観光ハワイの誕生〜ワイキキの一世紀〜
『季刊民族学』97号 2001.8

ハワイを訪れる人々はかならず一度は訪れるワイキキビーチ。その周辺に広がるリゾートという名の高層ビル街は観光ハワイのシンボルである。ワイキキのイメージがたとえ時代離れした「太平洋の楽園」であっても、その国際リゾートしての地位を支えてきた装置は、高速かつ大量に旅客を運ぶ輸送機関であり、それを収容できる近代建築としてのホテルであり、また、太平洋の孤島の存在を世界中に広告するマス・メディアであった。この意味で、ワイキキは近代観光の原型であると当時に、近代観光の光と影を映す鑑となった。ワイキキの歴史を通して観光ハワイのこの一世紀を省みてみたい。
  先住民の言葉で、ワイキキの「wai」は水を意味し、「kiki」は湧き出るところを意味した。ワイキキは、その名の示す通り、いくつもの沼地からなる湿地帯であった。ワイキキはオアフ島の中でも、とりわけ気象条件に恵まれた土地として知られていた。
 ワイキキの発展史をまとめたジョージ・カナヘレの研究には、ワイキキがたんに気候条件のすぐれた土地であるばかりでなく、農作物の生産性の高い土地だったことが指摘されている。ワイキキでは、先住民にとって基幹的な食糧であったタロイモの栽培田が多数作られ、また、海岸部には火山岩で囲われたロコ・イアと呼ばれる養魚池が造られていた。
 しかし、白人との接触によって拡散した伝染病が原因して、先住民人口の急激な減少は、先住民による高度な土地利用の維持を困難にさせ、ワイキキのタロ田や養魚池への利用を衰退させた。しかし、一九世紀後半になると、アジア系の人々が農業・水産業をワイキキで行うようになった。記録によれば、一八九二年には、ワイキキで五〇〇エーカーを超える稲作水田が耕作されていた。
  一八四五年に土地の私有制が導入されると、ワイキキの土地も他の土地と同様、大半が王族やチーフたちの土地か政府直轄地として分配され、ごく一部が来住者にあてがわれた。
 土地の私有制の確立と並行して、発展するホノルルの傍らにあり最適のリクリエーション環境をもつワイキキの価値がアメリカ本土の投資家たちによって高く評価されるようになると、ワイキキの土地は白人投機家たちの注目を熱めるようになっていた。
 最初に、ワイキキの保養地としての価値に気づいてたのは、ハワイ王朝の貴族たちだった。彼らはワイキキの海岸に面した椰子林のそばにハワイ式の別荘を建てた。これにホノルルでビジネスを営む白人商人たちのごく一部が追随し、ワイキキに住居を移すようになった。
 ワイキキの観光開発にとって決定的な契機となったのは、一九八三年にアメリカ系白人資本家たちによって主導されたクーデターによってリリウオカラニ率いる先住民王朝が倒されたことである。ハワイの新しい統治者として登場した白人資本家たちは、観光を砂糖キビ産業に続く重要な産業として位置づけた。
  最初にワイキキに建設されたホテルは、モアナ・ホテルであった。建築家O.G.トラファガンが設計したこのホテルは、一九世紀末にフランスで流行したボーザール様式を取り入れた豪華なものだった。今日の世界各地でみられる海浜型リゾートの原型が、このモアナ・ホテルによって作られたといってよい。
 ただ、この時期、ワイキキではまだ農・水産業と観光とが並立を続けていた。しかし、水田や養魚池は観光には大きな問題だった。というのも、そこから大量の蚊が発生したからである。また、別荘や住宅街からの生活排水が水田や養魚池の水質を汚染し始めると、蚊問題に加えて、環境・衛生の悪化が社会問題化するようになった。観光開発を進める政府によって巧妙な政治的すり替えが行われ、水田や養魚池がワイキキの衛生状態を悪化させる元凶と見なされるようになっていった。そして、問題の解決法として浮かび上がってきたのが、ワイキキ地区埋め立て・運河浚渫計画だった。
