融和主義が行使されれば、奥村多喜衛や反試訴派のような自主的米化主義が状況を制する余地があったかもしれない。これらの勢力は、被支配的民族集団の側における求心的性向(Centripetal trends)をもつ社会的勢力であったからである。この勢力は、白人支配層のパターナリズムを拠り所に白人文化に同一化することによって在ハワイ日本人の地位向上をもくろんでいたのであった。地元知識人たちのリベラリズムは、日本人側の自主的米化論者が、最も期待する白人側の態度であった。実際、奥村は、試訴事件の過程で日本語教育協会という別機関を設立し、公立学校の中に日本語クラスを設立する活動をはじめた。
 しかし、プランテーション会社経営者など白人社会の実際的指導層によって率いられた支配的民族集団によって行使された強制的な同化の圧力は、このような融和論の根拠を掘り崩した。ここに、試訴に至る必然的な条件が存在したのである。
 しかし、最終的な連邦司法の判断は、在ハワイ日本人のエスニック・アイデンティティの保存行為としての日本語教育に対して、きわめて寛容なものであった。連邦裁判所の判断は、結果的に、政治的な統合と文化的特性の保持との分離を容認するものとなったのである。ただ、その結果が、ハワイにおける白人社会と日本人社会の民族関係にどの程度影響を及ぼしたのかは、改めて分析する必要があろう。とくに、アメリカにおいては、司法と行政の間にきわめて強固な相互の独立性が確保されており、このような司法の日本人社会に対する寛容な判断の結果、かえって行政による排撃が増強される場合が、多く認められるからである。いずれにせよ、これらの問題について、今後の論考が待たれるのである。

[注釈と参考文献]
(1) たとえば, ハワイ日本人移民史刊行委員会「二世の教育方針の変遷」『ハワイ日本人移民史』1964年,pp.230-259.には, 試訴過程の概観的分析が行なわれている.
(2) 同資料の発見は, 著者が行ってきたハワイ日本人医療・社会事業史の研究過程で偶然行われたものである. この研究は、『社会機関と民族関係』(放送教育開発センター特別研究紀要1990年)として刊行されており、本論文は、同紀要の中にも収録されている。
(3) 奥村多喜衛「布哇における邦語学校」『太平洋の楽園』pp.219-221.
(4) Tajima, Paul J., Japanese Buddhism in Hawaii: Its Background Origin, and
Adaptation to Local Conditions. Masteral Thesis, [Asian Studies] University of
Hawaii, 1935.
(5) 藤井秀五郎『大日本海外移住民史第一編:布哇』p.33.
(6) 藤井秀五郎『大日本海外移住民史第一編:布哇』pp.27-32.
(7) ハワイ日本人移民史刊行委員会「二世の教育方針の変遷」『ハワイ日本人移民史』
1964年, pp.230-259.
(8) 藤井秀五郎『大日本海外移住民史第一編:布哇』pp.28-29.
(9) 大正14年5月7日付試訴期成会ビラ.
(10) 試訴期成会ビラ「合衆国裁判所に於ける外国語学校試訴問題の経過」1925年7月25日付.
(11) 試訴期成会ビラ「桑港控訴院に遷りて以来の試訴状況」1926年3月24日付.
(12) 「決議文」『布哇報知』1926年3月30日付.
(13) Hawaii (Ter.) Bureau of Education Dep. of the Interior, Survey of
Education in Hawaii. Bulletin, No. 16, 1920, p.135.
(14) Hawaii (Ter.) Bureau of Education Dep. of the Interior, Survey of Education in Hawaii. Bulletin, No. 16, 1920, p.136.
(15) Hawaii (Ter.) Bureau of Education Dep. of the Interior, Survey of Education in Hawaii. Bulletin, No. 16, 1920, p.137.
(16) Hawaii (Ter.) Bureau of Education Dep. of the Interior, Survey of Education in Hawaii. Bulletin, No. 16, 1920, pp.127-133.
(17) ハワイ日本人移民史刊行委員会『ハワイ日本人移民史』1977年, P.241.
(18) 「幼者と語学校」『布哇報知』1922年11月22日付.
(19) 同上.
(20) 「サ氏に対す」『布哇報知』1922年12月9日付.
(21) たとえば, 二世の女性にとってほぼ唯一の専門職への開放された門戸であった日本人病院の募集要項には, 現地ハイスクール卒業とあわせて高等女学校終了という条件が課されていた.
(22) 「米化せるが故の抗議也」『布哇報知』1922年11月21日付.
(23) 非試訴派による試訴反対の決議文に署名したのは, 毛利伊賀(医師), 原田 助(実業家), 奥村多喜衛(牧師), 相賀安太郎(新聞社主), 中尾弌郎(実業家),沖鉄次郎(同), 増田正史(同), 小室篤次(牧師), 後藤萬吉(団体役員), 尾崎三七(実業家), 高橋徳衛(医師, 日本人医会会長), 徳山省伍(医師), 吉村恒夫(医師), 朝比奈梅吉(歯科医), 田中吉太郎(銀行家), 米屋三代槌(旅館業者)であった. Hayashi,
(24) 相賀安太郎『五十年間のハワイ回顧』1953年, p.352.
(25) 奥村多喜衛『楽園おち葉』No.3, (5)1941, pp.8-9.
(26) 奥村多喜衛『太平洋の楽園』pp.288-289.
(27) 相賀安太郎『五十年間のハワイ回顧』1953年, p.352.
(28) 相賀安太郎『五十年間のハワイ回顧』1953年, pp.340-342.