城とは・・・

城の範囲、範疇について整理してみました  




 一口に城といってもさまざまな種類の城があり、中には城の範疇に入れるべきか悩むものもあ

るので、少し整理しておきたいと思います。


1.江戸時代以前に築かれたものであること。

  なにを今さらと思うでしょうが、念のために挙げておきます。

2.軍事的な機能を持つもの。

  砦、物見台、烽火台、砲台、台場、陣地(周囲に手を加えたもの)

3.土塁あるいは堀などのある領主館。

  居館、屋敷、等で上記のように何らかの防御的構造物のあるもの。

4.行政府としての役割のあるもの。

  陣屋、代官所、古くは国府郡衛郡庁など、一定の地域を統治するための施設。

5.上記のような機能を併せ持つもの。

  戦国時代後期から江戸時代にかけての城がここに該当するものと思われます。


 一応このように整理してみたのですが、東京近郊の史跡などを調べているうちに、分類に迷う

ものが出てきたので簡単に紹介しておきたいと思います。

 まずは現在も建物の残る世田谷代官屋敷があります。井伊彦根藩の世田谷領20ヶ村を統治し

ていたのですが、代官は在郷の名主で代々その屋敷をそのまま代官所としたものです。ですから

代官所には間違いないのですが、建物のつくりは豪農の屋敷としての雰囲気を色濃く残していま

す。これを城とする事には迷いがあったので、当ページでは別に武家屋敷として掲載することに

しました。さらに同様の事例は他にも見られるようで、都内や多摩地域には大名格の旗本領や寺

社領が点在していて、中には年貢米集積の時期とか、必要に応じて領内の名主の屋敷や寺などを

代官所としていた例もあるようです。

 つぎは江戸城下にあった各藩の大名屋敷なのですが、中には城のような構えのものがあったよ

うです。文京区白山の小石川植物園の地にあった白山御殿は、周囲に堀を巡らし角隅には櫓も上

がっていたそうで、まさに小大名格の陣屋のような屋敷だったといわれています。この屋敷の主

は将軍になる前の徳川綱吉で、将軍家の身内だったのでこのような屋敷を造営することが許され

たのでしょう。当然、綱吉が将軍に就任した後は他に引き継がれることなく破却されたようで、

徳川吉宗の頃には跡地に小石川養生所が設置されたことは良く知られています。

 さらには江戸近郊に点在する将軍家の鷹狩り御殿でも、不意の襲撃や流れ矢を防ぐため周囲に

土塁などが築かれていたようです。いちばん顕著な例は家光の頃まであった葛西御殿で、戦国時

代の葛西城をそのまま宿泊所としたものでした。また杉並区高円寺南の高円寺も鷹狩の際の休息

所になっていたそうで、本堂の裏には今でも土塁の一部が残っている(未確認)そうです。江戸

時代の鷹狩りは軍事演習や領内視察などの目的もあったので、鷹狩り御殿は江戸城の出城として

の性格もあったようです。

 最後は上記の条件には記されていないのですが、総曲輪という周囲を城壁等で囲んだ街があり

ます。代表的なのは戦国時代の小田原城で、街全体が土塁で囲まれていました。また古くは鎌倉

も同様で、周囲が山で囲まれていて釜底のようなので鎌倉と呼ばれたといわれています。源頼朝

がここを本拠に定めると周囲の切通しはすべて要塞化され、外側の斜面を削って崖としたり道の

真中に大石を置いて騎馬が駆け抜けられないようにされたので、鎌倉城と呼ばれることもあった

そうです。そして我が国最大の総曲輪は江戸城を中心とした関東平野で、鎌倉のように周囲は海

以外のすべてを険しい山で囲まれていて、関八州城?とも言うべきものです。徳川が天下を手中

にすると関東の地はほとんど親藩や譜代の大名で占められ、外様は下野黒羽の大関家など三万石

以下の小藩がいくつか辺境にあるだけでした。さらにたとえ譜代の城であっても城造りに石垣や

天守閣を用いることは許されず、本格的な城は他地域との峠道や関所を守る為の小田原や沼田等

一部の城に限られました。このように関東平野周辺の山地を総曲輪の城壁として江戸の地を守る

という壮大な戦略があったのですが、今までこれをもってして城と呼んだ人はいないようなので

やはり話のスケールが大風呂敷すぎるみたいです。






 一つ上   ”城と古城址巡り

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