晴耕庵の談話室

NO.47


QUESTION

2000/6/28

標題:英国修学旅行の宿題について(2)


ロンドン憶良様


この間から英国修学旅行の宿題でメールを送らせていただい
ている中学2年生です。私なりに調べてみました。

イギリスに4つの銀行があるのは、すぐにわかったのですが、
問にある「なぜ」に対する答えが、なかなかわかりませんでした。

調べていくうちに「バンク・オブ・イングランド(中央銀行)」が
1695年にできて、翌年1696年に「バンク・オブ・スコットラン
ド」ができていることがわかりました。

私はスコットランド人は長年にわたる抗争のはての屈辱から、
イングランドの発行紙幣を使わない手段を考えたと思います。

ロンドン憶良さんは、どう思いますか?

                          Y.M.



ANSWER AND EXPLANATION

2000/7/7


Y.M.君


「長年にわたる抗争のはての屈辱からイングランドの発行紙幣
を使わない手段を考えた」というのはいささか穿(うが)ち過ぎと
思います。
私の推論では、スコットランド商人の知恵の反映と時代の要請
と考えます。

色々な要因が絡み合っていますので、この機会に、17世紀初
頭から、イングランド銀行やスコットランド銀行の創立された17
世紀末までの歴史の背景と、当時の政治経済の動きを概観し
ましょう。
その中に答えが見えるでしょう。


激変の17世紀の政治と銀行の創設について

1 国内政治とスコットランド関係の激変

1600年代はイングランドの国内政治とスコットランドとの関係
に、再三劇的変化が生じました。政治経済の激動期です。

(1)対立抗争から同君連合へ

たしかにイングランドとスコットランドは長年抗争をしてきた歴史
があり、スコットランドにはイングランドに対する潜在的な敵対
意識があります。

1296年エドワード一世はスコットランドを制圧しましたが、バンノ
ックバーンの戦いで勝利したロバート・ブルースは1306年スコ
ットランド王となり、その後も紆余曲折はありますが、イングラン
ド王国とスコットランド王国は二つの王国でした。
(この間宗教改革があり、カトリックのスコットランドに対し、イン
グランドは国教会を設立してプロテスタントの国になっています)

このイングランド(プロテスタント)とスコットランド(カトリック)の
対立は、エリザベス女王対メアリー・スコットランド女王の対立
関係にも見られます。エリザベス女王はスコットランド王室内部
の対立でイングランドに亡命してきた血縁のあるクイーン・メア
リーを庇護しきれず処刑しました。
ガイ・フォークスの火薬陰謀事件とその背景
を参照ください)

しかし未婚のエリザベス女王には後継者がなく、1603年女王
の遺志により、クイーン・メアリー・スチュアートの息子であるス
コットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王に迎えられ、ジェ
イムズ1世となりました。運命の皮肉といえましょう。
(つまりスコットランドではジェイムズ6世、イングランドではジェイ
ムズ1世を名乗り、イングランドはスチュアート王朝となりました。)

同じ人物を国王に戴いた「同君連合」ですが、当時の国家はそ
れぞれ別でした。
(両国が『連合王国』の関係になるのは更に百年後の1707年
です)

余談ですが、ブリテンの史上はじめて二つの王国の王を兼務し
たジェイムズ1世は、両国の紋章を統合し、今もその伝統は残
っています。

「同君連合」ですから両国間が戦をするような事態ではなくなり
ました。さりとて両国国民間が急に蜜月になったわけではあり
ません。
ジェイムズ1世は、2種類の紋章を用意し、スコットランドに帰国
した時は、スコットランド優位の紋章を、イングランドではイング
ランド優位の紋章を使用しています。

(2)清教徒(非国教徒)革命と共和政治

ジェイムズ1世がカトリックやプロテスタントの一部を弾圧し、カ
トリック教徒による「ガイフォークス火薬爆破未遂事件」が勃発。

また次王チャールズ1世は議会を無視し、スコットランドにも国
教会制度を強制したので、スコットランド人が武装蜂起。王は
戦費調達の議会を開催したが紛糾、議会を武力で弾圧、ロンド
ン市民は1642年武器を取り蜂起、いわゆる清教徒革命が起
こりました。

オリバー・クロムエル率いる市民軍は、王軍と抗争し、1649
年王を処刑、共和制を樹立しました。
しかし急激な土地改革と商業資本の改革や清廉を要求し過ぎ
る政治に国民が反撥し、民心は離れ、内部分裂し、共和制は
11年で終わり、1660年に王制復古。

