つづら


 
昔、間男は七両二分てえことを申しました。これは何かと云うと間男をして見つかった時の、ま、言わばその慰謝料が七両二分だったそうで、間男の相場という訳で。これが武家方の方では不義は御家のきつい法度で、見つかりゃあ重ねておいて四っつにされても文句は言えないのですが、江戸と云う所は大変に女性の少ない土地で、ですから吉原なども繁盛致しましたし、間男、美人局などは日常茶飯にありました様で、その度に重ねて四っつにしたのでは女が居なくなるという訳でもないのでしょうが、相場が決っていたというのは面白いもので。で、七両二分とは又半端な金だと思いますが、当時大判と云うものがありました。小判に対して大判という。この大判が七両二分の価値だったそうで、つまり間男は大判一枚という、成程解らない気もしませんが。この七両二分が高いか安いかですが当時小判の面を滅多に拝むことがなかった長屋の住人に結構な額ではなかったかと思いますが。ま、間男にもいろいろありますが、中にはやむにやまれずというのもありましたようで。
「おっかぁ今帰ったい」
「どうした、又泣かされてきたのか。何だって泣かされるんだね」
「そんな雑布みたいな汚い着物を着てる奴のそばへ寄ると汚れると言って遊んでくれねぇんだ」
「そんな事を言われたのかい。そう。まぁいいからこっちへお上がり。こっちへお寄り。おっかあ今何を縫っていると思う」
「近所の仕立て物か」
「そうじゃあない。お前の着物を縫っているんだよ」
「えっ、おいらのかい。すぐ出来るのか」
「ああ、すぐだから待っていなよ」 
「さぁ、出来た、着てご覧」
「うわぁー、これを着て遊びに行ってもいいかい」
「ああ、いいともさ。よく似合うよ。それなら何か言われはしないから。ああ、行っといで。もう喧嘩なんかしちゃいけないよ。暗くなる前に戻っておいで。あの子のあんな嬉しそうな顔久し振りで見た。これで良かったんだ」
 
と、その日の暮れ方
「あ、お帰り」
「うむ、今帰った」
「どうだったい」
「駄目だ、誰も金は貸しちゃくれねぇ。尤も無理はねえ。鬼熊の連中が俺の仕事場や仲間の家まで押しかけてきて、声高に居催促をしやがる。義理の悪い借金だてえのが皆に知れちまって貸してくれる奴ぁいねえ。弱っちまったなあ。えれえ事をしちまった。おめえの言うとおり博奕なんぞに手ぇ出すんじゃなかった。博奕は怖いなぁ」
「鬼熊の連中はまだ催促にくるかい」
「いや、それが妙なことにあれだけしつこい奴らがここ二日ばかり顔を見せねぇ。何かされるんじゃあねぇかとかえって気味が悪いようだぜ。こないだの奴らの言い草じゃ払わなけりゃおめぇをかたに取ると言う。俺は帰ってきてもお前がどこかに売られていねえんじゃねぇかと、心配しちまった。ま、なにしろこのままじゃ済まねぇ。成田の叔父さんのところへ行って話をしてみようと思う。そっくりとまではいかねぇでも、せめて半金ぐらい払わねぇと奴ら何をしでかすか解らねぇ。昼間連中の目につくと面倒だから、これから行ける所まで行っちまおうと思う。帰りは明日の夜かあさってになっちまうが留守は頼むぜ」
「家のことは心配しないでいいから」
「ああ、余った反物があったから着物をこしらえてやったんだよ。それが嬉しいてんでああやって抱いて寝ているんだよ」
「そうか、ま、なにしろ行ってくらぁ」
「気をつけてね」
「ああ」
 
