「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第16章 流血、スタンフォード橋(その1)


ノルマンディ公ウィリアムが、イングランド侵略の準備を着々と進めて
いる様子は、
ノルウェー王ハラルド・ハードラダの許にも、次々と報告されていた。
7月に入ると、ハードラダ王は、国中のヴァイキングの部将達に「7月
末迄にトロンヘイム・フィヨルドの湾口、ソルンド島に集結せよ」と檄
(げき)を飛ばした。
トロンへイム湾は、ノルウェー西海岸のほぼ中央にある大フィヨルド
である。湾の奥ニダロス(現在のトロンへイム)の町には歴代の王の
離宮があった。

ハードラダ王は妃や王子達を伴って、夏の間はオスロからこのニダロ
スの離宮に滞在していた。
港には、旗艦として特に新造されたドラゴン号が浮かび、最終工事が
忙しく進められていた。
沖には、各地から集結したヴァイキングの船が、そこかしこに投錨し
ていた。出発の準備は、ほとんど整った。



ところが、ある夜、不思議なことが起こった。ハードラダ王と、主な部将
達が、申し合わせたように、不吉な夢を見たのである。

或る者は、魔女が狼の口に次々とヴァイキングの戦士達を投げ与え
る夢を、また別の者は剣をぶら下げた魔女と、全船に止まる大渡鴉
(オオワタリガラス)の群を見た。
魔女は「この鴉の餌は、船の中にあるよ、イヒッヒッヒ」と、笑ったという。
王自身の夢には異母兄オラフ聖王が現われ、
「汝の遺体は、魔女の乗る鴉に喰われるぞ」
と危難を告げた。




旗艦ドラゴン号には、白地に大渡鴉が黒々と羽を拡げている旗幟(の
ぼり)が翩翻(へんぽん)と翻(ひるがえ)っていた。
「大渡鴉」それは悪魔の鳥、不吉な鳥として、欧州の人々に忌み嫌わ
れていた。
ハードラダ王は、この魔鳥を自分の旗幟の模様にしてきた。
今にも獲物に襲いかからんと、嘴を開き、鋭い爪を立てている姿は、
苛烈王と異名をとるハードラダそのものであった。
ハードラダ王と魔下のヴァイキングは、北海周辺に猛威をふるってき
た。
「大渡鴉」の旗幡の下に馳せ参じたヴァイキング達は、再び大略奪の
夢を描いていた。

ところが、その大渡鴉が、自軍を餌にするという不吉な夢である。
今まで夢見など意にも介さなかったハードラダ王ではあったが、これ
らの報告には、何か心に引掛かるものがあった。
(豪胆と定評のある自分が、この年になって憶病風に吹かれて進攻
を見合わせたと噂されては、ハードラダ一生の名折れだ)と思った。

王は、部下の不安を鎮めるために、オラフ聖王を祀る聖クレメント大
寺院に参詣した。
ハードラダ王は、自らの爪と髪を切り、聖王に捧げて、無事を祈った。
その捧げ物を悪魔が横盗りしないようにと、聖王の神殿に大きな錠を
掛けた。鍵は、部下の見守る中、深いフィヨルドの海中に投ぜられた。

「見よ、神殿の鍵は最早魔女とて得ることができまい。聖王は我等を
守り給うであろう。夢見のことは、一同忘れようぞ。大渡鴉は、今まで
通り敵に襲いかかると心得よ」
と、大声をあげた。
王はかすかに残る迷いを振り切るかのように、傲然と肩を張ってドラ
ゴン号に向かった。
乗船するや、その舳先に立って、2百隻の大船団に出帆を命じた。




最初の碇泊地は、南西海岸の良港ソグネ・フィヨルドとした。
ノルウェー最長のフィヨルドであり、夏なお雪を頂きそそり立つヨートン
ヘイメン山地から流れるヨステダルスプレ氷河は、すぐ海に迫り、フィヨ
ルドの深さは約千米もある。
何度見ても見飽きない美しい景観に、同行しているエリザベス王妃や
王女達は喜んだ。
このフィヨルドで、物資の補給を完了した。

ソグネ・フィヨルドから東風を帆に受けると、スコットランドの北端、オー
クニー諸島は至近距離である。

オークニー島に渡ったのが8月中旬である。この諸島の南部に、スキ
ャパ・フロウと呼ばれる天然の良湾がある。いくつかの島が取り囲み、
どのような方向から吹く風もさえぎって、常に波穏やかな湾である。
オークニー島も、ハードラダ王に臣従するノルウェー領であった。

