不定期に催している勉強会です。つまり今まで演った根多がお蔵入りにならないように虫干しをする会です。長い根多はそうそうかける場所がありません。寄席ではトリでもせいぜい三十分ですか ら、せっかく覚えてもついついお蔵入りになってしまうんです。ところが「蔵出し」ももう二十数回となりますと、始めの頃虫干しをした根多がまたぞろ蔵入りしかかってきました。そこでこうした根多をもう一度風にさらそうと始めたのが「雲助聴かせやせう」です。もっとも根が無精者ですから、この会はまだ一回やったきりです。(^^;;

蔵出し資料

 

「蔵出し」の資料と、プログラムに載せた寸釈をを載せておきます。一回目のは紛失しました。
 
アレ、プログラムが無かったかも知れない。(^^ゞ

第壱番蔵出し

 近頃辛口の落語が少ないとお嘆きの貴兄に ト云フ回

  平成二年九月二十八日  於・四谷倶楽部

一、九州吹戻し 一、居残り佐平次 

 


第弐番蔵出し

 貴方は落語で戦慄を覚えたことがあるか ト云フ回

  平成二年十月二十四日  於・四谷倶楽部

一、駒長 一、緑林門松竹・新助市  

 

一、駒長

 この噺は何と圓朝全集に出ております。現在のモノより簡略で、原形と云った感じですが、大筋は同じです。一朝口演としてあって圓朝師の作かどうかは解りませんが演っていたのは間違いないようです。  
 「包丁」と良く似た内容で、作品的にも「包丁」の方が上でしょうが、どこかとぼけた味があって好きです。圓朝師は一体どんな演じ方をしていたんでしょうか。 
 
 いずれは「包丁」も演ってみたいと思っています。
 
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一、緑林門松竹
 
 圓朝師初期のお作。忍ヶ岡義賊ノ隠家と云って芝居噺で演じていたものを晩年新聞掲載の為に速記させたモノです。   
 
 圓朝師の作品はやはり御一新前のが面白いようです。明治に入りますと、時代の風潮に合わせて善行モノやら立身出世モノやらが多くなり、少々鼻につきます。やはり圓朝作品の魅力は「殺し」「幽霊」等が、ふんだんに出てくるところでしょう。幕末の絵金の泥絵や芳年の責絵のようなオドロオドロしたところが持ち味です。圓朝作品は全体に野暮で、他の人情噺の様な粋は感じられません。其の変わり人間を抉る事は傑出しております。要するにきれい事ではないのです。其の分演じる方も聴く方もいささかオモくなるのですが、御勘弁を。

第参番蔵出し

 よかちょろは山崎屋なのだ ト云フ回

  平成二年十一月二十九日  於・四谷倶楽部

一、よかちょろから山崎屋 一、景清  

 

一、よかちょろから山崎屋
 この題はそもそもおかしい訳で、「よかちょろ」は「山崎屋」の前半を独立させたものですから只「山崎屋」で良い訳です。全体に筋は単調で、これといった山場もなく、長くて難しくて、おまけにとってつけたという言葉がぴたりと当てはまる下げで、この下げの為に枕を振るという塩梅ですから、そして誰も演らなくなったという典型的な噺ですが、どんな噺でもどっかしら良い所はあるもので、それを見つけると捨て難くなるのです。
 
 じゃあ何処が良いのかと云うと・・・ つまり、その・・・ 私は、ここに出てくる親子と番頭が好きなのです。
一、景清
 
 黒門町の十八番でした。私も客の時分から前座にかけて何度も聴きました。黒門町の噺は私も大変に好きで、今でも幇間を演るとつい黒門町の調子が出てきます。人形町の末広で楽屋で聴いた「 つるつる」は、なんとも神がかり的うまさでした。それでは名人かというと、私はちょっと首を傾げてしまうのです。大変にうまい噺家とは思うし尊敬もしていますが、名人の芸とは筋がちょっと違う、というのが私の意見です。
 
 噺に出てくる観音経は中抜けでいいかげんなものですが、きっちり覚えて演ったところで長すぎてダレてしまいます。やはり中抜けで良いのです。
 
 すっかり出来上がっていて直しようのない噺ですが、少し定次郎を職人気質にしてみました。

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第四番蔵出し

 矢張り芝濱を聴かずには年は越せやせん ト云フ回

  平成二年十二月二十八日  於・四谷倶楽部

一、にせ金 一、芝濱  

 

一、にせ金
 この噺は「圓生全集」にも出ていますが、やはり禽語楼小さんの速記の方が面白い。内容は全くと云っていい程同じなのですが、言葉遣いがだいぶ違います。
 
 小さんの速記はいかにも明治初期といった趣で、江戸の言葉が出たかと思うといきなり英語が出たりという案配で、成程、急に時代が江戸から明治に代ったわけではないと思わされます。其の不釣合いが何とも好きなのですが、「圓生全集」ではそうした言葉は不自然として全て直してあります。そうするとどうもこの噺の面白味が半減するようで、私は小さんの速記を取りました。何か鬱屈とした所の有りそうな殿様が好きです。
 
 頻繁に出てくる原語はほんの御座興であります。呵々。
一、芝濱
 
 御存知、暮れの噺の定番です。
 
 これはやはり、先代三木助師のが有名ですが、私は生では聴いておりません。故安藤鶴夫とともに文芸的に拵え上げてもてはやされたのは、御存知のとおりです。後にたかが噺にそこまでと云う反論もありましたし、私も文芸的にと云うのは好きではないのですが、この噺だけはそうした味付けが有ってもよかろうと云う考えです。
 
 つまり、そうしたい気にさせる何かが有る噺なんですね。誰しもがそう思うようで、この噺ほど演る人によって持っていき方や工夫の違う噺もありません。
 
 それだけに演者の噺に対する姿勢や感覚を試されて、恐い噺なのかも知れません。
 
 いずれは、雲助の芝濱を聴かずにはと云われるようになりたいのですが・・。

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第五番蔵出し

 江戸前の宿屋の仇討ちをお聴かせしましょう ト云フ回

  平成三年一月二十四日  於・四谷倶楽部

一、猫と金魚 一、庚申待ち 一、二番煎じ  

 

一、猫と金魚
 
 「のらくろ」でお馴染みの田河水泡の作。柳家権太楼が譲り受けて、盛んに演りました。
 
 軽くてちょっと皮肉でなかなかの傑作です。こうした噺が落語の本来ではないかと思うのですが、どうも評価は得られないようです。
 こうした噺はさんざ演りこまないと軽く出来ないものです。あたしは今夜が二度目でまだ固いところはご勘弁を。
 
一、庚申待ち
 
 宿屋の仇討ちというと現在はほとんどが、上方の宿屋仇を移植した三木助流です。が、以前はこちらで宿屋の仇討ちと云うと、この庚申待ちのことでした。
 
 二つ比べてみますと、三木助流の方が構成は良く出来ているし作品として上だと思いますが、庚申待ちには江戸の風習を身近に感じさせてくれるところがあって捨て難い噺です。
 
 速記本で古い庚申待ちを読むと洒落ることわざが皆古くて理解できないものがあります。それなりに直していかなくてはならないのがこの噺の辛いところです。
 
一、二番煎じ
 
 あたしが二つ目の頃に師匠にこの噺の稽古を頼んだことがあります。しばらく考えて、「まだ、無理だな」と言ったきり稽古はしてくれませんでした。その時は、面倒くさがって不精な師匠だと思ったのですが、後年この噺を稽古してみてなるほどと思いました。この噺は出て来るのが皆年寄りばかりなんですね。
 登場人物の多い噺を師匠はわいわいがやがやの噺と言っていましたが、二番煎じは年寄りのわいがや噺で、ですから現在の年齢でもまだ難しいのですが、噺を覚えるのは若いうち、というつもりです。

