What is "SELF"?

内山興正老師の目指されたもの









text by Ryodo Yamashita (Keisei Zendo)


 内山老師が逝去されて一年以上が過ぎ去ってしまいました。内山老師によって仏法への道に目を開かせて頂いた私にとって、いやでも色々なことを思わざるを得ないこの一年でした。老師との個人的な思い出話をしてもしかたがないので、ここでは一体何をそもそも内山老師はその一生をかけて目指そうとされたのかに、絞って考えたいと思います。その目指そうとされたものこそ、老師の魅力のわいてくるところであって、我々が未来に向けて大事にしていかなければならないものだからです。


 私と老師の出合いは、大部分のひとがそうであるように、まずその著作からでした。いまから二十年近くまえの頃です。自分の人生に行き詰まりを感じて、藁をもすがる思いで書店の宗教書のコーナーに通いつめていた学生の私でした。何時間も書棚の前に立っては、一冊一冊手にとって目を通して行く時、その頃は仏教書の書棚の大きな一角を占めていた老師の本に出会いました。それら「自己」「求道」等の本が発する一つの透明な何かが、自然に自分のなかにしみ込んで来るのを感じました。それは他の禅の老師方あるいは他の宗教の指導者の本のなかには発見出来なかったものです。「曹洞宗の有名な老師」などという言わば外からはられたラベルなど全く関係ない地点で、ここに私と全く同じ一人の裸の人間がいる。そしてその人の生の声を聞くことが出来たといったらわかってもらえると思います。つまりは凡百の宗教家がよくやるような演技が全くそこにはなかったということです。演技というのは他人があって始めて成り立つものです。その演技がないということは、老師が問題としいるものが、余りにもナマナマしいものであって、それらと格闘しているとき、他人の目を気にしている余裕などないという事です。そこにこそ二十年前の私を始めとする、多くの人が共感したのでしょう。


 老師の最初から最後まで使われた「自己」と言う言葉もその観点からもう一度見直すべきでしょう。老師は何も「自己」についての哲学体系を作ろうとされたのではありません。現在では誰もが「自己」についておしゃべりを展開していますが、それらの人達と老師を根元的にわけるのは、要するに問題はこのナマナマしい自分のことなのだという感覚。もっといえば覚悟があるかないかということです。昨年三月の御葬儀の時、老師の御遺体をひつぎに移すのをお手伝いをしましたが、その余りの軽さに驚くとともに、ご自分が一生説かれたことに本当に責任をとられたのを、痛切に感じました。
 我々老師の遺志をつぐものにとって、何よりも大事なことは、この生身の自分が問題なのだぞと、一生をもって示されたこと、それを本当に肝に命じていくことではないでしょうか。


山下良道(やました・りょうどう)●高知県在住。渓声禅堂責任者。内山興正老師の孫弟子に当たられます。高知県の渓声禅堂に加えて、webでは渓声禅堂のページも運営されています。


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