ここで小休止をして、スコットランドの漁夫達を兵として徴募した。
この時代は、どこの国でも漁師と海賊の区別がつきにくい。少し時代
は下がるけれども、わが国の源平時代の熊野水軍や村上水軍など
の下級兵士達が、半農半漁を生業にしながら、時により兵士となり、
海賊となるのと似ている。
金次第で、どのようにでも仕事をする荒っぽい漁師達であるが、今度
の戦には半ば強制的に雑兵に徴役された。
ハードラダ王の水軍は、一層充実した。




夏もそろそろ終ろうという9月1日、王は、7千を越す全将兵を集め、
イングランド進攻の大号令を発した。
王妃と王女達は、オークニー島に残した。勝算は十分あった。
「2ヵ月もあれば、お前達をロンドンの王宮に迎えることになるだろうよ」
と、ハードラダ王は王女を嬉しがらせ、いつもの出陣と同じように王妃
に軽く別れの接吻をした。

戦いが何より好きなヴァイキング達である。しかも、軍船2百隻という大
水軍であった。
王の大号令下、気勢の上った船団は、スキャパ・フロウ湾を出ると、ス
コットランド東部海岸沿いに、一路南下した。
フランダースから合流するトスティ卿の船団とは、スコットランドとイン
グランドの国境に近いタイン河の河口で落ち合う約束である。
現在のニューカッスル・アポン・タイン市の郊外、タイン・マウス附近で
ある。



9月6日――
ハードラダ王魔下の大水軍は、波静かなフォース湾に入った。
南岸の丘に、スコットランド屈指の名城エジンバラ城が、次第にその
姿を現わしてきた。
丘の上、ひときわ峻険な岩山に築かれたこの城を見たヴァイキングの
若者達は、武者震いを覚えた。ノルウェーを発って初めての経験であ
った。



鉄器時代から、この丘は要地であった。
紀元7世紀に、ノーザンブリアのエドウィン王が、岩山の下に城邑(バ
ラー)を築いた。その「エドウィンの城邑」が、エジンバラの起源である。
11世紀になって、マルコム3世の曾祖父マルコム2世がこの城を奪い、
スコットランド南部を抑えるため、本格的な城砦構築を行なっていた。

ハードラダ王の船団が南下中との報告を受けていたスコットランド王
マルコム3世は、フォース湾の北岸にあるダンファームリン宮殿を出て、
要害の地エジンバラ城に居を移していた。ハードラダ王には油断でき
なかった。万一の場合に備えたのである。

ハードラダ王は、若干の部下を率いエジンバラ城を訪れた。
ケルト民族の根強い反アングロサクソン意識を承知しているハラルド・
ハドラダ王は、マルコム3世に、
「連合軍を結成して、ハロルドの奴に、一泡吹かせてやろうではないか」
と、申入れた。

が、マルコム3世は、
「折角のお申出ながら、今のところ国内の統治に追われて、イングラ
ンドとの戦に兵を割くわけにはいかない情勢にある。だがトスティ卿に
はできる限りの支援はした」
と、ハードラダ王の申入れを婉曲(えんきょく)に拒絶した。
彼は遠来のノルウェー王に対して、接待の申出すらしなかった。





義兄弟の盟を結んだトスティ卿のいないイングランドを攻めることには
異存はなかったが、さりとはいえ、スカンジナビヤ・ヴァイキングのノル
ウェー軍団が、イングランドを征服することには、内心面白くないという、
屈折した感情があった。
シェトランド諸島やオークニー諸島をはじめ、スコットランド北部の海岸
地帯が、ノルウェー・ヴァイキングに侵蝕されていたからである。

マルコム3世の冷やかな態度に、高慢の鼻を折られたようなハードラ
ダ王は,足音も荒くエジンバラ城を後にした。直ちに全船に出港を命じ、
目的地タイン河に向かった。
見覚えのある竜頭の船首を揃えたヴァイキング大船団が、噂に聞く大
渡鴉の旗印の下に、一路南進する様子を、スコットランド東部海岸の
人々は不安な眼指しで眺めていた。

一方、フランダースの領主ボールドウィン辺境伯から援助を受けたトス
ティ卿は、百隻の船団を率いてタイン河に到着した。
ノルウェー王とトスティ卿の両軍は、再び、
「スコール!」「乾杯!」
とばかり、ビールを飲み干し、士気はいやが上にも盛り上った。



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