第六番蔵出し

 何やら続き物が始まりそうだが・・・ドッコイ ト云フ回

  平成三年二月二十八日  於・四谷倶楽部

一、突き落し 一、お富與三郎・発端 

 

一、突き落し
 文化年間からあると云うから古い落語。
 
 この噺や付き馬、居残り佐平次など人をだますので後味が悪いという説もありますが、それは余り遊んだことのない方の説。ああいう場所でエゲツなく金を取られて、その割に愉快を得られず、腹が立って成らなかったという経験をお持ちの方も多いはず。昔の廓なぞはおそらくほとんどがそんな処ばかりで、こうした噺を聴いて快哉を叫んでいたに違いありません。
 
 私が廓噺が好きなのは遊び心が横溢しているからで、この噺もそうなのですが、残念ながら、下げがありません。今回も考えてみたのですが思い付きません。どなたか良いのが有ったら教えてください。
 
一、お富與三郎・発端
 
 芝居でお馴染みの噺。
 
 芝居では源氏店の幕ばかりが有名ですが、実はその後が長い。つまり切れ与三になるまでが導入部でこの後さんざ悪いことをするのが本文。一度国立劇場で勘弥の与三郎で通しをやったことが有りましたが、うまくない役者だなと云う印象が残っているだけで、後は良く覚えていません。噺の方ではうちの師匠が得意でやっていました。一度おかみさんに元資料の速記本を見せて貰いましたが馬生集成とはだいぶ違っていました。自分で工夫を加えたか、おそらく志ん生か文治かのが頭に残っていたのではないでしょうか。
 
 今晩の発端は師匠もやりませんでした。さしたる展開もなく面白みのないところで、お目まだるいところは何分ともご容赦を。

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第七番蔵出し

 粗忽の二乗はキリがない ト云フ回

  平成三年三月二十七日  於・四谷倶楽部

一、ふたなり 一、松曳き 一、花見の仇討  

 

一、ふたなり
 
 余り縁起の良い噺ではないので、寄席では敬遠されてなかなか聴かれない噺。やはり寄席も水商売で気にするお席亭もある。寄席では「客を取り込む」から泥棒根多とか「化ける(大入する)」と云って狸とかが喜ばれる。だが、縁起だけを云って無くなってしまうのも惜しい噺。ちなみにふたなりとは、男女両具性の人のこと。
 
一、松曳き
 
 なかなか良く出来た噺だと思うのだが、余り演り手が無い。
 落語に粗忽根多も数多いが、二人出てきて噛み合うという噺はこれだけだろう。ところが二人噛み合せると粗忽に際限がないというか収拾がつかなくなってくる。何処で止めるかというバランス感覚がいる。何処までも落し噺でなければならず、演ってみると大変に難しい噺。なるほど演り手が無い訳。
 
一、花見の仇討
 
 御存知、鯉丈の「八笑人」を下敷にした噺。「汲み立て」も同様。
 「八笑人」や一九の「膝栗毛」を読むと、何から何まで洒落のめす江戸っ子の精神に驚く。とにかく怒ったら即、野暮なのだ。怒るまいとするのだが、結句怒ってしまうのがやけにおかしい事になる。
 科学が進んだ分、現代の方が文化も進んでいるように錯覚するが、こと言葉における文化は、はるかに江戸時代の方が進んでいたと言えよう。その名残をせめて落語に残したいものです。

第八番蔵出し

 こいつぁ矢張り大根多と云う気がする ト云フ回

  平成三年四月二十四日  於・四谷倶楽部

一、万金丹 一、三軒長屋  

 

一、万金丹
 鼻糞丸めて万金丹なんて事は云わなくなりました。もっともあたしも噺家になってから知った言葉です。偉そうに講釈していても噺家になってから知った事は随分有ります。ですから世間の、それも若い人達には分らないことが多くても無理はないのですが・・・。
 
知らないから只何となく聞き逃しているくすぐりでも、知っていれば大変面白いと云うことが、落語には随分と有ります。例えばこの噺の中で「かんなっ屑のラッパみたいな声」と云うのが、知らなければ只それだけのものですが、子供の頃、大工さんがカンナをかけるときの音を覚えている人には、やけにおかしいくすぐりです。形容がおかしいのですが、その形容の対象が少なくなってきているのが辛いところです。と云ってうかつに現代のもので形容すると噺を壊すときもあり、難しいところです。
 
 上方の「鳥屋坊主」をこちらに移植した噺。
 
一、三軒長屋
 
 文化年間から有ると云う古い噺。古来より大根多とされる。のですが、筋の構成などはさして上出来とは思えない噺です。ただし、登場人物が豊富で、演じ分けるのが大変という事では確かに大根多です。つまり演る方にとっての大根多と云う意味の様です。考えてみればお客様にとっては大根多も小根多もない訳で、幾ら演者が大根多だと大上段に振りかぶった所で聴く方は関係ないし、かえって気障りになる位でしょう。要は面白いか詰まらないかなのですが・・。
 
 ところが噺家は前座の頃から、何々は大根多、それを演るのは十年早いなどと頭に叩き込まれていますから、根多の大小についての意識が大変に強い。始めて大根多を演る時は、根多に気圧される事が良く有ります。あたしもそうでしたが圓朝物を演り始めてから、その意識が大分薄らぎました。何しろあれを演っていれば鰍澤位はさして大根多とも思えませんから。
 
 江戸の市井が表れた良い噺。

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第九番蔵出し

 この辛口が病みつきになる ト云フ回

  平成三年五月二十八日  於・四谷倶楽部

一、五銭の遊び 一、お富與三郎・木更津  

 

一、五銭の遊び
 あたしの好きな噺の一つです。廓噺の衰退がよく言われますが、確かに廓と云う遊びの中の人間を描く絶好の舞台が現実に無くなってしまい、共感の笑いを得る事は辛くなりました。それでも男と女のもろの感情、騙しの中の遊びと云う洒落た感覚等は、今でも十分に通用すると思います。なにより、人間が生き生きと動き回るのが描かれているのは廓噺が一番です。それに現実の廓は、女性にとっては実に悲惨極まる場所でありましたから、現在無いと云うことが、かえって廓の汚い面を隠して大人のおとぎ話として成り立たせるような気がします。
 
 先日飲み屋でお年寄りから、吉原の噺を伺いました。やはり毎晩寝る前に素見しに出かけて、まず当時モーシャリと言った牛飯で腹をこしらえて、帰りは屋台で一杯やったとか、早朝割引の切符には鳩の印が付いていたとか、大層面白かったです。
 
 そうした噺です。
 
 
一、お富與三郎・木更津
 
 いよいよ與三郎とお富の出合いになります。この噺は絶世の美男の與三郎が傷を負って化物同様になり、破落戸になるところが味噌です。が、どうも芝居の方は良い男が演るところから傷を負ってもなお良い男で、其の辺の興趣が乏しいようです。お富と再会をして悪を重ねて行くのがこの噺の本文ですから、今回と玄冶店迄は発端みたいなものです。
 
 あたしの師匠は良く大師匠と違って折り目正しい芸のように言われますが、それは誤解で、やはり道場の芸ではなく実戦の芸です。ですから高座では結構納得をして聴いてしまうのですが、速記を読むとあちこち矛盾した所が有ったり抜けていたりしますので、玉田玉秀斎の速記を原本にしたのですが、何せこの人は立川文庫を書いた人なので読物の性質が強くて七五調の文句が多く、直すのにかなり骨が折れました。
 