背中を丸めて、タッタッタッと小走りに裏長屋を出る。左の角か荒物屋で。
「ちょいと由っさん」
「ちょっと話があるんだが、上がっていけないかい」
「ああ、何だい」
「まぁ、お茶でも飲んどくれ。ねぇ由っさん、お前のおっ母さんとは幼友達で、お前の生まれる時には産婆さんの手伝いをして、半分あたしが取り上げたようなもんだから、それからはお前のことを実の子供のように思っているつもりだがね」
「何もいまさらそんな事を言わねぇでも、こっちもそのつもりだ」
「そう、そんならちょっと言い難いことも言わして貰うがね」
「お前、この頃さ、ちょっと世間へ顔向けの出来ないような事になっちゃあいないかい」
「済まねぇ、おばさんに迄心配さしちまった。いや何も俺だって好きで博奕を打っていたわけじゃねぇんだ。ちょっと手を出してはな当ったのが病みつきで、後は負目負目でとんでもねぇ義理の悪い借金が出来ちまった。でもなんとか返すつもりだから心配しねぇでくれ」
「いや、そんな事じゃないんだ。そんな事ならお前に言い難いことはない。現に博奕の意見は何度かしている。そんな事じゃないんだよ」
「じゃあ何だい」
「それがさ、・・・ああ今日はもういいやね。行っといで」
「なんだい気になるじゃねぇか。何だい」
「うん、実はお兼さんのことなんだがね」
「うちの嬶?嬶がどうかしたかい」
「うん、そりゃお前のおかみさんは器量は良し、愛想は良し、長屋の手伝いも子供の世話も良くして、お前には過ぎた女房だよ。だけどかえってそれがいけないてのもあるのさ」由
「どういうこったい」
「だからさ・・・、ま、忘れておくれよ」
「よせやい、かえって気になって外に出られねぇや。生殺しだ。なんだか聞かしてくれ」
「それじゃ言うけれど・・・・、間男なんだよ」
「間男?うちのがか」
「ああ」
「そりゃ間違いねぇのか」
「何もその場を見た訳じゃないけどさ、ありゃ間違いないよ。あたしゃお前が世間から後ろ指指されてるかと思うと辛くてさ」
「相手は誰だ」
「表の質屋の旦那だよ」
「伊勢屋か」
「この頃あの旦那が、夜になると落ち着かない素振りで、そこの角を通るから、どこへ行くのかと思って覗いて見りゃお前のとこだね。それもお前の居ないときに現ってさ」
「畜生、あの阿魔ぁ。おばさん済まねぇ。暫く奥でつながして貰いてぇ」
「そりゃ構わないが、子供が居るんだからね、乱暴なことはいけないよ」
 
これから奥の三畳で、出された酒を呑んでゴロリ横になる。そのうちに、少し夜も更けて参りました。
「おい、お兼さん。開けておくれ。あたしだよ。開けておくれ」
「はい、旦那でございますか。今開けますから。おいでなさいまし」
「成田の方へ行ったそうだね」
「はい、帰りは明日かあさってになるそうで」
「ちょっと上がらして貰うよ」
「どうぞ。どうぞお当てくださいまして」
「どうも、済まないな」
「お蔭様で借金も奇麗になりましたし、子供にも新しい着物をこしらえてやることが出来ました。有難うございました」
「あ、いやいや。一つ貰えるかな」
「はい、支度がしてありますから。どうぞ」
「や、これは済まないな。うむうまい。いやあたしも十七年前に女房に先立たれて、それからは商売大切で質屋稼業に精を出して、なんとかひとかどの身代もこしらえあげて、ふっと気がつくとこの歳だ。鏡を見ると嫌になる。身代を譲るものもなし、ま、お茶屋遊びなどもしてみましたが、どうもあたしは白粉臭い女が苦手でね。そんな時にお前さんを見かけて、ああ、あんな人がそばに居てくれたらと、ま、以前から思っていたんだが。それがふとした縁でもってこんな事になってしまった。そりゃいいことじゃない。いいことじゃない事はあたしもよく解っている。だが長い浮世にはいろんな事が出来るものでね。ま、決して悪いようにはしないつもりだから」
「いえ、お蔭様で助かっております。どうぞ」
「ああ、有難う。これはお兼さんが煮たのかい。や、道理でよく煮えている。あたしはこういうものが大好物でね。ま、あんたもひとつおやり。いけない口でもないんだろう。ささ。大層あかぎれが切れたな」
「お恥かしゅうございます」
「いやいやなまじ白粉を塗った手よりも、この方が女らしい。もう少しこちらへお寄り」
「あの、子供が寝ておりますから」
「なぁに子供なんてものは一度寝てしまえば死んだようなものだ。さ、もっとこっちへお寄り」
 
