「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第19章 楯の壁、ヘイスティングズの戦い(その2)



ウィリアム公は部将を集めた。

「見よ。丘の上の楯の陣も、かなり弱くなってきた。ここが勝負時だ。
よく聞け!策を授ける。
まづ、オドの率いる兵は、伏せ勢として横手の繁みに隠れて待機せ
よ。その他は、全軍を挙げて、第三次の攻撃をかける。
乱戦になったら、しばらく揉み合いを続けよ。ただし、余が「退却」と
叫ぶから、余の軍を中心として、総崩れの恰好をとり、丘の中腹まで
負け戦の芝居をして逃げよ。
これは、楯の壁からサクソン兵を誘い出すのが目的である。
楯の割れ目ができた時に、総反撃を行う」

「承知しました」

第三次の攻撃が挙行された。
何とかして壁を破ろうと、騎士団が馬を突っ込ませた。
再び円陣の周辺で乱戦模様となった。

ノルマン軍団は、ウィリアム公の指図通り、押され気味に攻撃した。
旗色の冴えない頃合いを見て、ウィリアム公は全軍に総退却を命じ
た。

これを見て、サクソン農民兵が追撃を始めた。
ハロルド王や部将達が「戻れ!」と命じても、彼らの耳に入らなかっ
た。
サクソンの農民兵が振りかざす大斧に、百戦錬磨のノルマン兵が、
タジタジとなっているではないか。



楯の壁から、続々とサクソン兵が飛び出していった。
早暁から、ジッと耐えに耐えて、固い守りを続けてきたのは、この反
撃のチャンスを掴むためではなかったか。
勝利は今だ!と錯覚して、抑えに抑えていた「突撃」の声を出し合い、
ノルマン兵に立ち向かっていった。

サクソンの農民兵達には、ノルマンの騎士達が馬を巧みに操りなが
ら後退していくのを、芝居だと見破る眼力は無かった。
ノルマン騎士団が後退し、丘の中腹には、サクソン兵が勝ち誇ったよ
うに、威勢の良い声を響かせていた。

ハロルド王の周囲には、平素から良く訓練されている僅かの家中戦
士達しか残っていなかった。
楯を持った兵士達は、円陣を維持してはいたが、バラバラと隙間ので
きた、厚味のないものとなっていた。形ばかりの楯の壁となった。


突然、横手の繁みから、伏せ勢が立ち上った。ウイリアム公の異父
弟、オド大司教の引率するルーアン騎士団であった。
オド大司教は、聖職者の一員であつたから、剣を帯びることは許さ
れない。その代りに、錫杖を持って全軍を指揮していた。

これを合図に、ノルマン軍団が立ち直り、攻勢に転じた。平地でも、
丘でも、騎馬隊が暴れ回り、一斉に丘の頂を目がけて駈け登ってい
った。戦闘の流れが激変した。



サクソンの農民兵は、見る見る蹴散らされ、楯の壁のあちこちに、隙
間が生じた。
その隙間に、すかさずノルマンの勇猛な騎士達が馬を乗り入れた。
こうなっては楯の壁は脆かった。家中戦士達は、急いで残兵を集め、
王の周辺に小さな楯の円陣を作った。

ウィリアム公は弓隊に前進を命じた。

「目標はただ一つ。あのウェセックスの竜旗を目がけて、大空高く、楯
の壁奥深く矢を射込め!」
この射撃によつて、ハロルド王の左の目に深く矢が刺さつた。激痛が
走った。
「残念!無念!」



ハロルド王は、この矢を引き抜いた。流れ滴る血を拭う間もなく、馬を
寄せて襲いかかって来たノルマンの騎士に、自ら大斧を振りかざして
立ち向かった。

しかし、傷の痛みは激しく、目が眩んだ。

王は、遂にノルマン騎士の打ち下す剣を肩に受けて、ドウッとその場
に斃れた。
王を守ってきた子飼いの家中戦士達は、最後まで踏み留まり、倒れ
た王の側で戦い続けて、全員壮烈な戦死を遂げた。
王弟ギルス伯、レオフィネ伯の屍体も重なつていた。

ウェセックスの竜旗は倒れた。長かった一日の大激戦は終わった。
西の森に、真赤な夕陽が沈みかけていた。

サクソンの兵士達は、裏の森に逃げ込んだ。
しかしウィリアム公は追撃を厳しく禁じた。夕闇の森の中ではノルマ
ン兵に不利である。今は一兵たりとも失ってはならない。
ウィリアム公は全軍に終結を命じた。

彼は整列した将兵達とともに、ノルマンディにも聞こえよと力強い勝
鬨をあげた。
ウィリアム公の足許には、ハロルド王の遺体が横たわっていた。



ウィリアム公は恐怖にわなないている村人達を集めた。
「汝等の王であったハロルドの遺骸は、余が貰っていく。しかし余が
イングランド王となった暁には、今この遺体のある場所に、必ず聖堂
を建立し、ハロルド王をはじめ、両軍の英霊を弔ってやろう。
汝等は、ご苦労だが、敵味方を問わず戦死者を此処に埋葬してくれ。
これがその埋葬料だ」

と、ウィリアム公は、年老いた農民達に、何がしかの金子を与えた。


ウェセックスの州都ウィンチェスターの城内には、ハロルド王の生母
イーサと、エドワード懺悔王妃であった姉のエディスがいた。
この二人から、ウィリアム公の許へ、使者が到着した。

「どうかハロルド王の遺体を引き渡すようお願いいたします。
ハロルド王の遺体と引き換えに、王の体重と同量の黄金を、献上し
てもよろしゅうございます」

ウィリアム公は、フンと鼻でせせら笑った。

「愚かな女どもの考えそうなことよ。さっさと帰ってこう伝えるがよい。
ハロルド王は、国を守るために、命を捧げられたのだ。それに最もふ
さわしいサセックスの海岸の、しかるべき処に、余が丁重に葬ってい
るとな」

幕僚達がドッと笑った。
使者は、生きた心地もせず、ほうほうの体でウィンチェスター城に逃
げ帰った。

その時ハロルド王の遺体は裸にされて、ヘイスティングズの海岸の
砂利のなかに埋められていた。

敵王に対するせめてもの心尽くしトシテ、紫のローブに包んではいた
が、十字架すら立てさせなかった。僅かに目印の、それも一部の者し
か知らない、ありふれ岩が傍に置かれていた。

「遺体は当分の間、アングロサクソン人どもに、渡してはなりませぬ。
彼らは、ハロルド王を殉難者として崇め、挙国一致して我々に抗戦
する体制作りに利用するでしょうから」

とのウォルターの献策によって、手早く隠されたのであった。




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