晴耕庵の談話室

NO.37


QUESTION

2000/5/8
標題: ノルマン民族の影響について(1)


ロンドン憶良様

こんにちは。
初めてこのサイトにお邪魔しました。
絵が大変かわいらしく、興味を持って読むことができました。
いままで、エリザベス一世の時代と、ビクトリア女王の時代し
か知らなかったのでとても新鮮です。

さて、ここで質問なのですが、このノルマン民族がイギリスを
支配したことによって、イギリスに与えた影響とはどのようなも
のだったのでしょうか。
政治的にも、文化、文学的にも少なからず影響を与えたと思
うのですが、それは、どのようなものだったのでしょうか。

もしお時間がありましたら、ご教授ください。

EMMA


ANSWER

2000/5/9
EMMAさん

メール拝見しました。

私は歴史の好きなサンデー・ライターでしたが、今は隠棲して
晴耕雨読ならぬ雨パソの日々です。
若い方々との質疑応答や談話をインター・ネットで楽しんでい
ます。「晴耕庵の談話室」もご覧になってください。

ところで大変すばらしいご質問ありがとうございます。
私がノルマン・コンクェストに興味を持っているのはまさに、あ
なたのご質問の内容にあります。

そしてノルマン・コンクェストの影響が現代にも及んでいるのに
驚きます。このノルマン・コンクェストが、たんに一時的な侵略
戦争でなかったことを、思いつくまま個別に列記してみましょう。
(それらは実は目下準備中の、後編のテーマになるのですが)

1 ノルマンディ公ウィリアムが現王室の始祖

まず、英国(UK)のなかでもイングランドの王朝をご覧ください。
現在の王室の家系図は、ノルマンディ公ウィリアム征服王を始
祖にしています。
もともとは北欧ノルマン・ヴァイキングの子孫ノルマン人が、アン
グロサクソンであるイングランドを征服したのに、いつのまにか
同化し、始祖になっているのです。
征服されたはずのアングロサクソンが、征服者のノルマンを、
(それもノルマンディ公の庶子を)始祖にしているのは、実力主
義で面白いと思います。
(英王室は統治者はあくまで人間であり、日本の皇室は統治者
を神と一体化させた差異があると考えます。宗教問題は後述)

それまでイングランドにはアングロサクソン7王国の時代があり、
アルフレッド大王によって統一されたとはいえ、地方豪族の勢力
が強く、統一されたとは言え、国家としての基盤は弱いものでし
た。
しかし、ウィリアム征服王は、イングランドを徹底的に制圧して、
「反抗する者は徹底的に弾圧し、臣従する者は許す」政策をとり
統一国家を樹立しました。

余談ですが、チャールズ皇太子とダイアナ妃の間に生まれた
長男にウィリアムと命名したのは、凋落しつつある英王室の潜在
的な繁栄願望もあるような気がしました。

2 中世欧州の荘園制度の導入

ノルマンディ公ウィリアムはフランスではノルマンデイを支配する
大貴族でした。しかし、彼のもとに参集した騎士たちは、必ずしも
家臣ばかりではありませんでした。

イングランドを制圧した後、彼はこれらの貴族や騎士たちにイン
グランドの土地を荘園として分け与え、その対価として王へ忠誠
と納税を求めました。
つまり国土を王の直轄領としたのではなく、ノルマン貴族たちに
分け与えたのです。
その広大な荘園や館や邸宅は今なを残っています。
(もし英国を車で旅されると、各地で広大な荘園領主の存在に気
がつかれるでしょう。)
たとえば第二次世界大戦で英国の指揮官だったモンゴメリー将軍
の家系は、ノルマン・コンクェストの際、ウィリアムの重臣でした。
モンゴメリーという地名の町も現存します。
英国の貴族政治が最近まで存続したのは、この荘園制度による
王家と貴族の「持ちつ持たれつ」の関係によるものといえましょう。

3 ノルマン風の強固な城砦建築の普及

英国では、ウェールズにもノルマン風の堅固な城が残っています。
それまでのアングロサクソンの城砦は、木造建築が主で規模も
さほど大きくはありませんでした。
少数のノルマン軍団が広大な土地を支配するためには、まず身を
守る堅固な城砦が必要でした。
ノルマンディ風の優れた石造建築が城砦や館の建築、さらには
教会建築へと広がりました。
これらの遺構は、ウィンザー城にも、ロンドン塔にも、カナーボン城
にも今なお至るところに多数残っています。

イングランドやウェールズなどの建築は、ノルマンの征服後大きく
変化したといえましょう。

4 騎馬軍団の活躍と馬文化への影響

ノルマンの征服が、短期間でなされたのは、数千騎の訓練された
騎馬軍団によるというのが私の意見です。
この騎馬軍団が、アングロサクソンの伝統的な歩兵、それも農民
兵軍団を、完膚なきまでに圧倒しました。
英国ではどこでも乗馬が盛んです。近衛騎兵(ホースガード)も騎馬
警官も日本の比ではありません。
またその馬をご覧ください。実に色を揃えて馬も立派です。
馬が身近な存在となったのは、ノルマンの征服以降です。
それまでは、僅かな貴族や騎士が乗っているだけでした。
馬というスピードのある機動力が導入され、情報の伝達や治世に
大いに活用されたと思います。

馬は乗馬や競馬、さらに狩猟や絵画・彫刻のモデルとして、一種の
余暇文化を構築しているのではないでしょうか。
ノルマンの征服の際には、ウィリアム公はノルマンディ領内だけで
なく、広く近隣各国から名馬を集めました。
その見識はすばらしいものです。

ハイドパークをはじめ、公園には乗馬のために、舗装されていない
土の道があります。
道路交通法ともいえるハイウェイ・コード(HPごらんください)にも、
車を運転する者が道路で馬と遭った時の心得が書かれています。
英国では乗馬は、それほど身近なものなのです。
これももとを糾せばノルマン・コンクェストの影響といえましょう。

5 語彙の豊富な英語の成立

これは司馬遼太郎先生からのお葉書に書かれ
ていますように、フランス語から70パーセントも借りてきて語彙の豊富
なアングロ・ノルマン語を成立させ、現代の英語になりました。

英語はイングランドの言語からUKの言語となり、更に英連邦50数
ヶ国の使用語となりました。
そして現在ではインターネットの普及により、世界共用語に発展して
います。
この語彙の豊富なアングロ・ノルマン語の成立も、ノルマンの征服の
副産物と司馬さんは指摘してくださいました。

今回はこの辺で。後は次回にしましょう。

                    ロンドン憶良

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