 どうぞ昔の本牧亭の昼席の様に、ダラーーーンとした気持ちでお聴きください。

第拾番蔵出し

 早く続きが聴きたいと見た ト云フ回

  平成三年六月十八日  於・四谷倶楽部

一、大山詣り 一、お富與三郎・玄冶店 

 

一、大山詣り
 別名百人坊主。上方からの移植根多と言われていますが、江戸落語との説も強い。あたしが演ってみての感触では江戸落語という気がします。
 
 大山は丹沢系の山で、海抜一二四六メートル。山頂は大山祇神を祭る阿夫利神社。昔は六月と七月のみ参詣が許されたそうです。もちろん旧暦でしょうから、大山詣りは江戸っ子の夏の物見遊山を兼ねた信心だったのでしょう。
 江戸っ子の出てくる噺は何にしてもあたしの好きな噺で、毎度言うように日常を洒落のめして暮らす感覚が何とも嬉しいし、すぐその洒落が破綻するのが又おかしい。
 
 先日、黒沢明の特別番組で、黒沢監督が若い時分に、兄の住んでいた神楽坂の裏長屋の様子を「とにかく子供が親父に向かってね、『ちゃん、ゆんべはどこに引っかかっていたんだい』なんて事を言ってね。皆で駄洒落ばかり言ってんだなぁ」と言ってましたが、聞いていて嬉しくなりました。
一、お富與三郎・玄冶店
 
 噺家大変 お客迷惑
 
 前回の続きです。これでようやっと発端が終るという感じです。どうも色男優さ男は演っていてきまりが悪いもんでして、この後は與三郎も少しは悪党らしくなってきますので、ホッとしているところです。
 前回書きましたように、玉田玉秀斎の速記を参考にしているのですが、どうも読本調子が気になりますので、他の速記を調べたところ、いやあるわあるわ。五、六本ありまして、読み下すだけでも大変。別の速記に切り代えようか、間に合わないといけないからやはり玉秀斎のにしておこうかと、大いに迷っている所てす。当夜ははたしてどうなっていますか。
 
 二つ目の時分の勉強会のプログラムの口上に「島原大変 肥後迷惑」をもじって、冒頭の文句をタイトルにした事がありましたが、当時は全く理解されませんでした。
 
 どうか今晩のお客様には、大変と迷惑にご寛容のお心をお願い申し上げる次第。

第拾壱番蔵出し

 ひとつ誓願寺店まで演ってみよう ト云フ回

  平成三年七月十一日  於・四谷倶楽部

一、汲み立て 一、唐茄子屋政談 

 

一、汲み立て
 下げは柳亭鯉丈の八笑人からとったもので、いかにも江戸落語という趣がある噺です。
 
 お師匠さんをバーのママにでも置き換えれば現在でもありそうな噺で、男と女の事はこの頃も今もさして変わりがないのは面白いものです。
 
 別にどうと云う事もない筋立てで、変な力みも無し、それでいて江戸っ子連中が生き生きとして、おまけに下げが意表をついていて、実に落語らしい落語で、こういう噺があたしは好きなんです。こんな噺にこそ粋や洒落を感じます。
 
 大分前になりますが、あたしが二つ目の頃、日刊とびきり落語会にこの根多を出したところ、そんな噺じゃ評価のしようがないと言った、会の審査員で若い評論家の方がいましたが、困ったものです。なにも大作ばかりが噺ではあるまいし、噺に対して失礼じゃないでしょうか。あたしはどんな噺でも存在価値があると思っています。
一、唐茄子屋政談
 
 夏の定番落語のひとつ。
 
 叔父さんの住んでいる本所達磨横町はあたしの家の極く近所にあったようです。圓生全集の輪講では、名前の由来ははっきりしないが、その頃達磨と呼んでいた売春婦が住んでいたからではないかとありましたが、郷土史家の調べではそうではなく、実際に紙製の達磨をこしらえる座職が多かったからだそうで、川柳にも「番場(本所の一町名)では 座禅で達磨 出来るとこ」とあるそうです。因みに本所は、古くは本庄と書いたもので、読みもそのままに「ほんじょう」というのが正しいそうです。
 
 あたしは深川の江戸資料館の江戸の家並が好きで良く行きます。あそこは家の中へ上がり込んでも構わないので、なるべく平日の人の少ない時に、船宿の縁側とか九尺二間の長屋とかに寝転がっていると、ふっとタイムスリップしたような気がしてくるのが大変に楽しい。この噺を稽古していたら又行きたくなりました。そんな噺です。

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第拾弐番蔵出し

 どうかイナリ堀とは読まないでくれ ト云フ回

  平成三年九月二十五日  於・四谷倶楽部

一、安兵衛狐 一、お富與三郎・稲荷堀  

 

一、安兵衛狐
 
 大阪の「天神山」を、こちらへ移植した噺。
 
 志ん生師匠が演っていたので、志ん生師匠が移植したのかと思っていましたが、三代目の柳家小さんの速記に「墓見」として出ていますから、どうやら三代目がこちらへ持ってきたようです。三代目は「らくだ」を始め上方根多を多く東京へ移植しています。上方の「みかん屋」を「かぼちゃ屋」に直して落語研究会に「唐茄子屋」として出したので、あの柳の落し噺の権威がどんな人情噺を演るのだろうと、お客始め仲間内も興味津々で聴いた処、これが「かぼちゃ屋」だったので、なーんだ「みかん屋」の焼き直しかと、がっかり半分嘲笑半分だったという逸話が有名ですが、そう聴くと三代目小さんは人情噺はまるでやらないようですが、決してそうではなく「唐茄子屋政談」もちゃんと速記に残っています。その評判は知りませんが、おそらく良かったのではないでしょうか。
 
一、お富與三郎・稲荷堀
 
 いよいよお富と與三郎の二人が、悪の道へ染まっていくようになります。今回は、まぁ悪事に染まる発端のようなもので、この後の「呉座松」で本物の悪党になっていきます。
 
 稲荷堀は「とうかんぼり」と読み、小網町の近辺にある堀です。なぜ「いなりぼり」と読まずに「とうかんぼり」なんだろうと思っていましたが、以前楽屋で、亡くなった燕路師匠が世間話に、ある人の随筆で「おとうかさま」と書いた字が間違っていたので、電話して正してやったという、その間違った字は忘れましたが、直したのが「お稲荷さま」で、昔は下町辺りではお稲荷さまのことを、こう呼び慣わしたそうです。成程それでなまって「とうかんぼり」かとやっと思い当たりました。
 
 学者気質のところが有った燕路師匠にはこうした世間話からいろいろな事を教わりました。こうした師匠がいなくなるのは、淋しいことです。

第拾参番蔵出し

 佳境というのは面白い事だ ト云フ回

  平成三年十一月二十二日  於・四谷倶楽部

一、黄金餅 一、お富與三郎・茣蓙松 

 

一、黄金餅
 御存知志ん生十八番であります。
 
 由来噺の一つで、内容だけとれば何とも陰気な噺であります。亡くなった圓生師匠や正蔵師匠が演ったら聴いていられなかったろうと思いますね。実際志ん生師匠の前まではそういう演り方だったんでしょう。ただ、あたしは其の原型を知りません。古速記も読んだことがないのですが、一体大師匠は誰に教わったのでしょうか。
 
 途中、道中付けが有ります。近頃はここを現在の地名で言い直したりします。談志師匠辺りが始めでしょうか。円龍さんは食通ですから旨いもの屋の店を並べたりします。三木助さんは高速道路を通って麻布まで行きます。が、あたしは別に道中付けは凝りません。本文はそこにないと思うからです。じゃあ何処にあるのかと云われるとこれが分らない。何処に主眼をおけば良いのか見当の付かない噺です。もっともこんな奴が末には繁盛するのですから目茶苦茶な噺で、どうでも良いのかも知れません。

