「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第20章 征服の鐘音(その2)



その休息の間にも、打つ手は休めなかった。フィッツ・オズバーン卿
指揮下の第2軍団はワイト島に着いた増援軍と合流して、故ハロルド
王の居城ウィンチェスター城を包囲していた。

アングロサクソン王国の古都であり、ウェセックス地方の州都ウィンチ
ェスターの城内には、ハロルド王の姉であり、美人の誉れ高いエディ
ス前王妃が、エドワード懺悔王から相続したイングランド王室の宝物
類を保持していた。
ウィリアム公がイングランド王に即位するためには、王冠、宝剣、宝筍
などの宝具類が必要であった。

「エドガー王子は、サクソンの貴族達から新王に推戴されたらしいが、
まだ戴冠式を挙げていない無冠の王ではないか。
だが、王冠宝具類がエドガー王子に渡っては面白くない。早く宝具
を入手して参れ。
宝具さえおとなしく差出せば、一命は助けてやるとエディス妃に告げ
よ」
と、ウイリアム公はフィッツ・オズバーン卿に指図した。

命惜しさに、エディス前王妃は、ウィリアム公の条件を受容れ、王冠
や宝剣類をオズバーン卿に手渡した。



体調を回復したウィリアム公は、フイッツ・オズバーン卿が持ち帰った
王冠を手にして、すこぶる気嫌がよかった。

「ウワッハッハッハ。オズバーン卿、有難う。これさえあれば、余がイン
グランドの王として、何時でも戴冠できる」
「殿、お目出とうございます」
と、オド大司教やロバート侯がお祝いの言葉を述べた。

「殿は、何時でも戴冠できますが、戴冠には、相応しい時と場所が必
要です」
と、ウォルターが言葉を添えた。

「時と場所か?」
「はい」
「成程」
「これから先の進軍は、あせることはありませぬ。敵を威圧しつつ、一
兵たりとも失わぬように進むことが作戦かと存じます」
ウォルターの言葉は、冷静であった。


ウィリアム公がカン夕べリー滞在中に、モルカール伯エドウィン伯の
両軍は、軍団をまとめてノーザンブリアとマーシャに引き揚げて行っ
たとの情報が届いた。
二人の兄弟にとってロンドンのために一命を賭す気持は毛頭なかっ
た。彼らは再び未亡人となった妹のアルドギーサを連れてロンドンを
離れた。

ウィリアム公の本隊はカン夕べリーを出発し、ウィンチェスターから転
進した第2軍団と再び合流して、一路ロンドンを目指して進んだ。

テムズ河に架かるロンドン橋の南で、尖兵同士の小競り合いがあっ
たが、怒涛のごとく勢に乗っているウィリアム軍団の相手ではなかっ
た。だが、橋の袂まで来ながらも、ウィリアム公はテムズ河を渡らなか
った。

「ハロルド王が戦死された後のアングロ・サクソン軍は、たとえ有力な
諸侯がまだ沢山残っているとはいえ、最高指揮者を欠いた烏合の衆
にすぎませぬ。
しかし、今のロンドンは、兵士も市民も、ノルマン軍団に戦意と敵意を
持っております。それだけに、防備が固いと見受けます。
無理に攻撃をかければ落ちるでしようが、味方も相当の手傷を負うで
ありましよう。また、包囲陣の背後を衝かれる惧れもあります。
周辺を鎮圧していけば、ロンドンは孤立化し、時が来れば熟柿のよう
に自然と落ちましょう」
と、ウォルターが進言したからである。

「わかった。ここはあせらずに、じっくりいこう」
と、ウィリアム公は判断した。
勝に驕らず、冷静に判断できる男であった。凡将の器量では、このよ
うな進言の受容れは難しかろう。

