晴耕庵の談話室

NO.106


標題: 「マクベス」関連スコットランド史について質問(1)

QUESTION

2004/11/19


ロンドン憶良様


いつも楽しくHPを拝見させていただいております。私はシェイクスピア
の「マクベス」を、引退した大学教授の指導のもと友達と読んでおります。
シェイクスピアを読む上で英国史の知識は不可欠で憶良様のHPは詳しい
うえに分かり易く大変重宝しております。

さて、マクベスですが、エッセイを書き上げる都合上スコットランドの
歴史を調べておりましたら、どうも2冊の本が違ったことを書いている
のです。一冊はナイジェル・トランター著「スコットランド物語」と、
もう一冊は森護著「スコットランド王国史話」です。
相違点を申し上げますと、
トランター版より
ダンカンの子供
  メールミュアとドナルド・バン (母ノーザンブリア伯の娘) 嫡子
  マルコム (母フォーティヴィオットの水車番の娘) 庶子
p44 ダンカンの二人の嫡子は母の出身国ノーザンブリアで静かな暮らし
を送ることに不満もなかったが、私生児マルコムは違った。

P48L10−−−−ここで指摘しておかなくてはならないが、マルコムは
すでに結婚していた。彼の妃はすでに亡きあの「鴉飼い」トールフィン
の娘で名をインゲビョーグといった。中略マルコムはインゲビョーグ
にダンカンとドナルドという二人の息子を生ませていた。
しかし、これも彼のマーガレット・アセリングへの欲望を押しとどめる
ことはなかった。 中略 王妃インゲビョーグはダンファームリンで
逃亡の一行を迎え、王が戻るまでの間面倒をみた。それから何が起きた
のかについては記録がなく、その次に我々に分かっていることはインゲ
ビョーグと二人の息子がダンファームリンから追放され、キンカーディ
ンの王城―ケネス三世がそこからフィネラにおびき出され死を迎えたと
いう城ーに移されたという事実である。
その後すぐに王妃は若くしてなくなったが、毒殺ではないかという疑い
もあったようだ。そしてその翌年マルコムはマーガレットと結婚した。
(1070年のこと)

森護版より
  ダンカンの子供
   ノーザンブリア伯シューアドの妹シビル王妃との間にマルコム・
   カンモーとドナルド・バン
   ドナルド・バン・・スコットランド西部沖のヘブリディーズ諸島
   に逃れ、7歳からの少年時代を過ごす。

1067年、アシリングはウィリアムの追及を逃れるため、妹のマーガレッ
トとともに、母アガサの里ハンガリーへに亡命を企てた。中略 遭難者
のなかで一際目を引くアシリングとマーガレットは、早速マルカム三世
の宮廷に招かれて、その庇護を受けた。
既二年前に、王妃インガボーグを失って独身のマルカム三世は・・・・
・漂着した1067年にダンファームリン・アベイで結婚式を挙げた。

2冊を比べるとこんなに違うのですがどちらが本当なのでしょうか
というかどちらが定説なのでしょうか?
また、ホリンシェッドの史実はどこまでが信用できるのでしょうか?

トランターはバンクォーはシェイクスピアとジェームズI世の創り出し
た人物だと言っています。

どうかご意見をお聞かせくださいませ。


                          H.K.


ANSWER

2004/11/20


H.K.さま


メール拝見しました。 私のHPを愛用されているようで、製作者冥利
といえます。
日本には何人の「シェイクスピア・マクベス」愛好者がいるのか知り
ませんが、できるだけ存命中に(私もはや古希に近いので)「真説マ
クベス」を、上梓したいと思っています。

閑話休題
ご質問に対し、下記の通り回答します。私は学者ではありませんので、
お含みおきください。またエッセーには、このホームページ利用の旨
注記ください。
他のスコットランド史愛好者やマクベス研究者あるいは一般読者のた
めに、若干多く説明しましょう。


Q1 ナイジェル ・トランター著「スコットランド物語」ともう一冊
  は森護著「スコットランド王国史話」に相違点がある。

A1 他にもう1冊、学者の書いたスコットランド史の併読をお勧め
  します。

  ご利用されている2冊の図書は、学術的にはいかがでしょうか。
  トランター著「スコットランド物語」は読んでいませんが、森護
  著「スコットランド王国史話」は利用しています。
  両書ともに物語あるいは史話といったレベルではないでしょうか。
  歴史学者の書いたスコットランド史は、読み物としては面白くあ
  りませんが、史実は史実、確証の不明な点は不明と書いています
  ので、参考になります。
  他方史話や物語には伝説や伝承あるいは秘話などが書かれている
  ので、面白みがあります。
  どちらが正しいか、あるいは史実に近いかは一概に言えないと思
  いますが、ご質問の箇所に限り、史書を引用しましょう。

Q2 ダンカン(一世)(1040年マクベスに殺害さる)の子供の
  数は?

A2 A.A.M.Duncan著「Scotland]The Making of theKingdom ,Mercat
  Press社P628に記載されている系図では、ダンカン一世(1034−
  1040)の子供は男子 マルコム(三世)、ドナルド(三世)バン、
  女子 メールミュアとなっています。本書ではマルコムが嫡子か
  庶子は記載されていません。
  他方、Fitzroy Maclean著「A Concise History of Scotland」
  Thames and Hudson社(森護先生も参考文献に掲載)では、マル
  コムとドナルド・バンの二名しか系図に載っていません。もっと
  も本書は Concise History ですから女子のメールミュアは省略さ
  れたのでしょう。
  私は3名と思います。

Q3 マルコムは庶子(水車番の娘の子)か?

A3 マルコムが庶子というのは、ちょっと疑問です。というのは9歳
  だったマルコム王子(後の三世)は、父ダンカン王がマクベス伯
  に殺害されるやノーザンブリア伯シワードの下に逃げ、さらに当
  時のイングランド王エドワード懺悔王の宮廷に庇護されます。
  さらには後年、軍隊の応援を受けてシワード伯支援のもとに、マク
  ベス王を敗死させます。
  マルコムの母はシワード伯(デンマーク人)の妹(森護前掲)とい
  われていますが、Peter B.Ellis著「Macbeth」ではシワード伯の
  従姉妹と書かれています。いずれにしろ、イングランド王室での
  処遇を見る限り、シワード伯の甥あるいは血縁者と見る方が妥当
  のような気がします。

マルコムとマーガレットの結婚ついては、次回に書きましょう。


                        ロンドン憶良



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