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一、お富与三郎・茣蓙松
 
 ここの所はうちの師匠は演っていませんでした。「稲荷堀」の後すぐに「島抜け」でした。でも速記を読んでみるとここの所があたしには大層面白くて、入れることにしました。あたしの場合はこの後「島抜け」になるのですが、実は「呉座松」の後にも「紅屋の強請り」と云うのがあって、これがまぁ云わば「浜松屋」でなかなか面白い。これも仕込みたいと思っているのですが・・。師匠は「島抜け」の後は「与三郎の死」で締めくくっていましたが、これはまだあたしは演りません。「島抜け」の後も松蔵や源左衛門の殺しやらいろいろと面白い所も有るのですが、これ以上覚えたところで何になる、という気持ちが有って気が進みません。なにせ需要がないもので只のひとりよがりの様な気がしてくるのです。ま、あたしの道楽で演って、聴いて下さる方がたとえ何人でもあれば良いのでしょうが、覚える苦労を考えるとどうも。

第拾四番蔵出し

 この暮れは文七でキメてみよう ト云フ回

  平成三年十二月二十七日  於・四谷倶楽部

一、粟餅 一、文七元結  

 

一、粟餅
 其の内容故に、寄席ではめったに演られません。
 この噺を「粋」ととるか「野暮」ととるかはお客様の感覚次第です。粋と野暮とは紙一重で、「粋」と云うものは実に難しいものだそうです。実に粋な着こなしをしているのを見て、それをそのまま真似ても粋にはなりません。同じ科白を吐いても其の人によって粋であったり野暮であったりします。粋な事をしたと思っても二度やれば野暮になります。大体一見粋に見えるものは野暮が多いようで、いわゆる粋がりと云うわけです。あべこべに大野暮は粋に通ずで、野暮に見える中に粋が多いようです。尤も野暮の中に粋を見せようと云うのが見えたらもう野暮です。結局は其の人次第で野暮な人がすりゃ粋なことも野暮になるだろうし、あべこべに粋な人がすれば野暮も粋になるのでしょうか。でも何から何まで粋というのは野暮にも思えるし、少し野暮な部分が有るから粋なのかしら。わからん
 
一、文七元結
 
 近頃は芸人内でも噺の基本に関しては、随分と曖昧な所が多い様です。前座さんに稽古をつけるとまるで基本のなってないのがいます。噺家の芸風はそれぞれで良いのですが、基本はしっかりしておきたいものです。この分ではいずれ相撲にならって落語教習所なんて物を設ける必要が有るかも知れません。その時の教材にこの文七元結がよいのではないかと思うのですが。何しろ登場人物だけでもざっと十人は出てきます。それも性別年齢職種気質、実に様々であります。これだけの人物を演じ分けられる様になれば、後はどの芸風に進もうとも怖い事はない。大概のものはこなせます。この手の噺は凝れば凝るほど良くなるもので、科白の隅々まで神経を届かせたいものですが、実はそれが至難のことで、ひと役ならまだしも十役以上となるといささか分裂気味でなくてはならず、そうでなくとも手間ひまかかります。あたしも十分に演れるまで後何年かかりますか。

第拾五番蔵出し

 ま、何しろ会場に慣れてみよう ト云フ回

  平成四年七月二十四日  於・金星会館

一、鰻の幇間 一、千両みかん  

 

一、鰻の幇間
 せっかく暑い会場で演るのですから、夏場の根多でなければ面白くありません。割と夏の根多は数が多く何にするか迷ったのですが、これは暑さに悔しさが加わるのですから、ウっ暑いっ。
 
 この噺はやはり黒門町のが結構でした。幇間の哀しさまで出せたのはこの師匠だけだったでしょう。ただその哀感が必要がどうかは演者、聴き手の好みでしょうが。あたしの場合は、入れたり入れなかったりです。黒門町に比べて志ん生師匠のは大雑把なおかしさが有りました。大体この夏の噺を、取り巻き客に浴衣ならぬ褞袍を着せて冬場に堂々と演っていました。別段それでも構わないのですがね。黒門町の幇間は上品で野だいこにはもったいないのですが、古今亭はいかにもと云う気がします。あと意外とハマリだったのが、圓生師匠の野幇間。古今亭のは野だいこでも陽気で客に喜ばれそうですが、三遊亭の幇間はいかにも鼻持ちならず、その点はリアルでした。
 
一、千両みかん
 
 これも暑くないと演りにくい噺。大師匠からあたしの師匠へと受け継がれて、夏場によく高座にかけられました。大師匠と師匠とでは細かいところが違っていますが、大体は同じ物です。あたしは大分この噺は手を加えています。実はあたしがまだ客の時分にある人が、黒門町の千両みかんのこういう所が良かったよと、口真似してくれたのが実に結構で頭に残っていたのですが、後日あたしが噺家になってから、今度文楽になる小益師匠にその話をしたところ、そんな訳はない、うちの師匠はその噺は演らないと言われまして、そういえばまるで文献にも残ってないし、それじゃあの話は嘘だったんでしょうが、それにしてもあの人の真似た、いかにも黒門町らしい運び口は何だったんだろう、エエ演ってないなら演ってないでそのまま取り入れちゃえと云うわけで、少し師匠のとは味の違うものになりました。どちらが良いかは、これもやはり、好みです。

第拾六番蔵出し

 もう少し会場に慣れてみよう ト云フ回

  平成四年九月二十一日  於・金星会館

一、一分茶番 一、中村仲蔵  

一、一分茶番
 前半は権助芝居としてよく寄席でも演じられていますが、下げまで通して演られることは近頃少ないようです。下げまで演ると結構長いのですよ。
 
 近頃茶番というものを見なくなりました。太神楽の方に伺うと茶番の数は大層な数あるそうです。なにしろ忠臣蔵でも大序から討ち入りまであるそうで、あたしなぞは五段目くらいしか知らなかったですものね。只、やはり現在演り手が無くなって、覚え書きだけで演じ方が解らないのが結構あるそうです。もったいない話で、どなたか興味のある人が今の内に教わっておけばいいと思うのですが。別に曲芸はやらなくてもいいから。あたしも暮れに五段目と六段目を鹿芝居で演りますでそこだけでも教わろうかしら。
 
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一、中村仲蔵
 
 この噺で林家正蔵師匠が芸術祭賞を貰ったんだと思います。たしか。あたしも客の時分に何度か聴いています。正直言って余り良いとは思いませんでした。まだ聴く耳も出来ていなかったのかも知れません。只、その後、圓生師匠が演る様になりました。確か国立で演ったのを聴きましたが、これは良かった記憶があります。中村仲蔵という噺が面白いものだと知りました。聞くところによると正蔵師匠がこの噺で賞を取ったのを知って、「岡本が三年かかって拵えたものなら、あたしは三ヶ月でやって見せる」と言って始めたのだそうです。三年とか三ヶ月という数字はちょっとあやふやなのですが、それにしてもその自信と云うより、正蔵師匠に対する意識には驚かされます。この二人の確執のエピソードはごちゃまんとあるのですが、芸の上だけの張り合いなら良いのですがそうでないのも多いのですよ。余っ程若い時分に何か有ったんでしょうね。と云ってもせいぜい女の取り合い位でしょうがね。
 
 この噺の下げは俳優の小林勝彦さんから貰ったものです。

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第拾七番蔵出し

 出したり入れたりしてみよう ト云フ回

  平成四年十月十四日  於・金星会館

一、黄金の大黒 一、辰巳の辻占 一、雁風呂 

 

