パリの空の下チョコレートが流れ
(前頁より)



その日の夕刻、いくつかのアポイントを消化した憶良氏が笹口君の
事務所に現れた。
「ああ疲れた。笹口君、今日はしんどかったよ」
「どうしたんですか? 憶良さん」
「これを見てくれ、まだ湿っているだろ、コートと背広が。パリは妙な街
だなあ。
窓からココアの飲みかけを捨てる奴がいる一方で、ティッシュ・ペーパ
ーをサッと出してくれる親切な若者もいる」
憶良氏は朝の椿事を笹口君に話した。

「そ、そりゃピック・ポケットですよ、今パリで大流行のチョコレート掏摸
ですよ。憶良さん、いくらなんでもココアがパリの空から降ってくるもん
ですか。本当に、何も盗られていませんか?」
「ヘエッ!」



「最近、同じ手口で、日本人がやられているんです」
「成程、顔にもかからず、襟の間からバッチリ背広に流れ込むわけが
ないな」
「しかし、よくまあ返してくれましたねぇ。何となく不思議ですねぇ」

「此処の扉が閉まっていたんで、慌てて引き返したからかな。それにし
ても、9時近いというのに、君の事務所は扉を開けていないのか?」
「いや、いつもは8時半には開けていますよ。ところが今朝は、たまた
ま受付孃が急病で、9時過ぎに開けたんですがね。でも、これが憶良
さんには、かえってよかったのですね。ついていますね」
ノンキ節の憶良氏の口から、ホッと安堵の息が漏れた。

「うちの洗面所で洗っていれば、今頃は泣きの涙ですね、憶良さん。
パリの掏摸に無傷で返してもらったのは、憶良さんぐらいじゃないです
かね。おまけにチップをやると言われて、先方も動転したんじゃないで
すか。ハッハッハ。泥棒に追い銭とは、さすがにお人柄ですよ」

「笹口君、そう冷やかすなよ、今晩はシャンゼリーゼでパッとやろう」
「結構ですね。ル・フーケで旨い子牛などいかがですか」
「よかろう。今夜はカモ以外ならいいよ」

笹口君が、流暢なフランス語でテーブルを予約している間、憶良氏は
静かに目を閉じ、「掌典般若心経」の入っている内ポケットを押さえて、
感謝の祈りを捧げた。


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