鶴 舞 陣 屋 跡  

市原市鶴舞、鶴舞小学校他 




 明治維新で徳川宗家が駿河に移るに伴い駿河にあった大名は押し出されて、その一部は山武市

の松尾城等と同様に房総の地に領地換えとなりました。この鶴舞藩井上家は浜松を領した城主格

の大名でしたが、新しく築いた鶴舞城は築城期間が短かった為か城というより陣屋の造りに近い

ようで、ここでは鶴舞陣屋としておきます。現在の跡地は鶴舞小学校や学習乃館になっていて、

その周囲に僅かに土塁と井戸が残されています。さらに学習乃館の前の路地を南西に下ると堀跡

の池も残っているそうですが、今回は見逃してしまいました。

 なお、この陣屋を築く前には古沢の民家に仮本営を置いていたのですが、入り口に公家門と呼

ばれる門が残されていて、この門は仮本営が置かれる前からあったので、当然の事として本営の

門としても利用されていたと思われます。


   鶴舞城本丸之跡


 小学校の構内に僅かに残さ

れた土塁の上に建っています

が、この後ろに続く土塁より

も高くなっているので、櫓台

だったのかも知れません。さ

らに学習乃館の庭にも小山が

見えるのですが、これは後世

の造成のようです。





    鶴舞藩大井戸


 上記の石碑の左手に残され

ている井戸で、この地は良質

な水が得られる事から城地に

選ばれたそうです。現在の地

形を見ても平坦な場所ですし

もはや軍事的な地の利を考え

て城を構える時代ではなかっ

たのかも知れません。






   通り沿いの土塁


 小学校東側の駐車場の脇に

も土塁が残されていて、よく

見ると他にも痕跡らしき起伏

が見られます。陣屋のような

造りですが六万二千石の大名

なので、城地の縄張りは広く

取られていたようです。







   今関家の公家門


 この門は奈良一乗院宮家か

ら許されて建造したと伝わり

文化二年(1805)の護摩札が

ある事から、それ以前の建造

と見られています。公家門と

されるように武家屋敷の長屋

門等とは明らかに違う独特な

造りを見せています。