中 曽 根 城 址

足立区本木、中曽根神社他 




 中曽根城は足立区一帯を支配していた千葉次郎勝胤により築かれたとされています。その当時

の足立区南部は荒川に続く低湿地で、城址は周囲より一段高くなった微高地になっていたと伝え

られていますが、現在は地形変化のない市街地になっていて城址の面影はまったく残っていませ

ん。前章の石浜城址でも触れましたが、千葉氏は武蔵国に移ってから大田道潅の下で各地を転戦

して板橋、足立、浦和付近を中心とする地域を領有し、さらに小田原北条氏の配下になると父祖

の念願の地であった下総にまで領国を広げていたようです。そして領国内には本拠赤塚城の他に

も一族の武将の守る支城がいくつか築かれ、中曽根城もその内の一つだったようです。また同区

伊興三丁目の民家の裏に城主千葉次郎勝胤の墓が残されています。



城址の石碑


 中曽根神社の境内に説明碑と共

に建っています。この碑のある境

内が城址の一部で、周囲より一段

高くなっていたそうですが、今は

平坦な境内地となっています。ま

た平成8年の発掘調査で幅7m程

の濠跡が確認されています。





中曽根神社


 もとは千葉氏の守り神の妙見堂

だったのですが、昭和になって興

野の雷社を合祀して中曽根神社に

なりました。文政年間の(1818-

30)新編武蔵国風土記稿には「外

構えの堀及び土居の跡のみ残れど

其内は今畑となれり」と記されて

いるそうで、江戸時代末までは掘

等の遺構が残っていたようです。






宝 寿 院


 城址の200mほど西にある寺

院で、鎌倉時代の板碑が発掘され

ています。足立区南部はかつては

沼沢地だったのですが、この地域

が古くから開かれた場所だった事

を物語っています。また付近には

「小屋の内手」という城に関する

地名も残っていました。







湾曲した道


 住宅地図を見ていて気付いたの

ですが、城址のある中曽根神社の

周囲には、神社を中心として湾曲

した道が何ヶ所か見られます。中

曽根城も葛西城のような掻揚げ式

曲輪だったようなので、この路地

は水濠の跡とも考えられます。こ

ちらも発掘する事が出来れば確か

な事がわかるのですが・・・




    アクセスガイド


  中曽根城址・・・東武伊勢崎線 梅島駅より南西に徒歩約1000m(中曽根神社)





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