(3)王制復古

亡命先フランスから帰国し、1661年王位についたチャール
ズ2世は放蕩三昧(愛妾13人)。
1665年にはペスト、1666年にはロンドン大火が起こり、ロ
ンドンは燃え尽きましたが、レンガと石以外の建材が禁止され
たので耐火の町に一新されました。
日夜遊び呆ける王は議会も無視。王がカトリックの復活とフラ
ンスの利を図る密約を結んでいたことから、議会と国民は王
に不信。国会議員と官吏からカトリック教徒を排除、清教徒を
弾圧しました。
この頃トーリー(王党派)とウィッグ(議会派)ができ、二大政党
となりました。

(4)名誉革命

1685年チャールズ2世没後、弟のジェイムズ2世が即位。
ジェイムズ2世はカトリック信者を過激なまでに保護しました。
この為1688年トーリーとウィッグは共同して廃位を決め、議
会は王の長女メアリとその夫(王には甥)オランダ総督オレン
ジ公ウィリアムの夫妻を、王妃と王の共同統治者として迎え
ました。

カトリック教徒の王ジェイムズ2世はテームズを下り、フランス
に亡命。
無血で政変が行われたので国民は名誉革命と呼びました。
1689年、ウィリアム3世となった王は、国民の自由と議会の
権利を確認、英国議会の基礎が確立されました。

しかし、この時スコットランド国民は、外国人(オランダ)のウィ
リアム3世をすんなりと自国の王に認めたわけではありません。
スコットランド国内は、部族と宗教の派閥争いでどろどろして
おり、3ヶ月後承認されています。同君連合とはいえ、スコッ
トランドとイングランドは別国の意識です。

なおフランスに亡命したジェイムズ2世は、フランス王ルイ14
世の支援で1689年アイルランドに上陸し、ウィリアム3世に
反撃を企てましたが1690.1691年の二度の戦いで敗れ、
1701年フランスで没しています。

(5)対仏戦争

17世紀は植民地と世界貿易をめぐって、英仏が競った時代
でもあります。フランス王ルイ14世の欧州制覇はオランダに
向けられ、オランダの最高行政長官も兼務していたウィリア
ム3世は、オランダとイングランドの国益を守る為に対仏戦争
をしなければなりませんでした。
それはカトリックとプロテスタントの熾烈な争いとも言えます。
ウィリアム3世は1690年から1697年までフランス王ルイ
14世と戦いつづけました。
この戦争の戦費調達をどうするかがウィリアム3世の課題で
した。

(6)グレート・ブリテン王国

1702年ウィリアム3世の逝去により、メアリ女王(1694年
没)の妹アンが女王となりました。
1704年、スペイン王位継承と欧州制覇を狙うフランスと、こ
れに反対するイングランド・オランダ・ドイツの同盟軍はドナウ
河畔の村ブリントハイム(Blindheim)で対戦、この時同盟軍
指揮官ジョン・チャーチルは(チャーチル首相の祖先)はフラ
ンス軍を完膚なきまでに撃破。
(この勲功でチャーチル公爵は成田空港の6倍に相当する敷
地のブレナム宮殿を与えられました。)

スコットランドは対イングランドの歴史から、フランスとは友好
的な関係にあり、「同君連合」でも、常にイングランドとは別国
の姿勢を続けてきましたが、友好国フランスの大敗戦を機に、
貿易や産業などの経済面で遅れていたので、イングランドと
の合同が実利があるとの判断から、1707年連合法(The Act
of Union)を決議し、グエート・ブリテン王国が成立しました。

とはいえ、現在も別国意識が色濃くのこっています。

2 17世紀の経済的背景

(1)島国から世界貿易国へ

16世紀後半すなわちエリザベス女王の頃のイングランドは
商工業が発展し、大変活気がありました。
1566年にはロンドン取引所が開設されています。
1588年にはスペインの無敵艦隊を破り、イングランドは世界
の海上貿易に乗り出し、産業界は一層の発展をしました。
シェークスピアをはじめルネッサンス文化が開花しました。
1600年には東インド会社が設立され、東洋貿易と海外投資
は17世紀のイングランドに経済的な繁栄をもたらしました。

(2)「同君連合」で社会・経済の発展やや遅れる

一方スコットランドは、「同君連合」はしたものの、歴代の王は
ロンドン住まいが多く、その為国内は部族間や宗派間の争い
が絶えず、産業経済の面では、イングランドと格差がありまし
た。

(3)進んでいた中世欧州都市の金融

17世紀の欧州ではイタリー・オランダ・ドイツのハンザ同盟都
市の方が先進地でした。これらの都市の商人は決済の為に
金貨を持ち運ぶ不便を解消する為、預金の付け替えを指図
する指図書を発行し、これが信用券として流通していました。

