ノルマンディー歴史紀行

モン・サン・ミッシェル大修道院(1)




大修道院縁起・・・「オベール司教よ、堂を建てよ」・・・

 5時間ほど走り、アヴランシュの町に来ると、遥か沖にお馴染みの大
聖堂の島が見える。



  渺茫と春の潮干く白砂に 大修道院屹然聳ゆ    憶良


 8世紀初頭、このアヴランシュの町に住んでいたのが、ややずぼらな
オベールという司教であった。

 ある夜オベール司教は夢を見た。大天使ミカエルが現れ、「沖の小
島にわれを祭る聖堂を建てよ」とのお告げであった。
しかし、満ちれば海中に、干いても渡りがたいあの砂原に立つ岩山に、
どうして聖堂などが建てられようか。オベール司教は夢のことと無視し
た。

 再び同じ夢を見たが、また無視した。

 3度目に見た時、大天使ミカエルは「汝は信じないのか、されば」と、
オベール司教の頭に指を置いた。その瞬間、稲妻が通り抜けた夢を
みた。



 翌朝、オベール司教は「不思議なこともあるものよ」と、自分の頭に
手を置くと、愕然とした。脳天に穴が空いているではないか。
 オベール司教は、早速、建築工事に着手したというのである。

 想像を絶する難事業であったろうことは、現地を訪れると実感する。
バスでさえ岸辺の村から相当の道のりである。昔は島への道は、干
潮時に砂浜、それも足を取られない場所を歩くしかなかった。
 「ノルマンディー歴史紀行」の著者によれば、170年前でも、場所に
よっては、流砂に足を取られ、ずるずると身体が沈み込む場所もあっ
たという。
 その島へ建築資材を運び、建築人夫の食料を運んだのである。

 オベール司教は脳に穴の空いたまま、さらに十数年生きたという。
(世界遺産の報道では、アヴァランシュのサン・ヴェルジェ教会に保存
されているオベール司教のものと伝えられる頭蓋骨の穴の周囲は盛
り上がっていた)

 因みに、天の創造物にも格付けがあるようだ。大天使ミカエル(サン・
ミッシェル)は、聖母マリアと生まれたばかりのイエスが、サタンの竜
(7の頭、10の角、尾は星を落とす)に襲われた時、戦い、聖母子を守
ったという。戦を象徴する大天使である。同時に、雷光とか厳しい自
然環境も具現するようである。

オベール司教の奇跡以前の島

 モン・サン・ミッシェルについては、オベール司教の奇跡から語られ
ていることが多い。しかし、司教が大天使ミカエルに奉献する聖堂を
建立する前はどうであったのか。

 前述の「ノルマンディー歴史紀行」やその他のガイドブックに、憶良
氏の推論をいれてまとめてみよう。

 この一帯は上古は「シシーの森」という樹林地帯だったが、次第に
海岸に侵食され、堅い岩盤の二つの山が小島として残った。

 飲料水も十分でない、自然環境に厳しいこの海中の岩山はゲルマ
ン民族の移動前のケルトの民にとって、自然崇拝の聖地であったろう
ことは、容易に推測される。
 ケルトは、大地、雷光、海など自然崇拝の民である。干満差十数メ
ートルという厳しい条件のこの島は、格好の聖地であったろう。

 モン(山)と呼ばれるこの島は、昔は、モン・ベレヌスと呼ばれ、また
近くの小島トンブレンヌはトゥンバ・ベレヌスと呼ばれていたという。
 ベレヌフとは、大自然の多神教であるドルイド教を信仰していたケル
トの民ドルイド族では、「太陽」を意味する。 トゥンバは「墓場」である。
(兄弟のようなこの二つの島は、「生と死」「陽と陰」のような関係では
なかったろうかと、憶良氏は推測する。)

 古代ローマ帝国の時代には、モン・ジュンつまり「ジュピターの丘」で
あり、ジュピターの神殿があったという。(ジュピターはローマ神話では
天空の神である。)

 古代ローマ帝国はキリスト教を弾圧していたが、313年コンスタンチ
ヌス帝の勅令により信教の自由が認められ、キリスト教は公認された。

 キリスト教は、ローマの神々やケルトの多神教を追い払ったが、敬虔
なキリストの隠者たちは、都市よりも僻地を求め修行した。
 モン島にはアイルランドから渡来した敬虔なキリスト教の僧が隠棲し、
農夫や漁民がロバ食物積み届けていたいたが、このロバを狼が食っ
たので、神は狼にロバの役目をさせたという伝承がある。

 こうして、何人かのキリスト教の修道僧が、先住民の時代から信仰
厚い小さな島に住みついていた。

 だからこそ、ケルトの「太陽」信仰から、古代ローマ帝国時代の「天空
神」信仰があればこそ、大天使ミカエルの雷光は、、さらにキリスト信
仰への聖地化には格好の奇跡神話であったろうというのが、憶良氏
の推論である。



 島へのアプローチ―――便利さで失うもの―――

 かっては干潮時に命がけで渡っていたであろうモン島も、今では自
動車道路で、島まで簡単に行ける。そのためこの島が海岸、それも人
里からかなり離れている距離感が実感しにくい。

 なぜ渡島が命がけであるかというと、この辺りの干満差にある。
最大15メートルほどあるという。しかも砂浜は平坦であり、まさに渺茫
としている。一旦満潮(干潮)になりはじめると、その上潮(引き潮)の
速さは馬の走る速さと同じぐらい早いから、大人でも足をすくわれる。
 さらに砂は流砂であり、底無しの沼のような場所もあるという。ずぶ
ずぶと沈むらしい。

 干満差の大きさは、干潮時には自動車の駐車場になっている道路
脇も、すべて水中に没することでもわかろう。
 世界遺産の映像は、この潮の押し寄せる状況を、リアルに知らせて
くれるので、一見をすすめたい。

 しかしこの便利な自動車道路のために、本来の潮の流れが変わり、
上流側の砂浜の汚染が進んでいるので、橋にする計画があるらしい。

 時間に余裕があれば、信仰の場としての島へのアプローチは、やは
り名峰に登るように、一歩一歩近づくのがよいであろう。
世界遺産の報道は、干潮時腰にまで浸かりながら、対岸から渡る信
徒の一団を紹介している。

 欧米の人々は、陸地の村のホテルに宿泊するようで、いくつかある
ホテルは、夏場は満室になるとガイドは説明していた。
 干満潮時の凄さや、早朝、あるいは日没などの風景は、日帰りバス
ツアーでは望むべくもないが、日程上やむをえない。

 バスを降り、まずは腹ごしらえをした。
 飲み物は名物のリンゴ酒シードル(英名サイダー)、日本のサイダー
は誰かがどこかで間違ってつけたジャパニーズ・イングリッシュである。
 前菜に名産アムール貝がちょこんと乗ったパイがでた。




モン・サン・ミッシェル大修道院(2)

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