宇津家桜町陣屋主屋

栃木県二宮町大字物井、桜町陣屋跡  




 旗本宇津家は小田原藩大久保家の分家で、桜町付近に四千石の領地がありましたが、文政の頃

には領内の田畑は荒れ果て、実質は千石ほどしかありませんでした。そこで本家小田原藩の家老

服部家の奉公人で、農民の身分にも関わらず、服部家の財政を立て直した事で手腕を認められて

いた二宮金次郎を呼び寄せ、疲弊していた領内の復興を託しました。そこで、金次郎が着任した

文政6年(1823)に、金次郎一家の居住と執務の為に建てられたのがこの主屋(注1)で、以後

の26年間に渡りこの陣屋にあって桜町領復興の指揮をとりました。


    陣 屋 主 屋


 明治になって陣屋が廃止され

るまでは他にも名主詰め所など

10棟程の建物があったそうで

すが、残っているのはこの主屋

だけです。それでも他所の陣屋

で役宅の残るところは皆無なの

で、金次郎の人徳がこの建物を

守らせたのでしょう。






    食い違い虎口


 元々は城の防御の為に門前の

見通しを悪くする構造で、陣屋

が築かれた当初は城としての用

途も考えられていたようです。

陣屋の東側には今も桜町用水が

流れていますが、北と西側にも

堀と土塁があったようで、現在

は復元工事が行われています。



注1・・・桜町陣屋は、四千石の大身旗本の陣屋に相応しく約3千坪もの敷地の周囲に土塁と水

     堀が巡っていて、表門には食い違いの虎口も築かれるという本格的な構えですが、それ

     にしては、この主屋は意外なほど質素な建物のように思います。ただ東京近郊の代官所

     や旗本陣屋で役宅の現存しているものは皆無(世田谷代官所などは在郷の名主に代官職

     を兼務させたもので役宅は元来が豪農の邸宅)であり、比較のしようもないのですが、

     領内が疲弊しているときに大規模な建物の造営は困難だったのかも知れません。さらに

     着任当時の金次郎の身分がまだ農民のままで、役職にしても領内復興という重要な責務

     にしては、名主役格(大名主程度か?)という中途半端な身分だった事も影響している

     のではないでしょうか。一方で、建物の間取りとしては、領主の居間となる上段之間や

     罪人を裁く五畳之間など、陣屋役所としての形式は備えていたようです。