ドンドンドンドン
「おい開けろ。今帰った。開けろ。おいお兼。開けねぇか」
「おっ、御亭主が帰ってきた。今日は成田へ行って帰らないわけじゃなかったのか。お前さんもしかして」
「いえ、決してそのような。恩を仇にするようなことは致しません。気が短いから何をするか知れませんから、どうぞ暫くの間、このつづらの中へ隠れていてください。いえきっとお守りを致しますから。どうぞ。はい、今開けるよ。そうドンドンとお叩きでない。子供が目を覚ますから。お帰り。成田へ行ったんじゃないのかい」
「どけっ。この下駄は誰の下駄だ。のめりのまさ。職人の履く下駄じゃねぇ。誰の下駄だっ。(下駄で続けざまに叩く)よくも亭主の面に泥を塗りやがって。野郎はどこだ。どこへ隠した。うむ、このつづらだな」
「(袖にすがりついて)いけないっ。そのつづらは開けちゃいけない」
「ええ、うるせえっ。離せっ、離さねぇかっ」
「いけないっ。腹が立つならあたしのことを気の済むまでおぶち。いくらぶたれても構わない。それだけの事をしちまったんだから。だけどそのつづらだけは開けちゃいけない」
「何故いけねぇんだっ」
「あのまむしの様にしつこい鬼熊が手を引いたのはどういう訳だ。お金を払ったからじゃないのかい」
「・・・なにをっ」
「よく考えてご覧。あれだけの借金は、お前とあたしが生涯働いたって返せやしない。ましてやいくらお前が頭を下げたって、誰が貸してくれるものかね。もしお前にもしもの事があったり、あたしが売られでもすりゃあ可愛そうなのはこの子じゃないか。そうならずに済んだのは、みんなそのつづらのお蔭だ。子供の着物も三度の飯もみなそうだ。なのにそのつづらを開けちまやぁ、お前は恩知らずばかりじゃない、美人局になっちまう。悪いのはあたし一人でいい。開けちゃいけない。そのつづらは開けちゃいけない」
「(呆然)・・・。解った。開けねぇ。開けねぇ代りにゃお前にも開けさせねぇ。ええい、離せ。大丈夫だから離せ。そこの紙を取れ」
 
紙でこよりをこしらえると、つづらの止め金に封をしまして、紐を取り出すとがんじがらめに縛って
「さぁ、こいつをっ」
「お前さん、つづらを背負ってどうするつもりだ」
「いいから離せっ。お前の心配するようなことはねぇから、ええいっ、いいから離さねえかっ」
 
女房がすがりつくのを振り払うと、裏長屋を出て、表通りの質屋へやって参りました。
「もし、ごめんなさい。もし、開けておくんなさい」
「はい、何でございます。おや、これは親方。なんですこんな夜更けに」
「済まねぇがひとつ質に取って貰いたいものがあってね」
「どうももう店仕舞いをしましたのでな。又ひとつ明朝ということに」
「何でもいいからとにかく取って貰いてぇんだ」
「あ、もしもし。どうも困りましたな。何でございます」
「番頭さん、何にも言わず、中も見ねぇでこのつづら七両二分につけて貰いてぇん」
「へっ、どうも恐れ入りましたな。中も見ずにといったって。どんな物でございます」
「なに、たいしたものじゃねえ。ただのがらくただ」
「どうも。この汚いつづらで、中ががらくたでは七両二分などはとんでもない。手前どもの主人がおりましても、こりゃ百にもつけません。又と云うことにお願いを致しまして」
「それじゃ、どうしても質に取って貰えねぇかい」
「夜分お越し頂いて、折角では御在ますが、折り合いませんで」
「そうかい。取ってくれねぇとなりゃ、俺はこのつづらに重石をつけて裏の川へほうりこんじまうが、構わねぇかい」
「へぇへぇ、そりゃそもそもそちら様の物で、川へほうりこもうが火の中へほうり込んで灰になろうが手前共では一向に構いませんで」
「そうかい。それじゃあこいつを・・」
「待っとくれ、お前さん。あの番頭さん」
「おや、こりゃおかみさん。なんで・・」
「ちょっと耳を・・・」
「へぇ。・・・・えっ、あのつづらの中に。そりゃ本当で。あ、もし、親方。ちょっとお待ちを」
「なんだい。俺はこれからこのつづらを捨てに行くんだが、何か用かい」
「どうもおみそれ致しました。手前の眼が届きませんで。よくよく見ればなかなか結構な代物で」
「そうかい。それじゃあ幾らにつけてくれるね」
「へぇ、仰るとおり、七両二分、つけさせて頂きます。ちょっとお待ちを。どうぞお確かめを」
「(金を懐へ入れて)それじゃあ確かに預けたぜ」
「へっ、お預かりを致しました。どうも毎度有難うございました」
「番頭さん」
「へいっ」
「流さねぇでくんなよ」
「へ、利を上げておきます」

元へ戻る


homepage.gif (1041 バイト)

menupage.gif (1045 バイト)