ロンドン憶良の世界管見


オランダ・臼杵・福沢諭吉・慶応


諭吉先生の借財返済・路銀捻出の秘話




今年(2000年)はオランダ船「デ・リーフデ」号が臼杵の佐志生に漂着
して400年になるので盛大な記念行事が開催されると聞く。

「デ・リーフデ」号が嵐にもまれ臼杵湾に入ったのは、偶然ではないよ
うな気がする。
かってスペインに支配されていたオランダの船乗りには、「日本の豊
後国臼杵は、キリシタン大名の領主大友宗麟公が南蛮に開港し、唐
人の町やセミナリオさえあった・・・」ということは常識であったろう。

嵐に生き残った船と船乗りの安全を考える船長の判断に、かって異人
(外国人)を受け入れ、キリシタン文化を取り入れていた臼杵が最優先
に選択され決断されたであろうと考えるのが自然である。
つまり偶然の漂着ではなく意識的な入港であると、往年のエイトの舵手
の私は憶測する。キリシタン大名大友宗麟公の功績と影響は大きい。

当時の臼杵藩主太田氏は生存した一行を大坂に送り、航海士の英人
ウィリアム・アダムズが徳川家康に仕え三浦按針になり、オランダ船員
ヤン・ヨーステンの屋敷跡が八重洲であることは衆知の通りである。



それから約250年後、幕末の風雲の中で、臼杵が再びオランダと間接
的に縁があったことは意外に知られていない。
私も臼杵郷土史家吉田稔氏のご労作「三村君平」を読むまでは知ら
なかった。同氏のご了解を得、ご著書をもとに若干補足し、紹介したい。

中津奥平藩の下級武士であった福沢諭吉は、後年福翁自伝に「門閥
は家の仇でござる」書いているように、身分制度が厳しく本人の実力が
評価されない藩政に不満を持っていた。
当時中津藩士の漢学者で、諭吉も師事していた白石照山は身分が
下級藩士であるが故に、大手門の門番であった。
「照山先生を藩校の学者に登用してほしい」という諭吉ら若手藩士の
意見は抹殺され、嘉永7年(1854年)白石照山は中津から追放され
た。

照山は旧知の月桂寺徹伝和尚を頼って臼杵に来た。時の家老村瀬
庄兵衛は藩主稲葉観道公に推薦し、藩校学古舘の教授に登用した。
(士は自ずから士を知るというべきか)

一方、諭吉は身分制度厳しい中津から離れたいと考え、安政元年(18
54年)長崎に砲術研究の名目で遊学した。
安政3年(1856年)更に蘭学(オランダ語および実学)を大坂の緒方
洪庵の適々斎塾(適塾)に学びたいと思った。しかし中津には長崎遊
学の借財もあり、大阪への路銀も必要であった。
思案した諭吉は、蔵書126冊を携え、旧師白石照山のいる臼杵に来
た。
照山の口添えで臼杵藩は15両の大金で買い上げた。

家老村瀬庄兵衛が財政破綻していた藩の再建に活躍したことは著名
であるが、そうした中で、他藩の俊才の向学心を援助する為にその蔵
書を買い上げた臼杵藩主や家老たちの、懐の深さや人を見る目の確
かさには敬服する。

今風に描くと、
「身分差別のひどいN社を解雇された照山氏を、U社は採用し、社内
大学の教授に登用した。N社を退社して国内留学しようとした諭吉青
年はサラ金に多額の借金があった。
U社は財務再構築に苦しい懐状態ではあったが、N社の諭吉青年を
将来国家有為の人材と見込み、これからは漢籍は時代おくれと知り
ながら、青年の持参した古本をそっくり買い上げてあげた。」
という人情話になろう。

現代の政治家や経営者には、真に伸びる若者を見極め、根気よく長
期的に育てる能力に欠けているのではなかろうか。



閑話休題。
中津での借財を清算できた諭吉が、臼杵藩に深く感謝したことは当然
である。
諭吉は洪庵の滴塾で塾頭を務めた後、安政5年(1858年)中津藩の
招きで江戸に出て、築地鉄砲洲の奥平中屋敷に蘭学塾を開いた。
これが慶応義塾の起源である。
しかし時代は変化していた。極東でのオランダの勢力は弱まり、英米
フランスが覇を争う世になっていた。諭吉は自力で英語を学び、万延
元年(1860年)幕府の一員として咸臨丸で渡米し、米国の先進性に驚
嘆した。蘭学から英語への切り替えの速さは、さすがに英才である。

翌文久元年(1861年)幕府使節団として英仏オランダなどヨーロッパ
各国を見学。更に慶応3年(1867年)再び渡米する。
幕末の騒乱には、幕府薩長いずれにもつかず傍観した。
明治元年(1868年)塾を築地鉄砲洲より芝新銭座に移し、「慶応義
塾」と命名した。

諭吉の「慶応義塾」には多くの臼杵の大先輩たちが学んだ。諭吉も報
恩の気持ちから彼らを引き立てたようである。明治3年から29年まで
に35名の圧倒的多数が入塾している。
入塾された人々の年齢は11歳から26歳という幅の広さで、実力主義
や自由さが感じられる。
その中には明治3年荘田平五郎(三菱の重鎮)、4年箕浦勝人(逓信
大臣)、10年山本達雄(日銀総裁・大蔵大臣)など中央で活躍した錚
々たる方々の名前がある。
その他の卒業生も郷里でも政財界、教育界で活躍されたという。

歴史の展開を「もし・たら」で考えると、先輩の偉大さが実感される。
「もし宗麟公がキリシタンを受け入れていなかったら、はたして『デ・リ
ーフデ』号は臼杵に来たであろうか?」
「もし臼杵藩が照山先生や諭吉を援助しなかったら、慶応義塾創設
までの過程はあっただろうか?」

諭吉が緒方洪庵の適塾へ蘭学を学ぶ旅立の資金調達材料であった
臼杵藩買い上げの蔵書126冊は、臼杵市立図書館で大切に保存さ
れ、資料室で常時公開されている。

福沢諭吉という未知の若者を助けた臼杵という向学心に溢れた町に、
私も青春の一時期を過ごせた幸せを感じる。
友人・知己・身内にも慶応義塾に学んだ者が多い。オランダ修好400
年を機会に、あまり知られていない『臼杵と福沢諭吉先生』の挿話を、
わが身辺にも語り継ぎたいと筆をとった。

(東京臼杵人会だより2000年2月1日号に掲載)
臼杵郷土史家吉田稔氏のホームページ臼杵USUKI
連絡先:myks4@fat.coara.or.jp

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