晴耕庵の談話室

NO.90



標題:エドマンド剛勇王の子孫たちとノルマンコンクェスト(1)

REQUEST

2003/11/23

ロンドン憶良様

はじめまして。

突然のメールで失礼いたします。
「バルト〜エーゲ海への道」というHPを開いております大鴉と
申します。

以前より、こちらのサイトのことは知っておりまして、いろいろ
拝見していたのですが、このたびノルマンコンクエストについて
少々知りたいことが出てまいりまして、もしよろしければお教え
頂きたいと思いまして、メールしました次第です。

我が家(HP)は東欧圏〜ロシア地域の歴史をメインとしている
サイトなのですが、そのうちハンガリーにおいてある興味深い話
を見つけました。それはなんとハンガリー王国の建国者イシュト
ヴァーン王の時代に、英国より「二人の皇子」がきてとどまり、
さらにはイシュトヴァーンの後継者をめぐる乱に、兵を引き連れ
て参戦しているという驚くべきものでした。

よくよく調べてみると、この皇子エドワードとエドモンドという
名前で父親はエドモンド豪胆王。クヌートの時、家臣の告げぐち
がもとでクヌートの命により故郷を追い出され、北欧、あるいは
ロシアにさ迷った挙句、ハンガリー宮廷に流れ着いたとのことで
すが、その流浪の有様を証拠だてる話、あるいは文献類をまった
くしりません。

おそらく北欧でヴァリヤーグ(ヴァイキング)達の傭兵隊長にで
もなって、ロシアの内乱(ヤロスラフ)に参加し、その流れでハ
ンガリーにも来たのだと思いますが、何故ハンガリーだったのか
はよくわかりません。

その後エドワード皇子が神聖ローマ皇帝の親族の娘アガサ(これ
も正確なところがわかりません)と結婚。この皇帝がかのハイン
リッヒ4世でした。そしてイシュトヴァーンの後継者であるペータ
ル皇子を推したのもこの皇帝であり、エドワードとエドモンドも
彼を守って戦ったそうです。
しかし時に利あらず、ペータルは敗れ、エドモンドも死亡(戦死?)。
エドワードは家族とわずかな部下とともに英国へ渡り、そこで死亡
します。

残された家族は母親アガサと女子を筆頭とする兄弟姉妹。そして
末の弟がエドガー・アセリングでした。

彼(エドガー)とノルマンコクエストの話は、憶良さんのほうが
よくご存知だと思います。

が、その後エドガー・アセリングがどういう経緯でスコットラン
ドに行き、イングランドと戦ったり、十字軍に参加したりした詳細
な経緯を知りません。
そもそも征服王はエドガーを完全に許したのでしょうか?もし許さ
れたのなら何故ロンドンを脱出して大陸(帝国?ハンガリー?)
目指したのでしょう?
またエドワードともに英国に渡ったマジャール達はどんな生き方を
したのか、大変興味があります。

残念ながら語学はまったく力不足なのですか、もしご存知でしたら
エドワードとエドモンドの兄弟、そしてエドガー・アセリングにつ
いてお教え頂けると幸いです。

                          大鴉


RESPONSE

2003/11/25

大鴉様

ハンガリー王国とイングランドに関するメール、興味深く拝見しま
した。ありがとうございました。

10世紀から11世紀にかけてのハンガリーとイングランドの結びつき
には驚かされます。しかしこれは私たち日本民族が、鎖国政策など
であまりにも長期間国際的な交流が少なかったせいかもしれません。
ヴァイキングの活動範囲を地図で見ますと広大です。ということは
豊富な国際情報を持っていたことを意味します。
私がノルマン・コンクェストの冒頭を、ゲルマン民族の大移動や
ヴァイキングの活動からはじめたのは、そのような感覚が日本人に
必要だと思ったからです。

今回のご質問にも、ヴァイキングの活動が背景にあります。
ではご質問に回答いたします。

1 エドマンド剛勇王の王子エドワードとエドマンドの流浪

2王子の亡命については英国での多くの歴史書に記載されています。
アルフレッド大王の血統のエセルレッド二世王の嫡子エドモンド豪
胆王(Edmund Ironside 小生はエドマンド剛勇王と訳)は、デーン人
の族長Sigeferthの未亡人と結婚し、イングランドその領地を領有し
ました。好敵手カヌートとは数度戦いカヌートはイングランド北部を、
エドマンド剛勇王はロンドンを含む南部を治める講和条約を結びまし
た。ところが剛勇王の重臣エエドリック・ステレオナに謀殺され、イ
ングランド全土はカヌート王の領有になりました。
カヌート王は剛勇王の二人の王子エドワードとエドマンドを、国外
追放しました。カヌート王はノルウェーで殺害しようとしたようで
すが、二人は最初スウェーデンに、その後ハンガリーに亡命しま
した。(手持ちの英国歴史辞典による)
ロシアの流浪についての記述ままだ見た資料はありません。


2 亡命先が何故ハンガリーだったのか。

亡父エドマンド剛勇王は若かったので、亡命当時はまだ少年のはずです。
傭兵隊長などは務まらなかったと思います。
私もなぜハンガリーか、知りません。ただ当時ヴァイキングは交易
民族でもありバルチック海周辺諸国にも勢力があったので、欧州各国
の王室とは政治経済や情報面で関係が深かったと推定しています。
当時から貴顕の血統は、欧州王室で大事にされていたと推定されます。
亡命先として受け入れてくれればどこでもよかったのでしょう。
アングロサクソンの名王アルフレッド大王の正統王室というだけで、
北海の雄カヌート大王に反感を持つ国は受け入れたのではないでしょ
うか。


3 エドワード王子の結婚やエドワード王子家族の帰英について。

エドワード王子は、ハンガリー王ステファン(イシュトヴァーン?)
の庇護を受け、王の姪になるアガサと結婚し、マーガレット姫、クリ
スティーヌ姫およびエドガー・エセリング王子がうまれました。
エドワード王子がイングランドに帰国したのは、亡父剛勇王の異母弟
になるエドワード懺悔王に実子が生まれなかったので、その後継者と
して帰国するよう呼ばれたのですが、帰国まもなく謀殺されました。
エドマンド王子の生涯については、私は知りません。


4 エドガー・アセリングのスコットランド亡命について

スコットランドに行ったのは、征服王の虜囚の地位では危ないと考え、
母の祖国ハンガリーへの亡命を企てたからです。そのとき嵐でスコッ
トランドに漂着しました。マーガレット姫が当時のスコットランド王
マルコム三世の二度目の王妃になるよう強要され、一族はスコットラ
ンド王室の庇護を受けました。
エドガー王子はイングランドのウィリアム征服王と戦いましたが、そ
の後許されました。
エドワード王子に従い、さらにエドガー・ザ・エセリング王子に従っ
たマジャールたちは、マーガレット姫やエドガー王子と運命をともに
したと思います。そうでなければ大脱走はできなかったと推定して、
続編を書いてアップしていますのでHPの「われ、国を建つ」をお読み
ください。


                       ロンドン憶良




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