こうした背景から、オランダでは1609年に設立されたアムス
テルダム銀行のフロリン券や、1619年設立のハンブルグ銀
行のマルク券などが欧州商人の注目を集めていました。
また1656年にはスェーデン銀行が設立されました。

これらはまだ中央銀行といえる性格のものではなく、個人金
融業より公的な銀行でしたが、それらの発券業務はイングラ
ンドやスコットランドの商人の注意を引いており、それぞれ自
国で必要性を感じ、研究されていました。

(4)イングランドの金融

イングランドでは、産業や商業に必要な資本は、大手の金匠
(Gold-smith)を中心に金融がなされていました。
少し余裕の出来た商人たちが、信用ある金匠の頑丈な金庫
に金貨などを預け、金匠は預かり証書を発行。
このGoldsmith’s Noteが信用証券として譲渡され流通す
るようになりました。
Goldsmithは外貨を両替したり、この金貨を他に貸し付け高
利をえたのです。

王室が家臣に年金を与える証書も持ち込まれ、割り引かれる
ようになりました。17世紀中頃には金匠銀行家というような
金融業者になりました。
王制復古の頃には預金の受け入れや貸し付け業務や外国通
貨の両替、当座小切手の支払いなど銀行業務の形が出来て
います。
1670年には約30のGoldsmithつまり個人銀行的金融機関が
イングランドにありました。

(5)対仏戦費の調達とイングランド銀行設立

対仏戦争の戦費の調達のため1694年のイングランド政府は
ウィッグ党関係者から申請されていたイングランド銀行設立の
企画を承認し、特許状を与えました。

興味あることに、この設立企画者はスコットランド人のウィリア
ム・パタスン(William Paterson)でした。
彼は今で言えば夢多き起業家でしょうか。ロンドン・シティの仕
立て商人(Merchant Tailor)の店舗を買収し、シティの顔役に
なっていましたが、好意を持つ者は、昔宣教師だったといい、
反感を持つ者は西インド諸島の事情など海外事情に詳しいの
で、海賊上がりだとの噂もあったようです。
(「同君連合」のプラス面でしょうか、この頃にはシティに多くの
スコットランド商人が出店していました。)

パタスンの案は出資者多数を募り、資本金120万ポンドを集め、
政府の発行する公債を引き受け、これを担保に120万ポンドの
銀行券を発行し、政府に120万ポンドを渡すという仕組みでした。
(政府は税金から毎年8%の利息と管理費4000ポンドを支払う)

トーリー党関係者からは土地を担保にしたイングランド・ナショ
ナル土地銀行案が出されましたが、こちらは却下されました。

この当時には銀行の銀行という中央発券銀行の思想はまだ
ありません。
イングランド銀行が英国の中央銀行となるのは、ずっと後の
1844年のことです。(この時地方の銀行の発券量が制限され
、新規の発券銀行は認めないこととなりました)

(6)スコットランド銀行

先に説明したように、スコットランドはフランスと友好的であり、
欧州事情も研究されてはいましたが、部族間抗争や宗教宗
派の争いから自国の経済面ではやや遅れていました。

しかし、商人はオランダやフランスやイタリーなどの先進地のよ
うに、商業や産業のためにまとまった資本を必要として、自国
内でも発券銀行が必要という意識を持っていました。

オランダ・イングランド・スコットランドの三国が1人の君主ウィ
リアム3世に支配され、かつフランスと戦争をするということは、
軍需ブームを起こしました。
この頃、いわゆる起業家が続出し、空前の株式上場ラッシュで
した。
(しかし、つぶれるのも多くバブルでした。当時シティの取引所
に上場した1/3がスコットランド系、2/3がイングランド系であっ
たというところからもスコットランド商人の意欲がわかります)

この起業家の中に、ジョン・ホランド(Jhon Holland)というスコッ
トランド商人がいました。ホランドはコルチェスターの起毛布地
などで産をなしていました。

彼は同じスコットランド商人ウィリアム・パタスンがイングランド
銀行設立と発券業務を企画したように、戦費調達ではなくスコ
ットランドの商業産業資金調達の為にスコットランド銀行を設立
し、スコットランド国内の金融円滑化をはかりました。

したがって、イングランド銀行は戦費調達、スコットランド銀行は
商業産業活性化のため設立され、発券業務を行ったと理解した
方がよいと思います。

以上が私の調査と推論です。

なおイングランドとスコットランドは必ず対立してきたというような
単一的な見方はしない方がよいと思います。


                          ロンドン憶良



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