 この計画では、環境悪化の元凶と見なされた農漁民からは埋め立てにかかる費用として土地利用権が取り上げられ、観光開発をもくろむ白人資本家たちに再販売された。五〇〇〇エーカーに及ぶ土地を造成して、工事が最終的に完成したのは一九二八年であったが、この事業によって、ワイキキの地価は三〇倍以上にも膨らんだ。こうして、今日のワイキキの原型は誕生した。
 他方、リゾート客たちをアメリカ本土から運ぶ高速輸送手段も準備された。一九二一年に、ホノルル港の改修が行われ、大型客船の入港が可能になると、本土との間に大型客船の航路が開かれた。一九二五年に、マティソン汽船会社によるサンフランシスコ、ロサンジェルスとホノルル間に定期航路が開設された。就航した客船は、定員六五〇人乗りの「マロロ号」で、建造総額は七五〇万ドル、客室数では世界最大の客船だった。
 これと並行して、ワイキキにこれまでにない贅沢で巨大なホテルを建設する計画が着手され、一九二七年に、ムーア様式のピンクの派手な外壁を持つロイアル・ハワイアン・ホテルがワイキキに建設された。設計したのは、ニューヨークのリッツ・カールトンなどの有名ホテルの建築を手がけたワレン・アンド・ウエットモア建築事務所だった。この事実は、このホテルが本土の市場を主要なターゲットとして建設されたことを示している。
 「楽園」ハワイを世界中に知らせる宣伝活動も積極的に展開されるようになった。一九〇三年に政府内にハワイ宣伝委員会(ハワイ観光局の前身)が組織されると、アメリカ本土に対する積極的な観光宣伝が始められた。委員会は、地元の行政機関ならびに産業界の援助のもとに、その後、宣伝映画やラジオ番組のスポンサーをするなど、様々な企画の推進組織として活動を続けた。
 なかでも、映画とラジオは有力な宣伝媒体だった。
 数多くの観光宣伝映画が本土の映画製作会社との契約の下に製作された。たとえば、一九三八年の「アメリカ合衆国ハワイ」という題名の映画は、パラマウントとの提携でアメリカの領土となったハワイを宣伝する映画だった。これらの観光宣伝映画は、本土の映画配給会社を経由して、全米各地の系列映画館で放映された。このような過程を通して、「楽園」ハワイのイメージは、全米に広がっていった。そればかりでなく隆盛期に入ったハリウッド映画産業は、「楽園」ハワイを積極的に題材に選んだ。二〇年代だけをとっても、製作公開されたハワイ映画は、「パッション・フルーツ」「ザ・ブラック・リリー」「ザ・シャーク・マスター」「ボンディッド・ウーマン」「ザ・ホワイト・フラワー」「フラ」「セイラーズ・スイートハート」「ザ・チャイニーズ・パロット」など二〇本近い作品が作られた。
 三〇年代にはいると、厳しい性表現規制を逃れて、露出度を高めたフラガールたちが銀幕に群れる南洋ミュージカル映画が量産されていった。キング・ヴィダーの「バード・オブ・パラダイス」、シャーリー・テンプルがフラを踊る「カリー・トップ」、ビング・クロスビー主演の「ワイキキ・ウエディング」、ベティーグレイブル主演の「ソング・オブ・アイランズ」などがその主なラインナップであった。
 一方、ラジオの利用も積極的だった。中でも一九三五年から一九七二年まで放送されたハワイ・コールは、観光局が資金提供したラジオ番組として最も成功したプログラムとなり、最盛時には、アメリカ本土をはじめ、カナダ、日本、韓国、中南米、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランドなど全世界七五〇局のラジオ局にネットされた。ハワイ・コールが放送したハワイアン音楽は約三千曲に及び、出演したミュージシャンたちも約三百組に及んだ。
 放送される曲目は、「伝統」のハワイアン音楽から選ぶ一方、英語の歌詞がつきアメリカ本土の音楽産業が商業的につくりだしたハッパハオレと通称するハワイアン音楽も加ええられた。また、ラジオ放送の際は、意図的にワイキキの波の音を別にマイクに拾い、合成して放送するよう特別の工夫が行なわれた。
 観光化の進行によって、オリやフラに代表されるハワイの先住民文化は、多様性を拡大したといえる反面、商業主義による変容を受けたのである。