ハロルド王とウィリアム公は、甲乙つけがたい非凡の将であった。た
だウィリアム公には、ハロルド王にはない情報蒐集機関があった。側
臣として仕えるウォルター<が、身分制社会の陰ともいえる階層を支配
していた。
いろいろな職業に這入りこんでいる輩下の者が入手して来る豊富な
情報をもとに、ウィリアム公は、正確迅速に決断ができた。ウォルター
は、何年も前からイングランド各地に輩下を送りこんでいたのである。


ウィリアム公は、諸侯を招集した。

「諸侯、よく聞いてくれ、ロンドンの街は、まさにテムズを隔てて我等の
眼前にある。だが、今は攻め込まない」
「何だって」
「ノルマンディの反乱を鎮圧した時と同じように、ロンドン周辺の豪族
を虱潰しに次々と滅していく方針である」
「よかろう」
と、オド大司教がうなづいた。

まずテムズ河南岸、サウスワーク地方を焼打ちにした。
軍団は西に進み、北ハンプシャーの丘陵から北進し、バークシャー
に入った。

この時機に、サクソンの大豪族達が、農民を集め、連合軍を編成し、
地の利によって反撃をすれば、まだ抵抗の余地はあったかもしれな
い。しかし、モルカール伯、エドウィン伯にその器量はなかった。
ウィリアム公やウォルターが内心惧(おそ)れていたのは、そうした挙
国体制での反撃を受けることであった。が、それは杞憂(きゆう)にす
ぎなかった。

地方領主や郷土達が、何十人か何百人かの家臣や農民を率いて、
田舎の城舘に籠ったところで、ノルマン軍団の前には、蛇に見込ま
れた蛙も同然であった。
僅かに土盛りをし、浅い堀を巡らし、丸太の柵で囲んだ程度のアン
グロサクソン貴族の城館は、頑丈な石造構築の城砦に慣れている
ノルマン騎士の目には、まるで玩具の城に見えた。

鎖帷子に身を固め、よく訓練された駿馬に跨がった6千騎のノルマ
ン槍騎兵団は、無人の野を行く群狼のごとく、いささかでも抵抗する
村があれば老人子女すら次々と殺戮(さつりく)していった。
放火、略奪、凌辱・・・・ノルマン軍団は暴れ回った。限られた兵員
で大国を侵略するのである。相手に恐怖心を植え付けるため、抵抗
する場合には徹底的に叩き潰していった。




そうした村々から、命からがらロンドンに逃げのびた者の口から、ノ
ルマン軍団の無暴さを聞いた市民達は、遠くに立上る火焔を見な
がら怖れおののいた。
「何時ロンドンに攻め込んで来るのか?」
と、不安が不安を呼んで、市内は恐慌状態となった。

しかし、ウィリアム公は、ロンドンを歯牙にもかけずに、更に北へと攻
め上った。
オックスフォードの南東10余マイルのところにウォーリングフォードと
いう小村がある。テムズ河も、この辺となると川幅がぐっと狭まってい
るが、昔から船便、陸便の足場として賑わっている村であった。




この村に滞在しているウィリアム公の許へ、訪れて来た聖職者がい
た。怪僧スティガンド大司教であった。
彼は、ウィリアム公の面前にひれ伏して、一命を乞うた。

「スティガンド大司教、そなたは何故、ロンドンを見棄てたのか?大司
教は、エドガー(ザ・エセリング)王子をイングランド王に推戴したばか
りではないか」

「ウィリアム公、どうかお許し下さい。無力のエドガー王子でどうして国
が治まりましょうか。今、この国を統治できるのは、ウィリアム殿をおい
て、他に誰がおりましょうか。神の栄光をあまねく民に恵み与えますた
めには、私共は、時の流れに乗らねばなりませぬ。私が、ロンドンを
逃れ出たことによって、今、彼の地は蜂の巣をつついたような騒ぎに
なっております」