一、黄金の大黒
 以前は寄席で極くお馴染みの噺であったのですが、現在はさほど聴かれません。どうも噺にも流行り廃りが有るようで、「湯屋番」「三人旅」「野晒し」など以前は必ずかかっていた噺が近頃では余りかかりません。「三人旅」はびっこ馬が差別にひっかかるというので「唖の釣り」同様演られなくなったんですが「湯屋番」「野晒し」はお客様の嗜好が変わってきたから、と言うんですね。この手の噺は一人気違いと云って一人夢想しながらはしゃぐのですが、これが昔ほどウケないのですよ。一概に噺家の腕が落ちているばかりではないと思うのですが。現に、志ん朝師匠も余程陽気な客じゃないと「野晒し」はかけ難いと言っておりました。何しろお客にソレると本当の一人気違いになってしまいますからねえ。この噺は六年ぶりで、登場人物が多く軽い使い分けの稽古に良い噺です。
 
一、辰巳の辻占
 
 亡くなった円之助師匠がよく高座にかけておりました。あたしも何度聴いたか分かりません。仕草の一つ一つまで頭に焼き付いています。あたしの師匠も演ったのですが、いわゆる圓喬流で余り面白くありませんでした。この程度の噺をことさらに人情噺っぽく演らなくても良いと思います。ただし、枕は円之助師匠に倣って女郎ものをふりますが、このお玉はやはり芸者でありましょう。岡場所とはいいながらこれほど自由がきくとも思えません。それと噺の中で辻占といって読み上げるのはありゃ都々逸で本当の辻占は「待ち人来たらず」の類で面白味に欠けるので、誰かが都々逸に直したのでしょう。ですから「辰巳の都々逸」でも良いのですが、やっぱりねぇ。
 
一、雁風呂
 
 噺には珍しい水戸黄門様が出てきます。当然元は講釈根多でしょう。燕枝の速記でも「講談に等しき御噺を」とありますから間違い有りません。それも上方から来たものでしょう。聴いてみるとナンダコリャと云う噺ですが、演ってみるとエラく難しい噺です。圓生師匠の等を聴きますといかにも講釈根多らしく蘊蓄を述べるのが気持ちよさそうなのですが、それがムッズかしいのです。又お客様の中には、蘊蓄なんざ嫌いという方もお出でになるでしょうし、ま、なにしろ今時の噺ではありません。労多くして功少なしで。じゃあ何故そんな噺を演るんだと言われそうですが、あたしゃ落語が好きなんです。落語に差別をしたくない。落語と名のつくものはみんな演りたい。でも生来の不精で稽古が面倒。つまらない噺はお客様が聴いてくれない。と、このトリレンマにのべつナヤんでいるのですよ。ハァーッ。

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第拾八番蔵出し

 これぞ世話噺っ、てか ト云フ回

  平成五年六月八日  於・金星会館

一、髪結新三  

 

一、髪結新三
 芝居では御存じ「梅雨小袖昔八丈」であります。黙阿弥が芝居に書きろした時に、口演春錦亭柳桜となっているそうで、してみりゃこの柳桜が創ったものかそれとも講釈から持ってきたものかその辺はよく解りません。あたしは圓生師匠同様三代目春風亭柳枝の速記を参考にしています。
 
 芝居では松緑勘三郎等で何回か観ていますが、松緑は少し硬いような勘三郎は崩し過ぎのような記憶があります。一度でも六代目のが観てみたかったものです。家主は松緑の時の中車のが忘れられません。あれだけの家主は以後お目にかかっていません。先だっての勘九郎丈の時の又五郎さんのはだいぶ人の良い家主でした。
 
 あたしが世話噺に取り組み始めた頃は、芝居の世話物、世話講釈、そして世話噺の、口調の違い演じ方の違いがまるで解りませんでした。近頃ようやっと曲がりなりにも解ってきたのには、伯龍先生と六回ほど会が持てた事と鹿芝居で指導を得られた事が大きいと思います。
 
 講釈との違いは、まぁいろいろと有りますが、大きく違うのは思い入れの度合いかと思います。世話噺ではかなり思い入れの度合いが高くなりますが、講釈は六から七割くらいでしょうか。やはり講釈は語るものの様です。芝居との違いは科白の張り方の違いでしょうか。鹿芝居の稽古の時に何度も科白を張るように注意されました。張って漸く芝居の科白になる。噺の口調のままではみんな捨て科白になってしまうんですね。科白を張る分芝居の口調と講釈は近くなるのか、一時、世話講釈は役者の口真似をして堕落したことがあったそうです。
 
 芝居は性格上、主役はみんなえらく良い男にしてしまいますが、噺の方では違います。與三郎は傷を負って化け物同様ですし、直次郎は半端野郎ですしこの新三もろくでもない奴で殺されるのも無理はないという風です。芝居のような格好良さはありませんが、それでも新三源七家主と、一時に三役演れるのは噺家冥利です。

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第拾九番蔵出し

 鼻の圓遊は偉かった ト云フ回

  平成六年七月十日  於・浅草舟和亭

一、お初徳兵衛 一、船徳  

 

一、お初徳兵衛
 本来は「お初徳兵衛浮名の桟橋」の「馴れ初め」で、曽根崎心中の名前取りになっています。この後は油屋に二人の仲を嗅ぎ付けられて心中立てになってくると云う典型的な世話噺です。志ん生師匠からあたしの師匠へと伝わったもので、その前は分かりません。数ある噺の中でも、女から男を口説くというのは他に知りません。「宮戸川」が少し其の気がありますけど、この噺ほどお生には口説きません。それだけに演っていて照れ易く、といって照れていては今度はお客様が照れる、といった案配で、なかなかに難しいのです。ある仲間の噺家が「俺にはとても出来ねぇ」と言うのを「うん、とてもお前には出来ない」と言っておきました。柄があるんですよ柄が。ちょっとあの顔ではねぇ。誰とは言いませんが。いずれこの先も演ってみようと思ってますが・・・・。覚えるのが、ねぇ。
 
一、船徳
 右の典型的な世話噺を、落し噺の傑作に作り替えたのが、かの鼻の円遊であります。この他にも因果噺の「野晒し」やら、黒門町の師匠でお馴染みの、酔態の甚だ難しい「素人鰻」を現在の「鰻屋」に直して、徹底的に陽気な噺にしたのもみんな鼻の円遊であります。当時としては批判もあったようですが、人気がそれを上回ったようです。時代的にも地方からどっと東京に人が流入して、好みが変わってきたのも円遊に味方したのでしょう。現在円遊の速記を読み返してみると、恐ろしく口の廻る人だった事が知れます。能弁にくすぐりを立て続けに喋りまくるおかしさは、それまでになかったのでしょう。絶大な人気を博したのもよく分かります。
 
 今回は世話噺と、落し噺の競演になりましたが、実はあたしは落し噺のが好きなのです。

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第二十番蔵出し

 此の下げは、決して他人に言ってはいけません ト云フ回

  平成六年八月二十一日  於・浅草舟和亭

一、佃祭 一、五百羅漢  

 

一、佃祭
 先代金馬師匠の十八番でした。何処が何処と云って面白いという噺ではないのですが、何かしら江戸風情を感じさせるところがあって佳いのです。あたしが親父に連れられて子供の頃見た佃はまるで江戸の町さながらでしたが。現在の佃は高層ビルが一際目立つ中に古い家もある変な町になってしまいました。此処の住人の先祖は摂津の国佃村から家康に呼ばれてやって来た漁師ですから、元祖の江戸っ子になるんでしょう。もっとも関西からやってきたんですからなぁ、と云って家康が来る前からいた人達が江戸っ子の祖先というのもなんだか。
 
 此の下げは、ビール一本で小駒さんから貰った下げで、これは他人に言っても良いのです。
 
一、五百羅漢
 案内状にも書きました通り、師匠から雑談の中で教わった噺です。
 
 ある噺家にある噺を教えたところ、のべつに演っているが、ああいう噺はのべつに演っちやあいけないんだ。のべつに演っちゃあいけない噺と云えばこんなのがある。と言って教えてくれたのです。初めの所はこんな風で、中程は何々とほとんど同じ、で、お仕舞いがこう。とだけ教わりました。あたしの会へお出でになるお客様なら中程の何々は聴いている内にあの噺だとすぐお解りになることでしょう。師匠はその後で「いいかい、のべつに演っちゃあいけないよ。俺が死んでまだ覚えていたら、お前が死ぬまでに一、二回は演ってもいい」
 
 師匠も一度はかけるつもりだったのかもしれません。死ぬのが早すぎました。もっといろんな噺を知っていたかもしれないのに。
 
 はやいもので、今年が師匠の十三回忌です。

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第二十一番蔵出し

平成?年?月?日  於・?

