ロンドン憶良の世界管見


中津留大尉の遺徳を偲ぶ


――日本の名誉を守った救国の青年将校――




 今年(2005年)は太平洋戦争終結六十年目の節目である。
世間では「終戦」というが、首都東京は焦土と化し、広島・長崎に
原爆を投下され、無条件降伏した現実は、文字通り「敗戦」だった。
想い起せば、日本海軍がハワイ真珠湾を奇襲攻撃した昭和16年
12月8日、私は六歳、国民学校一年生であった。昭和19・20年
になると、豊後水道に米軍機の飛来は激しくなった。日本の戦闘機
に追撃され、黒煙を曳いて落ちるB29の巨大さに驚いた。松脂の採
取に上った宮山の松林に隠れて、グラマンに攻撃され、眼下の湾
に炎上墜落した複葉練習機(通称赤トンボ)を涙して見た。これらの
記憶は70歳の今なお鮮明である。五年生、十歳の夏、戦いは終わ
った。

 戦後私たちは、戦争の悲惨さを忘れようとし、過去のきちんとした
総括よりも、現実をどう生き抜くかに腐心した。未来への構築に力を
注いだ。復興は達成され、衣食住は戦前の水準を超え、経済大国
となった。他方、謙虚さや礼節、弱者や他者への親切心や寛容さなど
の美徳を失ったように感じる時がある。企業も個人も、公益より私益
を優先する風潮になった。

 折りしも数年前K氏から、城山三郎著『指揮官たちの特攻』(新潮社)
の出版と、NHKスペシャル『戦争を知らぬ君たちへ――特攻――』
の放映の情報を頂いた。

「ご母堂が臼杵出身の元教師で、津久見に育ち、臼杵中学(38回)
から海軍兵学校に進み、最後の特攻隊長として日本の名誉を守った
中津留達雄大尉が主題です。城山先生は中津留先輩の人格と判断
を、極めて高く評価されています。先生畢生(ひっせい)の名作であり、
必読必見です。私たちが誇りとし、尊敬すべき先輩です」
という趣旨であった。

 私は脳天を撲られた気がした。それまで郷里の人中津留大尉の話
を知らなかったからである。多くの方が、すでに同書を読まれ、テレビ
をご覧になったと思われるが、この紙面を借りて、城山先生が描かれ
た中津留大尉の偉業の一端を紹介したい。

「そして、八月十五日。正午には天皇の放送がある旨ラジオは朝から
予告をくり返していた。日本がポツダム宣言を正式に受諾し、戦争が
終わったことは、海軍大分基地に『陣地変更』していた宇垣纏長官
(中将)に伝えられていた。しかし、宇垣長官は中津留大尉を呼び、
戦争終結を告げず、特攻出撃を命じた」(同書より)

 運命は非情であった。中津留大尉は温厚な人柄であり、独り息子で
あった。新婚の妻と、生まれたばかりの愛娘がいた。名パイロットとし
て宇佐基地の教官であった。部下に精鋭が揃っていた。常々無駄死
をするなと、部下に死に急ぎを諌めてきた。長官は、その彼を選んだ。

 夕刻、中津留大尉率いる彗星11機は出撃した。指揮官機には、宇垣
長官が親率すると乗り込んでいた。彼は山本五十六連合艦隊司令長官
の元参謀長であった。自死の覚悟であった。

 その夜、沖縄伊平屋島の米軍基地では明々と電灯がつけられ、平和
と勝利を喜ぶパーティの最中であった。
 対空砲火を受けず、明るい基地の様子に、中津留大尉は戦争の終結
を覚った。この特攻が国の命令ではなく、宇垣長官の独断と自己満足
であると知った。大尉は操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁に激突、
自爆した。続く部下機も、また基地を越えて、水田に自爆した。
大尉は享年23歳の若さであった。



 もし、ようやく現地に到達した中津留大尉ら二機が、宇垣長官の命
ずるまま突っ込んでいたらどうなっただろうか。

 城山先生は、「断交の通告なしに真珠湾を攻撃した日本は、今度は
戦争終結後に沖縄の米軍基地へ突入したことになる。騙し打ちにはじ
まり、騙し打ちに終わる日本は、世界中の非難を浴び、日本の占領政
策も変わっていたであろう」と強調される。

「中津留機とその列機がとっさの間に第一から第四の攻撃目標を捨て、
目標でない目標、岩礁や水田という第五というか番外の目標に突っ込ん
だことで、日本は平和への軟着陸ができたといえるのではなかろうか」
と結論されている。

 戦争終結後の出撃であるから、戦史には特攻として記録されていない。
戦死でもない。単なる戦後死として冷たく扱われてきたという。
「宇垣さんが一人で責任をとっていてくれたらなぁ」というつぶやきに、
独り息子に先立たれた両親の無念さが窺われる。乳呑児を抱えていた
若い未亡人の悲嘆とご苦労ははかり知れない。
私事ではあるが、地元で特定郵便局長を務めていた亡父が、ご遺族の
相談相手であったと、後日知った。

 昨年帰郷した際、大尉の遺徳を偲ぶ有志の方々に、宇佐基地の将校
クラブであった中津市の筑紫亭を案内頂いた。奥の間の床柱や鴨居に、
特攻出撃前夜、指揮官に連れられて来た若い乗員たちが、酒を飲み斬
りつけた無数の刀傷が残っている。津久見出身の女将の話では、城山
先生は刀傷をさすりながら涙されたという。

 トップの誤った判断と無責任さが、有能な若者たちの人生を大きく狂
わせる事例は、戦時だけでなく、平和な現在でも散見される。
 心すべきは、「ノーブレス・オブリージュ」(高い地位に立つ者の負う
重い責任)である。

 戦後六十年ということで、戦争体験を風化させたり、水に流したりして
はいけない。
中津留大尉の決断と自己犠牲に光を当てられた城山先生に、深く感謝
したい。
  
   
(同趣旨東京臼杵人会だより2005年2月1日号にも掲載)


皆さんは、戦後60年をどう受け止めていますか。
平和と繁栄の陰に、弱冠23歳の青年指揮官の決断と、部下たちの自己
犠牲があったことを忘れないようにしましょう。(合掌)



ロンドン憶良の世界管見(目次)へ戻る

ホームページへ戻る