ウィリアム公は、側に居並ぶ家臣達を見廻し、ニヤリと笑った。ステイ
ガンド大司教の老獪さに対する軽蔑の気持が混っていた。

(カヌート大王に仕えて以来、一体この老人は、何をこの国に為して
きたのか。油断のならぬ老いぼれ牧師よ)
と、ウォルターは冷やかに眺めていた。

「よかろう。しかし余に抗うような姿勢があれば、汝の首はすぐにすっ
とぶぞ」
「ハハッ。承知致しております」

ステイガンド師は、しぶとく生きのびた。二股膏薬の彼は本能的にそ
の相手と時機を見極め、生きのびてきたのである。




ウォーリングフォード村でテムズ河を渡った。テムズ河を越えたという
感慨があった。河を越えて、更に東北へ進んだ。
この辺は、チルターンと呼ばれる丘陵地帯である。小さな山脈といっ
てもよい。
丘陵の連なりに沿って、ローマ時代からの道路(イックニードル・ウェ
イ)が走っていた。

騎馬を連ねて、堂々たる進軍であった。徹底的に、ロンドン周辺の無
力化を図ったのである。

ウィリアム公の北上に怯(おび)えたのは、マーシャの領主エドウィン
伯や、ノーザンブリアのモルカール伯兄弟であった。

彼らは<ウィリアム公何する者ぞ>との田舎大名らしい見方をしていた
が、ヘイスティングズの戦以来、次第にウィリアム公の実力が判って
きたので、理由をつけて領地に引揚げていた。
しかし、ノルマン軍団は、ロンドンを攻めずに、北上して来るではない
か?
人数の上ではノーザンブリア、マーシャ連合軍は大軍団であっても、
ノルマン騎馬軍団の行動力にはとても勝ち目はないと恐怖感が先に
立った。

「兄上、どのように考えておられますか?」
「ウィリアム公の軍団に立ち向かったところで、ハロルド王のように敗
れるだけであろう」
「残っている貴族、大司教達と連絡をとつて態度を決めましよう。この
ままでは攻め亡ぼされます」

彼らは急拠サクソン貴族を呼集し、鳩首(きゅうしゅ)会談を開いた。
結論は、自明であった。


ロンドンの北西約25マイル(約40粁)の地に、バーカムステッドとい
う小さな村がある。この丘陵に布陣したウィリアム公の幕舎に、サク
ソン人の一団が訪れて来た。

 エドガー少年王
 ヨーク大寺院アルドレッド大司教
 ノーザンブリア領主モルカール伯
 マーシャ領主エドウィン伯
 その他ロンドンの有力者達であった。

彼らは、それぞれ身内の者を人質として差し出し、ウィリアム公に全
面降伏と絶対服従を誓った。
サクソン人は、遂にノルマン人に屈服した。1066年の暮も近かった。




ウィリアム公は、12月25日クリスマスの祭日を選んで戴冠式の日と
決めた。場所は、聖ペテロ大聖堂ウェストミンスター寺院である。
丁度一年前、エドワード懺悔王が、ノルマン風建築の粋を凝らして
建立し、使徒聖ペテロに奉献し、かつ永眠しているその大寺院で、
聖ペテロの幟旗を掲げて進攻して来たノルマン人のウィリアム公が、
王冠を戴かんとしていた。

イングランド進攻は、ウィリアム公の亡父ロバート一世の夢であり、
亡母アーレットの夢でもあった。
公は、親子二代に亘(わた)る大目標を達成した喜びを噛みしめて
いたが、しかし、冷静な彼は、この喜びに浸り過ぎることはなかった。

その日、戴冠の儀式は、ヨーク大寺院のアルドレッド大司教が取進
めた。本来であれば総本山カンタベリー大寺院のスティガンド大司
教が戴冠式の責任者である。ところが、彼はローマ教皇から承認さ
れていなかったので、ウィリアム公が勝利を得た今は、公式行事は
謹慎しなければならなかった。

エドワード懺悔王が、イングランドの安全と繁栄を祈願し建立したそ
の寺院で、イングランドを征服したノルマンの王が、新しい王朝の成
立を国民に承認させ、神に加護を求めようとしていた。女性は、怯え
て出席していなかった。男性ばかりの殺風景な式である。