 ? ト云フ回

一、? 一、?  

実は、この回はハンチクになってしまってやってないのです。
いずれ特別な趣向で、幻の二十一番としてやるつもりでおります。


第二十二番蔵出し

 妾馬は何故妾馬というのか ト云フ回

  平成六年十月十九日  於・国立演芸場

一、欠伸指南 一、息子 一、妾馬  

 

一、欠伸指南
 
 御存知定番落語です。いかにも落語らしい落語であたしも好きなのですが、結構難物なのでのべつは演りません。奥伝はあたしが考えました。湯屋のはあたしの師匠が演っていたものです。寄席で演るぶんには夏の欠伸だけで十分だと思いますが、自分の会ですから特別です。
 
一、息子
 
 小山内薫先生の劇作を落語にしてみました。前からなんとか出来ないかと温めていた物です。
 
 実は始めは本作に気になる部分があったのですが、下げを親父に言わせることを思いつき、深みのある良い下げだとひとり悦に入っていたのです。ところが、八代目の河豚で亡くなりました三津五郎丈の芸談に「若い時分は、親父が息子と知っているのか気が付かないのか、そればかり気にするから駄目だ」とあって、こちらの未熟さを真っ向から指摘されたようで恥ずかしくなり、その下げは止めることにしました。考えてみれば先達が骨身を削って推敲した物を、あっさり変えるのは僭越というものです。原作に出来るだけ忠実に演ることにしましたが、どうなりますか。今回が根多下ろしですからこれは「蔵仕込み」になります。
 
一、妾馬
 
 噺の中には、何でこんな題が付いているのだろうと思うのが結構あります。例えば寄席でもよく聴かれる「宮戸川」もその内です。今は大概中途で切ってしまいます。後半は芝居がかりになって難しい上、今時ではないのでほとんど演る人がいません。噺家でも後半を知らない人がいます。時間もかかるし特別な会でなくては無理でしょう。ところが下げまで聴いてやっと題名の謂れが分かるのです。ですから大半の人がその謂れを知らないことになります。この「妾馬」もその口です。お客様も不思議とみえて、よく訊かれます。それが面倒だからとこの頃では「八五郎出世」と題することも多いようです。実はあたしも後半は聴いたことがないのです。そこで今夜は場所も国立のことでもあり、復活上演と洒落ました。ついでに井戸替えもつけちまえ。
 なぜ後半が演られなくなったかは、お聴き下されば分かりますが、ひとつ話の種でお付き合いを願っておきます。
 

第二十三番蔵出し

 カランコロン、其の後 ト云フ回

平成六年十一月二十日  於・浅草舟和亭

一、徳ちゃん 一、牡丹燈篭・お札はがし  

 

一、徳ちゃん
 
 あたしが二つ目から真打ちになりたて時分と比べて体感的に廓噺のウケが鈍くなってきています。それも無理はありません。あたしが二つ目の頃で赤線がなくなってまだ十余年、吉原へ行けばまだまだらしさは残っていましたが、もはや廃止後四十年になんなんとすれば、ウケが悪くなるのも無理からぬところです。とりわけ「五人廻し」とか「五銭の遊び」等の共感体験を基にした噺は大分きつくなりました。個人的には大変に好きな噺なのですが、あたしが喜ぶほどにはお客様は喜んでくれません。この「徳ちゃん」もその内でしょう。「猫と金魚」の権太楼が得意にしてましたが、ほとんど体験話と云われています。先代馬の助師匠もよく演っていました。
 
 そういえば先代が亡くなったのは確か四十七、八でした。うわーっもうすぐ越してしまう。
 
一、牡丹燈篭・お札はがし
 
 今夏のクソ暑い最中に圓朝座で演った「お露新三郎」の続きであります。
 
 なるほど大圓朝師匠の代表作と云われるだけあって、良く出来ています。圓朝師の御作は発端がべらぼうに面白くて、その後段々と尻すぼみになっていくのですが、この噺はなかなかすぼみません。もっともあたしも最後までは読んでいませんので、何とも言えないのですが。この筋と平行して進んでいく「孝助伝」もなかなか面白いのですが、そこまで手が回るかどうか。なにしろこの手の噺は年に四、五席も覚えられれば上出来で、その他に虫干ししなければならない世話噺やら落し噺が幾らもありますので、そうそう手を拡げるとアフターケアーがままなりません。以前の圓朝座のように全編通しでかけていくのはもう無理でしょう。面白そうな場面だけ演る「良いとこ取り」になるのはやむを得ないところです。それにしても「天保六花撰」「小猿七之助」「小夜衣草紙」「鼠小僧」等やりたい世話噺は多いのですが、脳細胞の減少には逆らえず、覚えの悪さに閉口します。瞬間科白記憶装置なんて物は出来ませんかしら。
 
 今回はどちらも「蔵仕込み」であります。

第二十四番蔵出し

 小山内薫でもジャズ息子でもない息子 ト云フ回

平成六年十二月十八日  於・浅草舟和亭

一、佐々木政談 一、火事息子  

 

一、佐々木政談
 落語で政談物は結構数多く、唐茄子屋政談、鹿政談、小間物屋政談、白子屋政談、遠山政談、政談と名は付きませんが大工調べ、白木屋、三方一両損等もお白州が出ます。あ、てれすこなんかもそうですか。圓朝物では政談月の鏡なんてのがありますが、あたしは発端を演っただけで後でお白州が出て来るかどうか知りません。たぶん出てくるのでしょう。唐茄子屋政談や白子屋政談はお白州は出て来ない様です。・・たぶん。あと、名人長二の最終席が「お白州」で、資料によるとあたしは演っている事になってるのですが、まるで覚えがありません。ボケが来たのか錯覚か、うーむ、もう一度圓朝全集を読んでみよう。
 
 この佐々木政談は元々は下げがあったそうで、圓生全集の輪講に出ています。蔵出しではなるべく本来の形でと思っていますが。流石にこれはやる気がしません。でも好事家のお客様の為に一応輪講から書き抜いておきます。参考までに。
 
四郎「これで名将の名前が出来ます
 
奉行「名将の名前とは
 
四郎「お奉行様が佐々木様であたくしが四郎、お父っつぁんが高田屋綱五郎で高綱。佐々木四郎高綱
 
奉行「佐々木四郎高綱と申せば源氏じゃのう
 
四郎「いいえ、平家(平気)でおります。
 
 てんですが・・・。どうも桶屋の親父にしては名前が立派だと思ってましたが、してみりゃ下げを言うために付けた名前で、下げ迄やらないと決めれば、名前は何でも良いことになりますが、まあまあヨウガショ。落語はあんまり理詰めにしない方が宜しい様です。

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一、火事息子
 
 ジャズ息子、息子、と来たので、火事息子と云う訳で、安直なものであります。そんなら前席は近日息子にすればよかった。これで息子四部作の出来上がりで。
 
 人情噺は余り好みではないのですが、この噺は佳いですね。ちとお定まりの感もありますが、圓生正蔵両師匠の名演を思い出します。あと、柳橋師匠のも良かったですねぇ。名人圓右の火事息子が又良かったそうで、幸い速記が残っていますので、参考にしています。
 
 この噺はまだ二つ目の頃に根多下ろしをしたのですが、この親父の「そこへ行くと家の馬鹿野郎は・・・ の件がまるで自分で自分の事を言っている様でとても出来ませんで、それきりお蔵になっていました。矢張りこの手の噺は年の功が要ります。
 
 考えたら今晩はどちらも二十年ぶり位の蔵出しであります。
 
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第二十五番蔵出し

 落し噺は善人の面白さ、か ト云フ回

  平成六年二月二十六日  於・浅草舟和亭

一、五人廻し 一、井戸の茶碗  

 

一、五人廻し
 
 代表的な廓噺であります。以前にも申しました様に廓という共通体験の場が無くなった現在、総じて廓噺は演り難くなっていますが、とりわけこの噺はその感があります。昔はそれこそ仲間内で失敗談を語るようなもので、さして五人を演じ分けなくとも大いにウケたものと思われますし、そうした噺だったと思います。なんせ其の当時の寄席で毎晩の様にかかってたてぇますから。しかし其の共通基盤が無くなるに連れて、おいおい演じ分けに力が入るようになったのは仕方がないことなのでしょう。それにつれて大根多へと昇格をしていったのも面白いところです。実際現在演じ分けの興味がなかったら、ただ文句を並べるばかりで何が面白いのか、となりかねません。一度意味を失った噺に新しい意味を見つけて再生した、いわばリサイクル噺でしょうか。談志家元の「五人廻し」を聞いた人が「ありゃ談志の一人廻しだ」と言っていましたが・・・・・ま、面白ければそれでもいいんですけどね。
 
一、井戸の茶碗
 
 講釈根多からの移植です。志ん生師匠あたりが持って来たのかなと思いましたら、三代目の小さん以前に春風亭柳枝の速記がありますので、大分以前に移植されたんですね。柳枝の速記は古風然としていますが、三代目のはかなりこなれていて、志ん生師匠とさして変わりません。別名「細川の茶碗屋敷」とも申しますが、先立ってさん喬さんが鈴本で「宮戸川」を演って降りてきましたら、楽屋へごく丁寧な人がやってきて面会を申し入れ、さん喬さんが出てみますと「私は熊本市長の秘書ですが、只今は熊本を宣伝して頂き、市長も大変に喜んでおります。ささやかですが」と一万円のご祝儀を置いていったそうです。「肥後の熊本におじさんがいる」だけで一万円ですから「井戸の茶碗」なら三万円になったと悔やんでいました。
 
 今回蔵仕込みです。

第二十六番蔵出し

 世話噺は悪人の面白さ、か ト云フ回

  平成七年十月九日  於・お江戸日本橋亭

一、幾代餅 一、やんま久次

 

一、幾代餅
 
「紺屋高尾」と同工異曲の噺。何故か「紺屋高尾」は三遊亭系が演じ「幾代餅」は古今亭系です。この噺はどうも、志ん生以前はあたしの持っている速記にないんですね。してみると大師匠が何処からか仕込んできたものなのでしょうか。この噺と云い、「黄金餅」「お若伊之助」と云い、大師 匠は由来噺が好きだったんですかね。幾代餅という餅は実際に有ったようです。その頃江戸で有名な餅と云いますと金竜山浅草餅、麹町三丁目に於鉄牡丹餅、そして両国橋詰めの幾代餅だったそうで、「入り口に掛けたる太き縄すだれ ねじりてちぎり出す幾代餅」と狂歌にあるように、ちぎった餅に餡をつけた餅だったそうですから、噺の方も間違ってません。大津絵の「両国風景」の中にも「おのぞみならば幾代餅」という科白が入っていますから、かなり有名なお餅だったんでしょうね。ただその由来が本当に噺通りだったのかは残念ながら分かりません。
 

 

一、やんま久次

前回「落し噺は善人の面白さ、かト云フ回」で「井戸の茶碗」を演りましたのて、今回はそれと対になっています。
 
 亡くなった稲荷町の正蔵師匠が演っていた噺です。正蔵師匠は原作を大幅に手直ししてしまうところがありますので、どうしても原本を読みたくて、人にもお願いをして探したのですが見つかりませんでした。圓朝師の「緑林門松竹」の内だというのですが、無いのです。そこで稲荷町の速記を元にしましたが、あたしも大分手直ししてあります。ところでこの噺を演ってみた肌合いがどうも圓朝物と違うんですね。どちらかというと「お富與三郎」に近い。圓朝作と言うには何処か違和感を持っていたのですが、先だってある方から、この噺は別名「大べらぼう」と云って初代志ん生が得意で演っていたのを、圓朝が「緑林門松竹」に取り入れて演ったもので、流石に圓朝全集には入れにくかったのだろう。と、教わり大いに合点が行きました。やはり「お富與三郎」を得意とした初代志ん生の物だったんです。あたしの勘は当たってました。圓朝師は志ん生の「九州吹戻し」を聴いて俺にはとても真似も出来ねぇと言ったそうですから、志ん生には一目置いていたようです。

第二十七番蔵出し

 今回はあたしの師匠でせめてみよう ト云フ回

  平成八年七月二十一日  於・浅草舟和亭

一、馬生版・禁酒番屋 一、菊江の仏壇

 

一、馬生版・禁酒番屋
 
 敢えて馬生版としたのは、柳家系とはチョット趣が違っているのです。もちろん大筋は同じですが、細々としたところが柳家系とは違って別バージョンの趣があります。この噺は侍が出るなどいかにも江戸の噺のようですが、そもそもは三代目小さんが上方から移入したものです。三代目の速記を読むと、成る程どちらのバージョンもこれが基になっている気がします。伝わるうちにそれぞれの個性が出て違ってきたのでしょう。あたしの師匠は誰に教わったのか分かりませんが、上方の手法を取り入れたところも有ります。以前は噺家或いはその門によって噺の趣が違ってくる例が多かったのですが、現在は噺の出所が一つになってしまい、誰が演ってもどの一門が演っても同じという傾向が出てきました。あたしを含め総じて勉強不足の気がします。

 一、菊江の仏壇

別名「白ざつま」とも云います。圓朝の弟子の圓右師が上方から持ってきたと云われていますが、異論もあるようです。あたしは師匠のしか聞いたことがありません。「山崎屋」やら「味噌蔵」やらに部分部分似たところもあり、あまり上作とは言えないかもしれません。雰囲気は「立ちきり」に似ているところもあります。稽古してみるとなるほど上方の人情噺独特の臭さを感じないでもありません。
 
あたしはそもそも「立ちきり」のような「大泣かせ」は苦手で好みでもありません。なんとも恥ずかしくてネェ。まぁ、この噺程度ならいいかなぁというつもりです。下げはなかなか秀逸で、これに惚れたところもあります。今日着て上がる着物は、あちこち汗染みがありますが、実はあたしの師匠の形見の白ざつまです。

第二十八番蔵出し

 騙すのも結構楽しい ト云フ回

  平成八年九月八日  於・浅草舟和亭

一、きゃいのう 一、星野屋

 

一、きゃいのう
 
 本当は金語楼先生のバージョンで演るつもりだったのですが、改めて聞いてみたら五分しかありませんので、今まであるバージョンで演る事にしました。ご免なさい。金語楼先生のは役者が女形にかぶれた風が何とも可笑しくてそれを演りたかったのですが・・・・。どこかに入れられないか考えてみます。
 