アルドレッド大司教は、参列者に向って尋ねた。

「汝等、ノルマンディ公爵ウィリアム殿を、汝等の王として推戴するや
?」
アングロサクソンの貴族達は、唖のように無言であった。
この質問は従軍していたジオフリー司教によって直ちにフランス語に
通訳された。

「勿論だとも」
「ウィリアム王万歳!万歳!」

と、声高に叫んだのは、ウィリアム公の家臣達だけであった。
豪華な金色のローブを纏い、うやうやしく膝まづいたウィリアム公の
頭に、アルドレッド大司教は、燦然と輝くイングランドの王冠を戴せ、
聖油を滴らせた。



この瞬間、聖ペテロ大聖堂ウェストミンスター寺院の鐘の音が、テム
ズ河の川面に鳴り響いた。
つい今しがたまで、勝ち誇っていたノルマンの騎士達、屈辱をなめ
たサクソンの貴族達、富裕なロンドンの商人や、貧しい百姓達も、そ
れぞれが複雑な感慨をもって、この鐘の音を聴いていた。過ぎし一
年間が、まるで走馬灯のように、脳裡を駈け巡った。

 この壮厳な内陣と、天高く聳(そび)える塔を持つ大聖堂の竣工――
 それも丁度2年前のクリスマスだった――
 敬虔なエドワード王の重病と他界――
 復活祭直後に出現したあの不気味な大彗星――
 王が臨終の際に予言した通り、国中で続いたすさまじい戦乱――
 北から南から外敵が侵入し、さしものゴッドウィン家も崩壊――

これほどの激動の年があったであろうか。長いようで短い一年が、よ
うやく終ろうとしていた。
ソーニー島の鐘音に和するように、ロンドンの教会という教会が一斉
に鐘を撞(つ)いた。戴冠を祝福する鐘の音は国民一人一人に微妙
な翳(かげ)を残して沁(し)みていった。

ウェストミンスター大寺院を取巻いていた大群衆は、それまで水を打
ったように咳(しわぶき)一つせず、しんと静まりかえっていた。しかし
高く低く鳴り響く鐘音に、心が昂(たか)ぶってきた。

突然、一人の男が堪えかねたように沈黙を破った。
「王に栄光あれ!」 ゴッド・セーブ・ザ・キング
つられたように、大群衆が、怒りともつかぬ大声を張り上げた。
「王に栄光あれ!」ゴッド・セーブ・ザ・キング

その大合唱は、大寺院を警固するノルマン兵士達には、異様な咆号
と聞えた。
アングロサクソン語の判らない彼らの耳には、抗議のデモのように響
いたのである。
「静まれ!静まれ!」
と、フランス語で怒鳴ったが、大群衆はますます大きなシュプレヒコー
ルをあげた。

慌てたノルマンの兵士が、群衆を近寄らせないように、大寺院の近く
の民家に放火した。
式場からノルマン貴族や騎士達が、剣の柄に手をかけながら、入口
に殺到した。
アングロサクソンの群衆は、憑(つ)かれたように目を据えて、「王に
栄光あれ!」
と、叫びつづけていた。



「鞣革屋(タンナー)の孫」と陰口を囁かれた庶子のウィリアム公は、
今や「征服王」ザ・コンクエラーとなった。
この時から、イングランド王室の戴冠式は、ウェストミンスター大寺院
で取進められる慣行となった。

王は、弟のオド大司教、モートン伯ロバートと、叔父のウォルターの
三名を別室に呼んだ。

「先代が、念願していたイングランド征服がやっとできた。お前達の
協力には深く感謝している。母上も草場の陰からさぞお喜びかと思
う。しかし、本当のイングランド征服は、むしろこれからだ。外にいる
国民のあの声で判るだろう。これからが本番なのだ! 」

「わかっております」
4名は、誰からともなく手を出し、ガッチリと握りあった。

鐘は、まだ鳴り続けていた。



             (完)


2年半の長期連載にお付き合い頂き、深く感謝いたします。

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