 以前落語協会の事務員で岸さんという方がいました。元は噺家で正蝶から市馬になった方で、お座敷では大変に売れた方だったそうです。この方があたしらが二つ目時分に、自分の芸を残すなり伝えるなりしたいというので若手を何人か集めて教えてくれる事になり、あたしも呼ばれて行きました。なんと高座の出から教えてくれたのですが、それが、「どーうも」と飛び跳ねるように出てくるのです。真似出来る者は一人もいませんでした。踊りも教えてくれたのですが、形の決まるところで「ここで三人年増が惚れます」と、変な教え方でした。その時に「きゃいのう」も演ってくれたのですが、かつら屋の親方がかつらの毛を撫で付けるところをやけに丁寧に演出していました。恐らく昔ならお客が感心して中手が来たのでしょうが、今は必要ないと思います。
 
 一応二百以上の根多を手がけていると、何か軽い根多を仕込もうと思っても、こんな噺しかありません。どなたかご推薦の根多がありましたら、お教え下さい。
 
一、星野屋
 
 別名を「三両残し」又は「五両残し」と云い落語寄席の始まった文化初年に既にかかったいたというから古い噺。其の元は又元禄十一年の「初音草噺大鑑」なんだそうだから古いのじゃあ横綱ですか。ちっとも知らなかった。
 
 確かに速記を当たってみたら多種多様でどれをお手本にしようか迷うほどでした。速記を読んで難しく思ったのはこのお花をどのくらいの悪い女にするか、でした。演者によっていろいろですが、圓朝モノではなし、あまり悪女に仕立てない方が後味は良いようです。と云ってまるで悪くなくては後半のやり取りがつまらくなるしで、兼ね合いの難しいところです。あたしの聞いた中では、柳橋師のが嫌味がなくて結構でした。
 
 今回二席とも蔵仕込みです。

第二十九番蔵出し

 そう言ゃあこの噺は ト云フ回

  平成八年十一月三日 於・浅草舟和亭

一、くしゃみ講釈 一、お直し

 

一、くしゃみ講釈
   
上方からの移入根多。初代の金馬の速記が残っています。確かに店先で覗きからくりの口上をやる様なキャクラクターは、八さん熊さんではなく喜ぃやんですね。今回根多下ろしで、ごく安直に出してしまったのですが、稽古を始めたら講釈やら口上やら覚えなくてはならずえらく手間のかかる根多で閉口しました。
   先代金馬師匠はあたしの大師匠同様、講釈師をやっていたことがあっただけに講釈は堂々として結構でした。先の馬楽師匠のもいかにも小品の良いくしゃみ講釈でした。
 
 一、お直し
 
 今回の、「そう言ゃあこの噺は」と云うサブタイトルの心は、以前小燕枝さん、さん喬さんと一緒に四季の会という勉強会をやっていた時に、この「お直し」を出したことがありました。ところが会の前々日にあたしの師匠が亡くなってしまい、会の当日がお通夜になってしまったのです。とても稽古どころではなく、当夜チョットだけお通夜を抜けて高座から師匠の亡くなったことを報告して、すぐに又お通夜の手伝いに駆けつけました。それ以来この根多はずっと手つかずになっていました。もうあれから十五年。嫌になるくらい早いですねぇ。
   寄席の初期からあったという古い噺です。「お直し」というと志ん生師匠の十八番根多とされております。三代目小さんの速記とさして変わりませんが随所に志ん生らしさが出ています。この根多で文楽師に続いて芸術祭優秀賞を取りました。お女郎買いの噺で文部大臣に褒められたと話題になったそうです。
 この手の噺はどうやっても年をとらないと難しいところがあります。ま、今の内に覚えるだけ覚えておいて年をとるのを待つという気持ちです。あたしが六十位になったら良いかも知れません。どうぞお客様もお気長にその頃をお楽しみになさって下さい。芸とはそうしたものであります。ハハ

 


第三十番蔵出し

 この暮れの忙しいさなかに ト云フ回

  平成八年十二月十五日 於・浅草舟和亭

一、姫かたり 一、夜鷹そば屋

 

一、姫かたり
 
 志ん生師以外の音は残っていない珍しい噺。鼻の円遊の速記はありますが、設定は明治になっています。それなりの面白さはありますが、やはり江戸の気分で味わいたい噺です。落とし噺の中でも艶笑噺に入るのでしょうが、世話噺の気分もあり小品ながら侮れません。季節ともあいまった佳品であります。

 

一、夜鷹そば屋
 
 どんな噺だろうとお思いのお客様も多いと思いますが、初めにネタを明かしておきますと、有崎勉作「ラーメン屋」であります。ハハ
 有崎勉はご承知とは思いますが金語楼先生のペンネームであります。かの円朝とも比べられるほど落語を創作しました。いかにも新作然とした噺が多いのですが、中にはあたしも冬場になると良くかける「身投げ屋」など、古典風の噺も結構いけます。
 「ラーメン屋」は亡くなった今輔師が十八番で演っていました。以前有った東宝演芸場は落語協会芸術協会がともに出ておりましたので、ここの前座で入るのは芸術協会の噺も聞けて楽しみでした。ある日今輔師が「ラーメン屋」をかけて気分良さそうに下りてきたのを、落語協会の前座が「師匠、今の噺は何という噺で」と聞いてしまいました。一遍に不愉快な顔になって得意のお婆さんの調子で「ラーメン屋ですッ」と言い捨てたのがいまだに忘れられません。
 今回は舞台を江戸に直して演ってみます。二席とも蔵仕込みです。

 


第三十一番蔵出し

 たまには風情を楽しみませう ト云フ回

  平成九年四月十六日 於・清澄庭園涼亭

一、おせつ徳三郎

 

一、おせつ徳三郎
 
 この噺は幕末の名人初代春風亭柳枝の作としてあります。三代目の柳枝の速記がおそらくそれに近いのでしょう。「お節徳三郎連理の梅枝」と云う本来は人情噺です。梅枝てぇからこのころは梅見でやっていたのかと思ったら、やっぱり花見でした。

 普段は二つに分けて、上を「花見小僧」、下を「刀屋」としてやりますが、「刀屋」は牡丹燈籠にもありますのでちょとややこしい。以前は中もあったらしいのですが、どうやら徳三郎が暇(いとま)になって叔父さんの家へ預けられ、婿が来ると聞いて家を飛び出すまでを長く引っ張ったもののようで余り面白そうではありません。

 例によって鼻の圓遊がこの人情噺の前半をを滑稽にして「花見小僧」に拵え上げたというのですが、圓遊の速記を読んでみると確かにくすぐり沢山で面白おかしくなってはいるのですが現在の「花見小僧」とは少し風合いが違っています。むしろ柳枝の速記の方が現形に近い。「鰻屋」同様、何でも圓遊が落し噺に拵え上げたように言ってますが実際は大分違ってるようです。

 あたしは牛島様の氏子ですし、がきの時分から向島の土手ではどのくらい遊んだか知れません。馴染みの地名が出て来るのは結構嬉しいものです。また今日の会場に近い場所も出てきます。

 下げはどの速記を見ても「鰍澤」と同じ「お材木で助かった」なのですがどうもこの噺にふさわしくありません。今回はあたしの師匠が根岸の文治から教わった形でやることにしました。柳枝の速記では下げの前のくすぐりとして入っていて、いささか下げとしてはカラいのですが、如何にも大店のお嬢様らしくて好きな下げです。

 今晩も蔵仕込みであります。この所、蔵出しをしないで、仕込みばっかりになってます。ま、ようがしょ。あはっ

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